2-11

 メラジアスはとても小さい島国で、幾つもの大国が連なる大陸とは海一枚を隔てながら、細々と生き長らえていた。

 かつては独特な文化や鉱石、魚といった特産品により、なんとか大陸とも対等な地位を築き上げていたが、それにも限度があった。メラジアスの限界が近いと悟った他国は、少しずつメラジアスから手を引く事となる。

 その一番の影響を受けたのが、アンディールだった。

 かつて漁村として栄えたはずのアンディールは、今や口減らしの子供や、働けなくなった老人で溢れる貧民街スラムだ。

 野生動物でさえ野垂れ死ぬこの街でも、住民たちは思考を凝らし、互いに支え合いながら逞しく生きているのだ。

「おばあちゃん。水、ここに置いとくね」

 細く、柔らかい声が外から聞こえる。パメラは重い腰を持ち上げてドアを開けると、そこには麻色の長い髪をボサボサにした子供が居た。齢十もいくかいかないかほどの少年だ。可愛らしいほっぺたを汚しながら、小さな体で桶を抱えている。

「おやまあ、モド。いつも悪いねえ。この足がもう少し言う事を聞いてくれれば、身の回りの世話ぐらい自分でやるのに」

「気にしないでよ。僕がおばあちゃんの役に立ちたいだけなんだ」

 パメラはまた、おやまあと呟き、それから膝をついてモドの顔を覗き込んだ。

「どれ、ばあちゃんが顔を拭いてあげよう。それにしても、随分と汚れてるじゃないか。どこかで転んだのかい?」

 モドは小さく頷き、猫背になって俯いた。パメラはそんなモドを無理やり上に向かせ、ごわごわのエプロンでほっぺたを擦る。

 パメラの拭き方は少し乱暴で、もちもちの頬を擦られる度に、モドはちょっと痛そうに呻いた。

 パメラは溜め息をつく。モドはたまに、近くの井戸から水を汲むだけの簡単な仕事で、こうして汚れて帰ってくることがある。その理由をパメラは知っていた。

「嘘だろう。また他の子にいじめられたんだね。やられっぱなしじゃ駄目じゃないか。たまには殴り返してみな」

 モドはぶんぶんと首を横に振り、自分の胸元を握った手に強く力を込める。その手はとても小さく、他人に危害を加えるには柔らかすぎる。

 モドは目を覆い隠すほど伸びた前髪に触れる。

養父とうさんが古代術の先生だから、何か恐ろしい力を使うんじゃないかって、皆は怖がってるんだ。僕の目も、見たら石になるって言われてる。だから皆、僕とは仲良くしてくれないんだ」

「それは……」

 パメラは口を塞ぐ。

 モドの養父が怖がられているのは、古代術の研究だと言っては動物の死骸や骨を拾って集めているからだ。毒を持つ虫を瓶に集めてはそれを一心に眺めたり、子供たちが遊ぶ為の広場を見たこともない文字や数字で埋めつくしては呪文のようなものを日がな呟いたり、とにかく変人だ。

 しかし本当の理由はそれだけではない。大人も子供も生きていくので精一杯のこの街に、モドの養父は職を持ちながら越してきた。学者という立派な職を携えて。

 わざわざこの街でなくてもいいだろう、という話だ。ここでは病気を持っていたり、足が悪いというだけで職にありつけない人が沢山いる。そこに飛んで入ってきた彼ら親子は、嫌味そのものでしかなかった。

 だが仮にも子供の前で、その父親のことを悪くいうのは気が引けた。

「でも、あんたには関係の無い話だろう。石になるなんて、そんなでたらめ、真に受ける必要は無いよ」

「うん……でも、皆が怖くなくなるならそれでいいんだ。僕は目を隠すし、誰も殴ったりしない。だって、怖がらせてる僕が悪いんだから」

 ほっぺがぷっくりと膨らんだので、笑ったのだと思う。

 パメラはお礼として木炭を少し分け与えると、モドは礼儀正しくお辞儀をし、大通りへと駆け出していく。転ばないかはらはらしながら、パメラはその背中を見送った。

 あの子は少し自虐的すぎる。変人ではあるが学者という職を持つ者に拾われたことは運が良かった。頭がいいから、きっとあの子も学者になるのだろう。そうすれば、いつかはこの街を抜け出せる。だが致命的に優しすぎた。


 モドにはアベルという親友がいた。

 太陽のように輝く金髪の少年だ。顔立ちは大人ですらハッと息を飲むほど整っており、遠い国の姫にも劣らぬ美貌を持ち合わせていた。彼の五つ下の妹もまた、国宝の『針の光』に負けない輝きを持っていた。

 どこかの貴族と娼婦の間に生まれた子じゃないかと噂される彼らは、この潮と腐敗に塗れた街で逞しく育っていた。

「やっぱりダメだよ……僕の為に、アベルが傷つく必要は無いよ」

「じゃあお前を放っておけって言うのか?そんなの御免だね。親友を殴られて我慢するくらいなら、俺は男娼になった方がマシだぜ」

 気弱そうに首を振るモドと、豪快に寝っ転がりながら笑うアベル。ツギハギの帽子をくるくると、器用に指の上で回している。二人とも傷だらけのぼろぼろで、潮風で枯れた木の影で涼んでいる。それがいつもの光景だった。

 モドはアベルの言葉に顔を赤くし、自分の膝の間に顔をうずめる。アベルはその様子を見て、冗談だよと言い、これまた豪快に笑ってみせた。

 このように二人の性格は正反対で、アベルはお姫様のような容貌とは真逆に、非常に活発でガキ大将のような存在だった。

「そんな事よりモド、お前知ってるか?この前港にいた、巨大な黒い船のこと」

「なんだかごつごつした、の無い船のこと?あれ、どうやって動かしているんだろうね。それがどうしたの?」

 アベルは飴色の瞳を輝かせ、勢いよく上半身を起き上がらせる。

「あれ、外国の戦艦らしいぞ!海の向こうの、ミ、ミ……なんとかって国から来たんだってさ。あれで敵の船をぼかんぼかんとやっつけるんだぜ!」

「なんだ……」

 擬音に合わせて空にパンチを繰り出すアベルの横で、モドはさらに背を縮こませ、船について思い出す。

 数日前に港に現れた岩山のような巨艦は、隅々まで黒く塗りつぶされ、太陽の下であるにも関わらず、大きな闇という概念そのもののような形をしていた。

 時々、貴族の遊覧の為にリヴァイアサンの回廊付近にやってくる船とは違い、風を受けるための大きな帆は無く、代わりに船体と同じく黒光りした巨大な煙突が街を見下ろしていた。

 不吉な予感を思わせる風貌を思い出し、モドは思わず身震いをする。

 アベルはモドの様子を見て、不思議そうな顔をする。元々大きな瞳が、いっそう大きく見開かれ、金色の長いまつ毛が風に揺れた。

「なんだってなんだよ。あれ全部鉄なんだぜ?あれ造るのにどれくらい金が掛かるんだろうな。すっげぇじゃんかよ!」

 アベルは興奮した様子ではしゃいだ。モドはそれを横目で見ると、小さくため息をつく。

「僕は嫌だよ。あの黒くて重たいもので人を殺すんだろう。怖いよ」

 アベルははしゃぐのを辞め、ひとりで落ち込むモドを見下ろした。

 この何も無い、少しずつ崩壊していくのを待つだけの街で、麻色の髪をした彼はいつも憂鬱そうだ。まるで街の崩壊と共に、彼も崩れ去ってしまうかのように。

 アベルはモドの正面に回ると、目線を合わせるようにしゃがみこみ、モドの頭に無理やり帽子を押し込めた。

「わあ!?や、やめてよぉ」

 モドが弱々しく抵抗すると、アベルの夕日のような温かな瞳と目が合った。

 前髪が崩れ、隙間からモドの瞳が覗いている。暗雲の遥かずっと上に広がる空のような色の瞳が。

「心配すんな、モドは俺が守ってやるからよ!」

 どこまでも明るく、眩しい笑顔が空を照らす。

モドは目を細めて太陽のような少年を見上げると、ふっと力が抜けるように笑った。

「……そんなこと言ったら、ロザリーが拗ねるよ」

「おお、そうだな。ロザリーも俺が守ってやらないとな」

 ロザリーとはアベルの妹だ。とはいえ、彼らが本当に血が繋がっているかは分からない。

 彼らは海岸沿いで、パメラによって発見された。ここはゴミや流木だけでなく、人の死体もよく流れ着く。多いのは、国外逃亡を試みた娼婦の水死体だ。

 発見当時、ロザリーは汚れた籠の中ですやすやと眠る赤子で、アベルはそれを抱きかかえるようにして温めていたそうだ。指の先まで冷え切り、声も出せないほど震えながら。

 きっとどこかの娼館から逃げ出した娼婦の隠し子で、共に逃亡しようとしたものの、海域を越えられず娼婦は死亡、アベル達は運良く生きて流れ着いたというところだろう。

 不規則な自然現象、巨大渦巻が起こりうるこの不安定な海域で、それは本当に運が良い。

「そうだ、俺、モドに相談があってさ……」

 アベルは拳を何度も開いたり握ったりしながら、少し落ち着いた様子で座り込んだ。

 モドはアベルの顔をじっと見つめる。

「……なんだよ」

「いや、君の落ち込んでる表情なんて珍しいからさ。目に焼き付けようと思って」

「なんだよー!」

 アベルは笑い、モドの顔を押し退ける。しばらくじゃれ合いながらひとしきり笑うと、アベルはまた先程よりも曇った表情で、声のトーンを落として言った。

「ロザリーの声のことなんだけどさ。やっぱり良くならないみたいなんだ」

 ああ、とモドは相槌を打つ。

 いつも明るく元気なアベルの、たったひとつの弱点。それがロザリーだった。

 美しく、とても女の子らしく育ったロザリーは、推定で五歳になるが、いまだ誰も声を聞いたことがない。笑い声も、泣き声も、空気が漏れる音がするだけで、それが音となる事が無いのだ。

 彼女は、文字を読める者がほとんど居ないこの街で、唯一声を持たなかった。

 相談とは、どうすれば声が出るようになるのか、ということだろう。

 これまでも何回も話し合い、街中を調べた。貧民街にまで名を轟かす有名な薬師や、噂話でしか聞かないような幻の名医、いっその事そこらに転がっている藪医者に見せてみるのはどうか、なんて相談していた。

「今まで本物かどうか怪しい奴らにも診せてきたけど、この前聞いたんだ。この国にそこまで高度な医療技術を持つ奴はいない、外国に行かない限りは無理だって」

 聞いたことがある。かつて養父が王都から来た薬師と話していたのを、こっそり盗み聞きしていたのだが、隣国の医療技術がなんとかと話をしていた。まだ子供のモドには少し難しく、内容の理解をするには至らなかったけれど。

 この話が本当なら、もうお手上げするしかない。モドやアベルに、海外へ行く為のお金は愚か、まともな医者に診せる金も無いのだ。

「良いじゃないか、アベル。確かにロザリーは声が出ないけれど、すごく元気だ。踊りも上手だし、よく笑っている。このまま僕ら、慎ましく支え合って生きていこうよ」

 モドは下手に同情の言葉を使わないように、アベルが前向きになる言葉をかけた。しかしアベルは俯いたまま首を横に振る。

「あいつ、夢があるんだって。夜の波と枯葉しか踊りはしないこの街で、あいつ踊り子になりたいんだと」

 アベルの目は優しかった。

 いつか輝く星々の下で美しく舞う、妹の姿を夢見ているのだろう。

「有名な踊り子になれば、貴族の目に止まるかもしれない。王都へ行って、豊かな暮らしが出来るかもしれない。俺はきっと一緒には行けないから、その先はあいつがひとりで頑張らなきゃいけないんだ。言葉が無いなんて、不便だろ?」

「でも、それでも十分生きていけるじゃないか。何も口から出すだけが言葉じゃない」

「それはそうだけど、いつもそう上手くはいかないだろ。ひとつでも不安要素は取り除いておきたいんだ」

「でも、具体的にはどうやって?闇雲に試したって、自分たちの首を絞めるだけだ」

「分かってる。だから考えたんだけど」

「僕たちにはお金が無いんだよ!」

 モドは自分の口から飛び出た声に驚いた。アベルが目を見開いている。

 失敗した、と思ったところで遅く、口からは続いた言葉が滑り落ちる。

「お金が無いと……治療費は払えない」

 ああ、とモドは青ざめる。

 こんな事言うつもりはなかったのに。自分の中に思い留めておく筈だったのに。

 アベルは少しショックを受けたような顔をし、それからすぐに笑って見せた。

「わかってるよ」

 それきり二人は黙り込んだ。

 もはや見飽きた海岸線に、ひたすら目に染みる夕陽が落ちていくのを、ただ黙って眺めていた。

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