1-14

 その日、幼いヒリナはひとりで留守番をしていた。父と母が畑仕事に行くのを見送り、ご飯を作って食べ終え、窓から外を眺めていた頃だった。

 二階の窓から顔を出せば、両親がいつも汗水垂らして働いているはずの畑が見える。それをずっと眺めながら、隣の奥さんが洗濯物を干しながら口遊くちずさむ歌を聞くのが大好きだった。

 だからヒリナは、空の向こう側から次第に近づいてくる異物に気がついていた。

 空を飛んでやって来た、見たこともないような黒い鳥のようなものが、ウウウウ、と低い唸り声を上げながら何羽も村の上を旋回したかと思うと、その腹からつぶてを落とした。

 不吉に反射する礫は畑の真上に落下すると、強烈な閃光と共に爆音を上げ、周辺一帯を吹き飛ばし、瞬く間に消し炭にしてしまった。

 ヒリナはその光景を見ていた。何が起こったのか理解する間もなく、黒い不気味な鳥獣達は次々に礫を落としていく。沢山の野生動物が憩いの場として集う泉に。子供たちが今まさに遊んでいる公園に。数軒先にある、よくお菓子を分けてくれるおばさんの家に。

 一瞬にして辺りは火の海と化した。

 青く澄み渡っていた空も、緑生い茂るのどかな畑も、住民全員で苦労して造り上げた民家も、全てを飲み込む赤に燃え盛り、崩れ落ちていく。

 幾度も大きな揺れが襲い、ヒリナは部屋の中を右へ左へと転がった。立ち上がり部屋から出ようとした時、一際大きな衝撃が家全体を揺らし、倒れてきた棚にヒリナは押し潰されてしまう。

(───痛い!!)

 鈍い痛みが全身を襲う。何とか抜け出そうと藻掻くも、幼い子供の力ではびくともせず、気がつけば部屋の中にまで火の手が回ってきていた。

 黒くくすぶる炎がすぐ近くで燃えている。痛みにも似た熱さが辺りを支配し、喉も肺も、体の中まで燃えているようだった。

(熱いよ、苦しいよ!パパ、ママ……!)

 大声で叫ぶも、声が出ない。

 外ではまだ、あの黒い鳥の重低音が響いており、それに混じって人々が泣き叫ぶ声や怒号が聞こえてきた。誰もヒリナの事に気がついていないのである。

(もうダメ……パパもママも、きっと死んじゃった。私もここで死ぬんだ……!)

 重たい棚に潰されて体は動かない。息もだんだん出来なくなって、ただ苦痛と恐怖に支配されていく。幼いながらもヒリナは、そこで死を悟った。

(あの子……森の近くに住んでるあの子は大丈夫かな。綺麗な髪の色をした、男の子。あの子はまだ小さいんだし、死んじゃダメだよ……)

 体が抉られるように痛む。怖くて見ることが出来ないが、恐らく衣服にも引火しているのだろう。

 絶望的な状況に、ヒリナは抵抗も出来なくなった。きっとこのまま、誰にも知られずひとりぼっちで焼け死んでいく。

 ガラ……

 ガラガラ……

 何かが崩れるような音が近づいてくる。家が少しずつ倒壊していっているのだろうか。

 音が近づいてくるにつれ、次第に人の声も聞こえてきた。大人の男の声だ。何かを叫んでいるようだが、耳鳴りが酷くてよく聞こえない。何かを、誰かを呼んでいるようだ。

(…………!……ナ………ヒリナ………!)

 ヒリナ、と聞こえた。何度も何度も叫んでは、瓦礫をどかしながら近づいてきているようだ。

(ヒリナって……私のことかな……?)

 煙で薄れる視界の中、階段を上がって誰かが部屋に入ってきた。声も鮮明に聞こえるが、どこか反響していてうまく聞き取りづらい。

(ヒリナ!ヒリナちゃん!どこだ、返事してくれ!)

 人影は何度も咳き込みながら、部屋の中を歩き回る。脚の折れたテーブルをひっくり返したり、箪笥たんすの戸を開けて中を確認したりしている。

(探してる……私を、探してるんだ……!)

 返事をしようとするが、喉が痛くて声が出ない。人影はそうしている間にもどんどん遠ざかっていく。

 ヒリナは体の痛みに耐えながら、力を振り絞って床を叩いた。ぺちん、と小さな音が鳴る。

 ヒリナは何度も床を叩く。ぺちん、ぺちんと規則正しい音に、ようやく人影が気付いた。

 その瞬間、天井が崩壊し、瓦礫がヒリナの上に落ちてくる。潰される、そう思って強く目を瞑るが、予想していた痛みはやって来ない。

 そっと目を開けると、男がヒリナの上に覆い被さるようにして守っていた。

(よく頑張ったね……もう大丈夫だよ!)

 男はそう言うと、煤だらけの顔で爽やかに笑った。男の額から頬にかけて、真っ赤な血が流れる。

 男はヒリナの上に乗っかっていた棚を力任せに持ち上げると、そこからヒリナを救い出した。ヒリナの服で燃える火を自身の体で覆って消すと、男はヒリナを軽々と抱き抱え、猛ダッシュで部屋から出ていく。その間もずっと大丈夫だよ、と声をかけ続けていた。

 ようやく家から助け出されたヒリナを、近隣の住民たちが待ち構えていた。男からヒリナを受け取り、水を持ってきてと指示したり、医者を連れて来いと叫んだりしている。

 ヒリナは助かったという安堵と、未だ薄れぬ恐怖から涙が止まらなかった。助けてくれた男に対してお礼を言おうと振り返ると、男はふらふらとよろけながらも、さっさと走り去ってしまっていた。

(イーゴが他の人を助けに行った!その間に医者を呼ぶんだ!)

(薬師ならもう既に重症患者を診ている。とにかく手が足りないんだ。協会にはもう連絡したのか!?)

(さっき使いを送ったばかりだ。そんな早く届くはずないだろう!)

 周りが口々に話しながら、恐怖や焦りが次第に苛立ちへと変化していくのがわかる。

 ヒリナは男の背中を追いかけようと歩き、一歩踏み出したところで全身の痛みに襲われて転んでしまう。

 男は轟々と燃える炎の中に消えていく。手を伸ばしたところで届くはずもなく、ヒリナはそれをただ見ることしか出来なかった。

(待って……待ってください、まだお礼を言ってないのに……イーゴさん。そっちに行ったら死んでしまう。アインの、お父さん……)


 ぼんやりと重力に引かれてヒリナは目が覚める。目の前は焼けた村の残骸ではなく、木目調の見慣れた天井。

 横を向けば、すりガラスのドーム状ランプが柔らかい光を放っている。ピンクやオレンジを基調とした可愛らしい家具が並べられ、手編みのレースを掛けられた棚の上には鳥の形のマグカップ、ヒノメリカの紅茶と虫時計が置かれている。虫時計は透明なガラスの筒の中に、飾りの木の枝と、それにくっついて動かない黒くて丸い虫が一匹。

 紛れもない、自分の部屋だ。

 頬に触れれば、しっとりと肌が濡れていた。泣いていたらしい。そういえば、昔の悪夢を見ていたような気がする。

(なんだかいい匂いがする。小さい頃、風邪をひいた時にママが作ってくれたお粥の匂い……)

 そう思っていると、キッチンからひょっこりと誰かが顔を出した。浅葱色のサラサラヘアに、少年とも少女とも見れる中性的な顔立ち。ペリドットの大きな瞳が揺らいだ。

「……アイン?」

「気がついたのか!良かった、解熱剤が多少は効いているみてーだな」

 アインがまだ成長途中の小さな手のひらをヒリナの額に当てる。ひんやりとした手のひらは気持ちよく、ヒリナはほんの少しだけ心が落ち着いた。

 喉の奥がせり上げ、咳が出る。乾いた咳をする度に肺が痛み、空気が苦しそうな音を立てる。

「まだじっとしてろ。薬草でお粥を作ったけど、無理して食わなくてもいい」

「うん……アインはどうしてここに?」

 アインは少し罰の悪そうな顔をし、もごもごと口篭る。

「……じーちゃんと喧嘩して、家出してきた」

 ヒリナは驚いて飛び起きようとするが、アインにそれを押さえつけられる。大人しく布団をかぶり、心配そうにアインを見上げた。

 今までアインがアグレイと喧嘩しているところは何度も見てきたが、しばらくすれば二人とも冷静さを取り戻し、仲直りするのがいつもの風景だ。

 アインはヒリナより年下とは思えないほどの落ち着いた性格や思考をしている。家出という子供っぽいことをするだなんて意外だった。

「じーちゃんはオレに諦めが悪いって言うけど、諦めが悪いのはむしろじーちゃんの方だぜ。老人ってほんと、頭がかてーよな」

 アインは明るく笑い飛ばす。作りたてのお粥を皿によそい、ベッドのそばにある花柄のミニテーブルに置いた。ほかほかと湯気を立てており、ほんのりと花の香りがする。とても美味しそうだ。

「薬師になればこんな時、ヒリナの事も助けてやれるのによ。それを反対するなんてどうかしてるよな」

 ヒリナはゆっくりと上体を起こし、お粥をテーブルから持ち上げ、膝の上に置く。ぷりぷりに輝く麦と細かく刻まれた野菜が彩り美しい。小さな匙で掬ってひと口食べると、程よい塩気と甘みに加え、豊かな花の香りが鼻から抜けていく。

「……どうしたんだよ?」

 アインの心配そうな声に、ヒリナは自分がまた泣いていることに気がつく。匙を咥えたまま、ぼろぽろと涙が目から溢れ出てくる。

 アインはおろおろと涙を拭くものを探し、テーブルの上の布巾に目を留め、さすがにこれは無いなと思い止まる。

 ヒリナは服の袖で忙しなく涙を拭う。

「……アインはどうしてそこまで薬師になりたいの?」

 アグレイの言い分も理解出来る。実の娘が不当な扱いを受け、その末に命を落としたのだとすれば、大切な孫を同じ目に合わせたくないというのは当然のことだ。頭のいいアインの事だから、祖父の気持ちがわからないはずがない。

 ならばなぜ、そこまで頑なに薬師を目指すのか。

「それってもしかして、私のせい?」

「え?はは、何言ってんだよ」

 アインは突拍子もない話題に笑うが、ヒリナの涙で潤んだ大きな目が真っ直ぐに見ていることに気がつくと、アイン自身も真剣な顔つきになった。

「……何でそう思ったんだ?」

「ヤタエ村が空襲に遭ったあの日、瓦礫に潰されて動けない私をアインのお父さんが助けてくれた。でもイーゴさんは……死んでしまったわ。それは多分、私のせい……」

「何でそうなるんだ!父さんはヒリナを助けた後、他にも逃げ遅れた人を全員助ける為に走り回った。それに死因は外傷に加えて火傷や煙による後遺症だし、それはヒリナのせいじゃない!」

「私を庇ったせいで負った傷がなければ、死ななかったはずだわ!」

 喉の奥がきゅっと締まる音がし、ヒリナは口元を両手で抑えて激しく咳き込む。アインは慌てて水の入ったコップを渡そうとし、しかしヒリナの両手にべっとりと血が付いているのを見て、青い顔をしてコップをテーブルに置いた。

 煙病は火事の渦中にいるかのように、喉がただれ、肺が壊死していく症状が出る。この状態で水を飲むのは、血を飲み込んでしまう可能性がある。

 ヒリナはひゅーひゅーと苦しそうに息をしながら、自分の手に付いた血を眺めている。何を思い出したのか、その表情がとても幼く、後悔に溢れた表情になった。

「イーゴさんが私を守ったから……私の代わりに死んでしまったから………それを無駄にしない為にも、アインは薬師になるんでしょう?」

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