1-13

 ぽつぽつと弱く窓を打ち始めていた雨粒も、次第に窓ガラスを割らんばかりの強さで降り出した。微かに内蔵が震えるような轟が足元で揺れる。遠くで雷が鳴っているようだ。

 不安げに揺れる蝋燭の火がオレンジ色に照らす室内では、老爺と少女が向かい合って座っていた。

 老爺の左目は、暗闇に光を喰われた太古の生物のように白く濁っている。右目だけが片眼鏡によって不気味に拡大され、薄茶色の瞳が過去に思いを馳せていた。

 それを揺らぎのない瞳でじっと見つめるのは、秘密の花園に咲く小さな花弁の如く、桃色の髪を惜しげなく背中に垂らす少女だ。蝋燭の光に照らされてキラキラと輝きながら、少女が身動みじろぎをするたびに一緒になって空中を泳いだ。

「……目を覚ました時には、ミラは薬師長からの命令でヤタエ村に向かったと聞いた。私は煙病に罹り、それから丸一週間は身動きが取れなかった」

 ディビアンが低く抑揚のない声で話している。ナターシャが、うんうんと頷きながら話を聞いていた。ナターシャが頷くたびに、桃色の髪が後を追って波打つ。

「同時にアグレイも宮廷薬師を辞職し、ミラと共にヤタエ村で薬屋をやるらしいと聞いた。私はそれを聞いた時……」

 細くゴツゴツとした指を絡め、力を込める。爪の先まで清潔さが行き届いた手は、薬師長として誇りを抱く者の手だ。

「それを聞いた時、私は悲しみや孤独、そして怒りを覚えた。感情に任せ、軽率な行動を取ったミラに対して。現状を変える努力もせず、問題からただ遠ざかることしかしなかったアグレイに対して。そして、後輩と友の為、肝心な時に何も出来なかった、愚かで無力な私自身に対して」

 ディビアンは目を細める。アグレイと話していた時には見えなかった表情だ。僅かな自責の念。古い生き物が地上へ登ることを諦め、暗い海の底から虚ろに立ちすくんでいるかのようだ。

 桃色の瞳がそれを覗き込む。ディビアンに同調するでも、責め立てるでもないその瞳は、ただ純粋な興味だけが輝いていた。

「……結局、その事件の犯人はジェスターとやらだったのか?」

「さてね。全ては憶測の域に過ぎん。ミラとアグレイが宮廷を去った後、協会の中は酷く混乱した。それほどふたりの影響力というものは強く、特にミラを慕っていた若い薬師達がこれを機にと思ったのか、ジェスターに受けていた数々の被害を暴露し始めた。結果、アトキンス薬師長は辞職、ジェスターも過去の愚行の責任を負われ、気づけば部屋はもぬけの殻。それからしばらくはトップのいない組織が続いたが、数年前に選挙にて新たな薬師長を立てることになった。それが私だ」

 ディビアンは襟元のブローチを指で撫でる。シルバーのシンプルなブローチに彫られたシルエットは、植物のようにも見えるし、人の横顔のようにも見える。このブローチがある事が、薬師長である証だとディビアンが教えてくれる。

 ナターシャはそのブローチをじっと見て、それからすいっと目線を上げる。

「なあ……ってなんだ?」

 ここで過ごした数カ月の間、何度も耳にした単語だ。

 ディビアンは自身の左目に触れる。薬師としての汚点であり、愚かな自分への戒めを込めた瞳を。

「"煙病"とは感染症の一種だ。雨の季節から狩の季節へと変わる時……丁度今ぐらいの時期に流行する。まだ解明されていないことが多い謎の病気だ」

 ピカッ!窓の外が光る。遅れてゴロゴロ……という低い音が轟き、蝋燭の火が驚いたかのように僅かに揺れた。

「まだ有効な治療法は発見されておらず、毎年数名の死者が出る。治ったとしても失明や難聴などの後遺症が残る。まるで煙の中にいるような……息苦しい中でゆっくりと身体を蝕んでいくその症状から、煙病と名を付けられた難病だ」

「そう、そして娘が亡くなった原因でもある」

 かすれ気味の小さな声に、ナターシャが振り返る。扉が開かれた寝室ではアグレイがベッドで横になっている。

「アグレイ、気がついたのか!?」

 駆け寄ると、アグレイがゆっくりと瞼を開け、優しい眼差しでナターシャを見た。皺だらけの大きな手でナターシャの頭を撫でる。ディビアンもその後ろから覗き込む。

「……すまないな。家の事情をべらべらと喋ってしまった」

「いや、良いんだ。こんな状況で隠しておく方が無理がある……」

 アグレイは指先を動かすのも億劫だというふうに、酷くゆっくりな動作で手招きをする。ナターシャが近くに寄ると、いつものように静かな声で囁いた。

「ワシの書斎の奥にある化粧棚……写真が立て掛けてある小さな机の引き出しの中に、ミラが残した日記がある。それをアインに届けておくれ」

 ナターシャはうん、うんと何度も頷く。

 アグレイも一度頷くと、重たい瞼を閉じ、ベッドに沈みこんだ。

「ワシは読めなかった。それにミラの魂が宿っている気がしてならなかった。一度開いてしまえば、ミラの魂は自由になり、ワシの元から去ってしまうのではないかと……いや」

 白く短いまつ毛が震える。

「ただ恐ろしかったのだろう。三年間も放置した挙句、大事な時に寄り添えなかったワシを、ミラは恨んでいるのではないかと。そう思うと、中を読む気にはとてもなれなかった」

 ナターシャは書斎に入り、キョロキョロと辺りを見渡す。

 窓から離れた場所にひっそりと身を潜める小さな化粧棚には、黒いレースを被せられた写真が立て掛けられている。

 うっすらとレース越しに透けて見えるのは、三人の人物だ。色は褪せているが、真ん中で座る女性の精悍せいかんな顔つきは、アインにそっくりだと思う。

 引き出しを引っ張ると、コン、と軽い音がした。しっかりと装丁された小さめのダイアリーが入っている。

 ナターシャはそれを丁寧な手つきで取り出す。と、本の影に隠れていたのか、ころころと小さな瓶が転がってきた。

 アインの秘密基地にも無数に転がっていた、シンプルで透明なガラスの瓶。コルクで栓をされたそれに、ラベルは付いていない。中身は透明な液体で、軽く振るとちゃぽちゃぽと音が鳴った。ナターシャは首を傾げながら日記と小瓶を一緒に取り出し、アグレイの元へと戻る。

「なあ、アグレイ。これ……」

「ナターシャ、話がある」

 ナターシャは、はっとする。

 アグレイはいつの間にか上体を起こしており、強い眼差しで真っ直ぐにナターシャを見ていた。顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだが、側で座るディビアンは何もせずにただ見守っている。

「今まで文字を教えてきた恩とでも思ってくれ。もう幾ばくもないじじいの、後にも先にも一度きりの願いだと思って聞いてくれ」

 ナターシャは猛烈にやるせない気持ちになるが、その気持ちをどうしても言葉にできない。自分の中に、それを表現する言葉を見つけられないのだ。

 アグレイの元に再び戻り、静かに跪く。蝋燭に照らされたベッドの上の白髪の老人と、神秘的な桃色の髪の少女の姿は、まるで一枚の絵画のように耽美で、息遣いで崩れてしまうのではないかと思うほど繊細だった。

 アグレイはベッドの傍らで跪くナターシャを見下ろし、真剣な表情で口を開く。

「ワシがいなくなった後は、旅に出なさい。僅かだが貯金もある。薬師協会からの補助金も出るから、それらはアインと分けなさい。女神が寄越した悪戯いたずらか、誰かが望んだ奇跡なのかは知らんが、お前さんは世界を見る義務がある」

 ナターシャは目を丸くする。

 アグレイは『いなくなったら』と言った。

 その意味が分からないほど、ナターシャは愚かではない。

「……そんなこと、自分に言ってどうするんだ」

 やっと絞り出した声は震えている。

 締め付けられる胸から何とか言葉を紡ぎ、溢れそうな感情を必死で抑える。

 今ではない、と本能で理解していた。

「お前はアインのおじいちゃんなんだから、アインに言わなくちゃダメだろ。ちゃんとお前の言葉で伝えないとダメだ。仲直りしないとダメだ!」

 ナターシャは立ち上がり、その場で地団駄を踏む。ナターシャが動く度、桃色の髪が波打って音もなく煌めいた。

 驚いているアグレイに、ナターシャはビシッと指をさす。そして真っ赤にした顔で、

「自分がアインを連れ戻してくる。そしたらちゃんと仲直りしろ!お前が自分に教えてくれた温かくて綺麗な言葉で伝えるんだ。いいな、絶対だぞ!」

 そう叫ぶと、玄関扉を開けっ放しにしたまま外へと飛び出して行ってしまった。

 アグレイとディビアンは、ふたりして勢いに揺れる扉をただ見つめている。やがてアグレイは、張り詰めていた気が抜けたのか、急に痛みを堪えるような表情になり、ベッドに倒れ込んだ。深く長いため息を吐く。

「……ワシは昔、教師になりたかった。父親が学校の教師をしていてな。それに憧れていた」

「知っているよ。前に君が話していたじゃないか」

「だが父親は反対し、ワシもそれに従って教師になる夢を諦めた。今思えば、その選択は正しかったのかもしれない。ワシに教育は向いておらん……」

「はは」

 ディビアンが笑うと、アグレイは怪訝な顔で見上げる。

 ディビアンがアグレイの額に浮き出る汗を拭う。

「見て分からないのか?アイン・ウィルグはミラに似て、諦めが悪くて意地っ張りで負けず嫌い。君の教育は成功しているよ」

「なに?」

「未来とは得てして若者が創り上げていくものだ。誰かに何かを言われただけで信念が挫けてしまうようなら、良い未来が築かれるのはまだまだ先だ。彼は強く育った。そして彼女も」

 アグレイはディビアンの顔を見る。

 片目を失った旧友は、それでも尚未来を見据えていた。もう見えないはずの目には何が映っているのか。

「……そうだなぁ、ディビアン。ひとまず後で、人に指をさしてはならないということを教えてやらにゃあいかんな」

 アグレイは軽く笑う。そしてゆっくりと迫り来る眠気に抗いながら、ディビアンと昔話を語らうのだった。

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