1-11
純白の壁と、巨大な注射器のように天を刺すとんがり屋根が特徴的な建物。薬師協会の一室。
ディビアンは資料室で日誌を書く手を止めて窓を見上げた。
いつの間にか空にはどんよりと重たい雲がかかっており、湿った空気を匂わせている。今夜は荒れるだろうか、とディビアンは何となく思った。
入口から扉が開く音がして振り返ると、丁度ミラが資料室に入ってきたところだった。胸に紙束を大事そうに抱え、薬草について纏められた資料をいくつか手にすると、比べるように読み始める。
「……研究は順調かね」
声をかけるとミラは顔を上げ、キレイな顔で楽しそうに笑う。
「はいっ、バッチリ!」
本当に楽しそうに笑うものだから、ディビアンまでつられて口元が緩む。彼女にはそういう力があった。
ちらりとミラが手にしている資料を見やる。内容まではさすがに見えないが、とても古い文献のようだ。
視線を感じたのか、ミラと目が合うと、彼女は少し
「もうっ、見ないでくださいよ!ディビアンさんのえっち」
「何がえっちだ。君が今何を研究しているのか全く教えてくれないのだから、そりゃあ気にもなるだろう」
「えへへ、秘密ですよーだ。これは百年もの歴史を揺るがす大発見なんだから……!」
ミラは子供のように笑うが、急に顔を歪めると口元を手で押え、その場に蹲ってしまう。
ディビアンは慌ててそばに駆け寄ると、埃がつくことも気にせず床に膝をつく。ミラの肩に手を添え、顔を覗き込んだ。
「どうした?大丈夫か?」
「うぅ……気持ち悪い……」
「毎日研究に没頭しているせいで疲れているんじゃないか?仮眠室で少し横になれ」
「大丈夫……ディビアンさん、アタシね」
ミラは数度深呼吸をすると、少しだけ顔色が回復したようだ。ディビアンにちょいちょいと手招きをし、耳元で小声で何か囁いた。
ディビアンは目を見開き、
「なんと……!それは、実におめでたいな」
「でしょー?ディビアンさんには一番に伝えたかったんだ!……あ、でも本当の一番は父さんで、二番目は旦那だけど……」
ディビアンはうんうんと頷く。
「何はともあれ、お腹の子の為にも無理は禁物だ。今日は休んで、疲れを取るがいい。女性の薬師を呼んでこよう」
「ありがとう……でももう大丈夫!」
ミラはぴょんっと跳ねるように立ち上がる。
「あと少しで研究の結果が出るんだ。今この瞬間、立ち止まってなんていられない。次の実験が立証されれば、世界中の多くの人を救うことが出来るんだから!」
ミラは棚から資料を何冊か抜き取り両腕で抱え、足で器用に扉を開ける。はしたないぞ、とディビアンが注意する。
「アタシの研究結果が出るのを首をながーくして待っててね。
ぱちんとウインクをし、ミラは資料室を後にする。閉まった扉の向こう側から、しばらく陽気な鼻歌が聞こえていたが、軽やかな足音と共にだんだんと遠ざかっていった。
「グラジオ、ね。古代メラージア文化にご執心なのも相変わらずのようだ」
ディビアンは呆れたように笑い、再び手元の日誌に目を落とす。
ゴロゴロゴロ……と空が重たげな音を転がした。部屋は次第に薄暗くなっていく……
ガシャーン!
雷の落ちる音がして、ディビアンは慌てて飛び起きた。
日誌を書き、博士に報告を終え、ようやく自室に戻ってベッドに潜り込んだところだった。
まあまあ近くに落ちたのではないか、と窓の外を見てみる。真っ暗で星の光ひとつ無いが、ザーッと音がすることから雨が降っていることが分かる。しばらく空を眺めていたが、稲妻のようなものは見受けられない。
ガシャン!ガシャン!
また音がした。
どうも雷の音ではない。ディビアンの部屋の窓側にはあの特大温室があり、そちらの方から聞こえてくるようだ。
窓から温室の方を覗いてみると、温室のガラス壁の一部が光に照らされている。オレンジ色で微かに点滅している。誰かがランプを持ってあそこに居るのかもしれない。
「………」
ふと嫌な予感がし、ディビアンは雨避けを羽織って部屋を出る。早足で建物を降り、外廊下を渡って温室へと向かう。
雨が降っている。ぬかるんだ地面に足を取られ、何度か転びそうになる。泥が跳ね、ズボンの裾を汚していく。
温室の扉は開いていた。濡れた足跡が通路に残っており、それは奥の小部屋に続いていた。ディビアンはゆっくり歩き、足跡が続く部屋、オレンジの光が灯る部屋へと歩を進める。
目的の場所に辿り着くと、誰かが立っていた。雨避けのフードを深く被り、蝋燭の火がオレンジ色に揺れるランプを片手に、ある部屋の前で佇んでいた。
ディビアンがすぐ側まで寄るも、その人物はこちらに気づいていないようだ。ディビアンはその人物が逃げないようにと、肩を強い力で掴んだ。
「そこで何をしている───!?」
掴まれた肩は細く、小刻みに震えていた。その人物が振り返る。見開かれた瞳には困惑と怒り。引き結んだ唇もふるふると震えている。
「ミラ・ウィルグ!?何故お前さんが……」
ディビアンは彼女の肩越しに小部屋の中を見た。心許ないランプの光で照らされた部屋は、ミラが管理している小さな畑の部屋だ。等間隔に並ぶ蕾に、一定間隔で水を撒く
「これは……?」
立ち竦むミラの横を通り抜け、ディビアンは畑へと手を伸ばす。土に触れる直前で何かに気がつくと、ズボンのポケットからゴム製の手袋を取り出し、装着してから掴む。
キラリと光っていたそれは、飛び散った薄いガラス片だ。そしてそれに気が付いた瞬間、鼻をつく異様な臭いも感じ取る。
「これはガラス……?それに、この臭いは……」
「薬品をばら撒かれてます」
ミラはディビアンの隣にしゃがみこむと、等間隔に並ぶ蕾のひとつを手に取る。ランプの光を近づけて観察する。
「変な音がしてすぐに駆けつけたんです。でも、アタシが来た時にはこうなってました」
ミラは蕾から手を離すと、ふるふると首を横に振る。ああ……とディビアンは落胆の声を
ミラは拳を握り、歯を強く噛み締めた。
「ジェスターだ……アイツに違いない!」
「なに?それは本当か、ミラ?」
「アイツしか居ないんですよ!温室や薬品棚の鍵の管理をしてるのはアイツです。……もしや、今日の昼間のことでやり返してきたんじゃ?プライドの高いジェスターの事だ、有り得る……!」
「やめなさいミラ。実際に見たわけじゃないんだ。憶測で犯人を決めつけてはいけない」
「でも……!!」
ミラは抗議しようと開いた口を、しかし何も言わずに苦しげに閉じると呻き声を上げた。
ディビアンは小さく蹲る彼女の背中に手を置く。いつも気が強く、胸を張って歩く姿が印象的な彼女の背中が、今夜は華奢で弱々しい印象を与えた。
「身体が冷えている、今日はもう戻って寝なさい。明日、薬師長に相談しよう」
そう諭すと、ミラは俯きがちに頷く。
脱力してフラフラした様子の彼女を支えながら、女性寮の彼女の自室へと送る。その後ディビアンも自身の部屋へと戻り、雨で濡れた体をタオルで拭いてからベッドに入り込んだ。
一体誰が、何の為に。もしかしたら本当に、ジェスターが……?
そんな考えが頭の中を占めるが、その度に頭を振って雑念を取り払う。
(証拠もなしに決めつけることは良くない。今は考えたところで何も分からないだろう。明日、薬師長に報告し、本人にも事実確認をする。話はそれからだ……)
夜の薬師協会。汚れひとつない純白の建物は、今は暗がりに溶けて灰色のゴーストハウスのように、輪郭をぼんやりと雨に溶かしている。
男性寮とは隣り合わせの女性寮の一室から、うっうっ……と嗚咽混じりの鳴き声が聞こえてきた。それを雨音がかき消していく。しばらく続いていた鳴き声は次第に静かになり、やがて何も聞こえなくなった。
それ以降、その部屋から鳴き声が聞こえることは一切なくなった。
強い雨音に紛れて、薬師協会の建物へゆっくりと近付いてくる影がある。ひたひたと不気味に揺れながら動く黒い影には誰も気付かない。煙のように曖昧なその姿は、人の目には見ることかできない。
いつもは侵入を固く拒む薬師協会の扉が、今日は開いていた。この雨と、小さな油断が隙間を作ってしまったようだ。
影は煙のようにゆらりと揺れると、その僅かな隙間から体を滑り込ませて入り込む。男性寮のとある部屋の前で立ち止まると、小さな鍵穴から吸い込まれるように中に入ってしまう。
その部屋で寝ているのはディビアンだ。影は曖昧にぼやけた手を翳すと、ディビアンの瞼を執拗に撫でる。
そしてのっぺらぼうのように何も無い顔でニヤリと笑うと───蝋燭の火が吹いて消されたかのように、宙に舞う煤を残しながらその姿を消したのだった。
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