1-15
激しく叩きつける雨は、民家の玄関先に吊るされたランタンを吹き飛ばさん限りに揺らす。実際に幾つかは風に攫われ、何度も地面でバウンドしながら闇の彼方へ消えていった。
蝋燭の火はとうに掻き消えている。冷たい雨と風が吹き荒ぶだけの世界に人の気配は無く、無機質な暗闇だけが佇んでいた。
端から数えて五番目の家。そこはヒリナの借家で、いつもは風の日だろうと雨の日だろうと関係なく、楽しげに歌う声と下手くそなステップを踏む音、そして時々転けたのかと心配になるような悲鳴が聞こえてくるのだが、今日は何も聞こえない。
ただ泣き叫ぶように叩きつける雨だけが、世界を覆っていた。
「ごめん……ごめんなさい……」
小さな懺悔程度では、この雨にかき消されてしまう。
ヒリナは煙病による炎症なのか、何度も咳き込みながら、同時に嗚咽を漏らす。肺からは絶えず苦しげな音がし、手のひらは血で汚れていく。顔は赤かったものがだんだんと白くなっており、焦点も合っていない。ふらふらと倒れそうだ。
「ごめんね、アイン……私が……私が代わりに死んでいれば……」
アインは強く唇を噛む。握っていた拳を緩めると、ヒリナのぷっくりとした頬を包んだ。
「馬鹿!
額がくっつく程の近さで怒鳴る。ペリドットの瞳をきゅっと吊り上げ、ヒリナの大きな丸い目を睨むと、すぐに優しい表情へと変わる。
「ヒリナを庇って父さんが怪我した事は知ってるよ。父さんは、体が日に日に動かなくなって、ベッドで寝たきりの状態になった時でも自慢してた。『ヒリナの事は俺が守ったんだ、凄いだろ』って。それこそ死ぬ間際までずっと」
ヒリナをそっと横にし、布団を被せてやる。ヒリナが目を潤ませながら、アインの顔を見上げている。
「だからヒリナは、ただ覚えてくれてれば良いんだ。あの日の事を、父さんの事を」
優しい声色に安心したようにヒリナが小さく頷くと、赤く火照った頬を一筋の涙が伝った。
アインは棚の二段目に手を伸ばす。そこに救急箱が入っているはずだ。
ヒリナはアグレイの薬をよく買ってくれていたので、様々な種類の薬がそこに入っているが、目当てのものはそこに無い。
アインは家に取りに帰ろうかと思い、しかし家出してきたことを思い出して
「ヒリナ、止血剤を取ってくる。しばらく寝てろ」
そう言い残し、アインは玄関から外に出た。ちりん、と玄関扉の上部に取り付けられた鈴が控えめな音を鳴らす。
アインは玄関から出て一歩、秘密基地へ向かおうとして……足が竦んだ。そこから数秒動けずにいる体に、冷気を含んだ風が雨粒を容赦なく打ち付ける。
(迷ってる暇は無い……とにかく、止血剤と一緒に熱や炎症を抑える薬を持ってこねーと)
だが足が動かない。
秘密基地に行けばいくつかの薬がある。しかしここから山の奥まで往復するのにもかなりの時間がかかる。
アグレイがいる家に戻れば、必要な薬は揃うかもしれないが……アインは耳を澄ます。強風の中に混じって、あちこちから微かな咳の音が聞こえてくる。恐らくここら一帯で煙病が流行っているのだ。
(こんなに大人数分の薬は流石にない。じーちゃんに今から作ってもらっても間に合わない。それに煙病は今まで明確な治療法がない病気なのに、今ある薬でどうにかできるわけが無い。どうすれば……)
耳の奥で声が聞こえる。夢を見ているように反響しているそれは、雨音の中でもはっきりと聞こえてくる。
それはもう、嫌というほど。
───アインをミラの二の舞には絶対にさせんぞ!
───イーゴさんが私を守ったから……それを無駄にしない為にも、アインは薬師になるのでしょう?
(じーちゃん、違うよ。母さんなんか知らない、物心着く前にはもう居なかったんだから。ヒリナも、そんな事言うなよ。オレがそんな薄情な奴に見えるか?違う、違う、全部違う………)
ぐるぐる、ぐるぐると反響する言葉たちに、アインは思わず頭を抱える。何度も頭を振り、声を振り払おうとした。
(違う………!!オレは……オレは………)
「アイン!!」
耳元で呼ばれ、アインは我に返って顔を上げる。目の前には、夜に咲く幻の花のような桃色の瞳がこちらを見ていた。自慢の髪の毛は雨に濡れ、ぺったりと体に張り付いている。走ってきたのだろうか、息を切らしている。
「……」
「やっと見つけた……秘密基地に居なかったから、街中を探してたんだ」
「ナターシャ……」
「しかしこの街はどうしたんだ?何だか変な感じがするんだ。空気が
「ナターシャ」
「落ち着いて聞いて欲しいんだ。アグレイが……アイン?」
ナターシャは息を整えながら話していると、ふいにアインの様子がおかしな事に気がつく。
びしょびしょに濡れた体は小刻みに震え、腕はだらんと脱力している。白い肌はさらに青みを増し、暗闇に沈んでしまいそうなほど冷たい。
「オレがやりたい事って、やっぱり母さんや父さんの真似なのかな……?」
アインの声が震えた。
小さく、消え入りそうな声が、僅かな口の隙間から溢れ出る。いつもの自信に溢れている口調とは違い、そこに立っているのは、道に迷い途方に暮れる、年相応の少年だった。
「母さんが薬師だったからオレもなりたいと思ったのかな。父さんが皆を守ったから、オレも皆を守らなきゃと思うのかな。オレがやろうとしてる事って、本当にオレの意思なのかな……」
涙なのか、雨なのか、頬を雫が絶え間なく伝う。このまま流れる雨粒とともに、夜に溶けてしまいそうだった。
揺らぐ信念と決意。いくら大人びていると言われても、アインはまだ齢十四の少年だった。
「……知らない。自分は、アインの母親も父親のことも知らないから」
ナターシャの言葉に、アインが目を逸らそうとする。それを阻止するように、ナターシャは強い眼差しでアインを見た。
「でもアグレイのことは知ってる。アイン、アグレイが倒れた。自分はそれを伝えに来た」
「え……!?」
アインの顔がさらに青ざめる。細い体がふらりとよろけ、重心が前に傾く。
ナターシャは今にも倒れそうなアインの肩を支える。驚いたことに、その力は想像していたよりも強い。いや、恐らく彼女と同年代程の少年少女と比べても、明らかに筋力があると感じる。
アインの胸に何かを押し当てる。思わず受け取ると、それは固くて重量のある一冊の本と小瓶だった。
「選ぶんだよ、アイン。今すぐアグレイの元へ戻るか、ここに残って皆を助けるのか。それはアインにしか選べないことだ」
一際強い風がナターシャの濡れた髪を
「選べ!自分はアインが選んだ方を肯定しよう。そして、必ず力になると誓おう」
なんて残酷な話だろうか。どちらかを選べば、どちらかを失うことになると言うのに。
だが渦中の彼らだけが、選ぶ必要性を感じていた。
アインは初めて自分で選ぶということの重みを感じた。万が一にもアインが『逃げる』という選択肢を選んだとしても、ナターシャはきっと責めないだろう。だが手の中の日記帳だけが、その重量によって『逃げるな』と言うように存在感を放っている。アインは小瓶を強く握りしめる。
(馬鹿かオレは。ずっとオレはこうしたかったんじゃねーか)
アインは日記帳を開く。湿気を吸ってしっとりとした
次第に輝きを増す星灯によって、内容を読むのには困らない。アインが日記帳を読んでいるのを、ナターシャはただひたすらに黙って待っていた。
その間にもあちこちから咳き込む声が聞こえてくる。苦しさで眠れないのか、部屋に明かりが灯る家もある。
アインは日記を読む。読む。
頁を捲る速度が早くなっていき、日記帳も終盤の方へ差し掛かる。とある頁を開いた瞬間、アインは目を見開き、ぴたりと手を止めた。
指で文字をなぞりながら、じっくり、じっくりとその頁を読み進める。アインは日記帳に目を落としたまま小さく呟く。
「……あの薬草と水が大量に必要だ。あと鍋も」
「……!手伝う!」
「鍋ならそこらの家から集めればいいけど、小さい鍋で何回も水を汲みに行くのは骨が折れるな。薬草も大鍋も、秘密基地にあるのに……」
「わかった。走って取ってくる!」
「え?いや、ここから秘密基地までどのくらいあると……」
アインが日記帳から顔を上げた時、もう既にナターシャの後ろ姿が豆粒ほどに小さくなっていた。
アインはぽかんと口を開け、物凄いスピードで遠ざかるナターシャの後ろ姿を見送る。瞬く間に彼女の姿は大通りの先に消えていき、あっという間に見えなくなった。
(いくら何でも速すぎだろ!アイツ本当に何者なんだ……?いや、今はそれどころじゃねー。仕方ないから薬草と鍋はナターシャに任せよう。オレはオレに出来ることをするんだ!)
アインは両手で自分の頬を思い切り叩く。バチン、と良い音がして、じんじんと頬が痛みを帯びる。
目を閉じて細く長い溜息をひとつ吐き、次に瞼を開くと、そこにはいつもの冷静で聡明な瞳がペリドット色に輝いていた。
アインはナターシャが走っていった方向とは逆を向くと、病の渦巻く民家を訪ねて回った。
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