1-09

 倒れ伏したアグレイに、ディビアンが何かをしている。首筋に手を当てたり、閉じられたまぶたを指で開いてみたり、耳をアグレイの口元に近づけて、注意深く何かを確かめていたり……。

 不可解な行動をしていたディビアンはようやく元の体勢に戻ると、落ち着いたため息をついた。

「……気を失っているだけだ。問題ない」

 その言葉を聞き、ナターシャもようやく肩を撫で下ろす。知らず緊張してこわばっていたようだ。どっと力が抜けるのがわかる。

「彼をベッドの上に移そう。硬い床の上に寝かせておくのはあんまりだ」

「……!わかった!」

 ナターシャは素早く立ち上がり、アグレイの元へと駆け寄る。なんと、ナターシャは軽々とアグレイの体を持ち上げてみせた。そのまま顔を歪ませることも無く、ベッドルームへと運んでいく。

 能面の如くポーカーフェイスだったディビアンは、この家に来て初めて感情を露わにした。 齢にして十三か十四そこらの少女が、衰え痩せ細っているとはいえ、大人の男を誰の手も借りずに持ち上げてみせたのだ。

 片眼鏡を外し、ごしごしと目を擦って、また眼鏡をかける。少女はやはり一人でアグレイを担いで、今まさにベッドルームへと入っていったところだった。

「……すごい力だ。ドワーフの血が混じっているのか?いや、しかし君の特徴は……君は一体?」

「何をぶつぶつ言っているんだ?アグレイはここに置くぞ」

 ナターシャはアグレイをベッドの上に寝かせる。

 白いシンプルなシーツをかけられただけのベッドに横たわるアグレイは、顔色も相まって死者のように生気がない。ナターシャは不安に思い、アグレイの顔の横で腰を下ろしながら小さな両手をぎゅっと握った。

 ディビアンはアグレイに向き直り、妙に四角い手提げ鞄の中から不思議な機器を取り出した。細長い管のようになったそれの片側を耳に当て、反対側をアグレイの胸へと押し当てる。それを真剣な顔をしながら、少しずらしては息を潜め、また少しずらしては耳を澄ませ、というのを繰り返している。

 ナターシャはその様子を興味深く観察していた。

「それは何をやっているんだ?」

「……内蔵の音を聞いている。わたしは薬師であり医者ではないので精度は低いが、こうすることで、どこが悪いのかが分かる」

「へえ。アグレイはどこが悪いのか、分かったのか?」

「彼はもともと持病で心臓を患っていた。その発作が出たのだろう」

 ナターシャがほー、と感心した声を上げる。

「すごいな。目で見えないのに、お前にはアグレイの悪いところが分かるんだな。自分には何も分からない」

「……医療に興味があるのかい?」

 ナターシャはふるふると首を横に振った。

「自分は知らないことに興味があるだけだ。いりょう?に特別に興味があるわけじゃない。だけど、アインは違う」

 ディビアンは横目で桃色の少女を見やる。

 ナターシャは膝を抱えて床にぺたんと座りながら、苦しげな顔で目を覚まさないアグレイを眺めていた。

「自分はアグレイから、この世にはたくさんの人がいて、たくさんの仕事があることを教えてもらった。アインはそのたくさんの中からたったひとつ、薬師だけを目指して頑張っている。それは凄い事だと思う」

「……その通りだ」

 ディビアンは小さく相槌を打ち、細長い機器を耳から外す。ベッドのすぐ横にあるスツールに腰掛ける。

 ナターシャは淡々とした声で、不安なのか、心配なのか、悲しいのか、何も分からないような声で喋り続ける。

「自分には、何故アグレイがアインのことを反対するのか分からない。アインが何故、かたくなに薬師になりたがるのか分からない。アイン達の間を歪ませ、分け隔てるものはなんだ?アグレイが恐れ、アインから遠ざけようとしているものはなんだ?」

 ふっ、とナターシャがディビアンの方を向く。

 突然桃色の瞳と目が合ったことに、ディビアンは一瞬だけびくりとした。朝焼けとも、夕焼けともとれる鮮やかな桃色が、砂漠に浮かぶ蜃気楼のように揺らぐ。

「ミラとは一体何者なんだ?」

 違う、ナターシャは不安なのでも、心配なのでも、悲しいのでもないのだ。そこにはアインやアグレイ達をここまで追い詰めた元凶である我々への静かな怒りなのだと、ディビアンは内心でさとった。

 ナターシャが何故この家に住みついているのか、ディビアンは知らない。しかしアイン達と彼女の間には、知らずのうちに培われた絆というものがあるように感じられた。

 ディビアンは心を落ち着かせるように深く息を吸う。

「彼らから聞いていないのかね」

「ちゃんとは」

「……そうか」

 ディビアンは立ち上がり、ベッドルームから出てリビングへと向かう。テーブルの上には陶製の可愛らしいティーカップが置かれており、中身は既に冷めきっている。

 冷たいそれをディビアンは一口飲み、それから中のお茶をじっと見た。濃い緑色の、青臭くてやけに苦いお茶。

 過去に一度だけ同じものを飲んだことがある。

 それをれてくれたのは紛れもない、十四年前に亡くなったもののいまだアインとアグレイの間で強烈な存在感を放つ、ミラ・ウィルグ本人だった。

「……ミラ・ウィルグは、史上最年少で宮廷薬師になった天才で、かつてはわたしと同じく薬草研究家の博士助手をしていた。アグレイも言っていた通り、聡明な頭脳を持ち、知識に貪欲で、実に優秀な薬師だった。……」


 星も見えない宵闇の中、アインはフィオールの大通りを歩いていた。

 民家の前に灯されたランプの灯りが心許なく揺らいでは、家主が眠りについたことを教えるかのように音もなく消える。

 昼間の喧騒が嘘のように静かな街の中。公園の茂みの囁きさえ聞こえない。

 アインは走り続けて切れた息を整える為に歩いていたが、やがてその静けさに不気味な胸のざわめきを覚えた。

 知らず早足になる。普段なら歩きづらいほど人で溢れた街道を、ひとり誰にも邪魔されずに進んでいく。

 アインは真っ直ぐ行けばギルドへ通じる道を、斜め左に逸れた方へ歩き出した。

 レンガで舗装された道から、次第に土を固めた小道へと変わっていき、足の裏に伝わってくる感触が柔らかいものになる。道と民家を隔てるように並べられた細長い花壇が、うっすらと闇の中で道案内をしてくれる。

 花壇の花は枯れている。ナターシャが来た頃は暖かかった空気も、今は夜になればだいぶ涼しい。太陽の季節が風の季節へと変わり、もうすぐそこに狩りの季節がやってきていた。

 アインは端から数え、五番目の家の前で立ち止まる。玄関の上を見上げると、ランプの灯りが眩しくゆらゆらと光っていた。まだ蝋燭が半分も減っていないことから、家主が火をつけてからそう時間が経っていないことがわかる。

「ヒリナ、起きてる……?」

 玄関扉を叩く。

 ……返事は無い。

 もう寝てしまったのだろうか、とアインはがっくりと肩を落とす。だがそれとなく窓を見上げると、薄いカーテンがかかった部屋はまだ光が点っているようだった。

 あれっと思い、アインは再び扉を叩く。すると、部屋の中からガシャーン!という大きな音が響いた。

「ヒリナ!?」

 やはり返事は無い。

 アインは思わず扉に手をかけるが、鍵がかかっていて開かない。数度体当たりをしてみるが、アインの小柄な体格では扉はびくともしなかった。

 アインは窓を見上げる。夜の空気を入れる為か、窓は少しだけ開いており、カーテンが風を受けてふんわり広がっているのが見えた。

「ちょっと行儀悪いけど……許してくれよなッ!」

 アインは数歩下がり、助走をつけて窓に這い上がる。軽々と家の壁をかけ登り、窓枠の僅かな窪みに手をかけると、隙間から窓をこじ開けて部屋の中に入り込んだ。

 そこには、床に転がる鍋とこぼれたお粥、そして力なくテーブルにもたれかかるヒリナの姿があった。

 ヒリナはずるずるとテーブルからずり落ちると、ぺたんとお尻を床について座り込んだ。

「……あら?アインが、どうしてここに……」

「ヒリナ、大丈夫か!?何があった?」

 アインはヒリナに駆け寄ると、今にも倒れそうなヒリナを支えてやる。彼女に触れた途端、その体の熱さが手のひらを通してアインに伝わってきた。

 よく見ると顔が真っ赤だ。目も潤み、額から粒のように汗が流れている。息はぜいぜいと苦しそうで、時々肺からおかしな音がした。

 ヒリナは熱に浮かされてうわ言を呟く。

「あ……熱い……苦しいよ……パパ、ママ……」

 アインはその様子を見て、すぐに思い当たった。高熱、涙目、大量の発汗、呼吸困難。特に肺が悲鳴をあげるような独特な呼吸音は、とある病気の特徴だった。

 アインはヒリナを抱きかかえながら、険しい顔でその病名を呟いた。

「……煙病!」


 再び場所はアグレイの家へ戻り、リビングでは片眼鏡の老爺と桃色の少女が向かい合って座りながら、冷めたティーカップを前に何事か話していた。

 老爺の、闇の魔物に喰われたかの如く白濁とした左目を、ナターシャは澄んだ目で見つめていた。

「……その左目はどうしたんだ?病気か?」

 ディビアンはそっと左目の下に触れながら、ああ、と頷く。

「これは煙病による後遺症だ。随分昔のことだがね」

「煙病?」

「数年に一度の頻度で流行る感染症だ。流行場所は年によってまちまちだがね……共通して、発熱や異常な発汗、呼吸困難などが挙げられる。まだ明確な治療法が見つかっておらず、解熱剤や点滴を使いながら自然治癒を待つしかないという難病だ。治ったとしても、こうして後遺症が残ることがある。肺の一部が壊死えししたり、失明したり、難聴になったり……」

 ディビアンはふいに目を細める。

 かつて自分がこの病にかかった時、治療に尽力してくれた女性に思いを馳せているのだ。あの少年と同じ、浅葱あさぎ色の髪とペリドットの瞳を持った、聡明で美しい女性のことを。

「……過去の話をしてあげよう。君やアイン・ウィルグが生まれるよりも少し前のお話だ」

 ナターシャは背筋を伸ばし、椅子に座り直す。体を前傾させ、真剣な顔で頷いた。


 夜が更けていく。

 裏の森で、鳥獣が空に向かって悲しげに鳴いた。

 民家の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。

 死んだように静かな街に、得体の知れない黒い影が覆いかぶさっていた。

 どこからか咳の音が聞こえる。それが隣の家、向かいの家、そのまた隣の家へと連鎖する。

 目に見えない真っ黒な煙が、闇に紛れてひっそりと漂っているようだ。そしてそれは民家に音もなく侵入し、家主の体を内側からむしばんだ。

 夜が更けていく。

 空を覆い隠すぶ厚い雲からひと粒、雫が地面にしみを作った。

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