2-06

 ナターシャは、見違えるほど綺麗に片付いた部屋の窓辺に肘をつき、ぼーっと空を眺めていた。

 モドと喧嘩してしまった。喧嘩と呼ぶには一方的に思いをぶつけてしまっただけな気がしないでもない。

「"臆病者"は、流石に言いすぎただろうか……」

 この後はどうしようかと考える。まだ見て回りたいところがあるので、もうしばらくはアンディールに居るつもりだが、手持ちの金が尽きる前にはノームルへと向かわなくてはならない。モドに言われ、節約するよう心掛けてはいるが、この先どうなるか分からないのだ。

 ヒリナが教えてくれた、シャン・ギヌロス教会という所に行けば、出生不明の自分でも仕事を受けられるよう、身分証を発行してくれるはずだ。そうすれば、もっと旅を続けられる。

 ナターシャはアグレイの言葉を思い返していた。ベッドの上で寝たきりになっても、変わらず力強く、どこか叱るような老爺の声が。


───女神が寄越した悪戯いたずらか、誰かが望んだ奇跡なのかは知らんが………


───お前さんは世界を見る義務がある………


 どうしてアグレイがそう思ったのか、ナターシャは分からない。きっとその答えも、旅を続けた先に見つかるのだと思った。そして、モドが言い淀んだのことも。

「自分は知らないことが多すぎる。この国も、外の世界も。自分が何者なのかも」

 考え込んでいると、窓の外から何やら怒鳴り声が聞こえてきた。男の声が複数と、甲高い子供の声が言い争いをしているようだ。

 身を乗り出して辺りを見回してみると、向かいの通りの奥で、二人の大人に捕まり、暴れている少年の姿が見えた。

 何を言い争っているのかよく聞こえず、しばらく耳を済ましていると、大人の影がゆらりと揺れ、次いで衝撃音と共に少年の姿が倒れた。

 ナターシャは、あっと声を出す。殴られたのだ。倒れた少年は引きずられながら、人通りの少ない影の方へと連れていかれる。

 あの少年が危ない、そう思った瞬間には、ナターシャは窓からひらりと飛び出していた。


 頬、それから腹に一発ずつ拳をくらった少年は、喉から唸り声のような嗚咽を漏らし、軽く宙に浮いた後、硬い地面に突っ伏して倒れた。

 群青色の兵服に身を包み、腰にサーベルを差した大人の男は、二人がかりで少年を押さえつけた。ひとりは背が異様に高くひょろひょろで、もうひとりは異様に背が低く、それを隠すように四角い帽子をかぶっている。

 押さえつけられている少年は、全身が泥で汚れ、ぼろぼろの服を一枚身に纏っただけの姿をしている。髪の毛にまで乾いた泥がつき、黒や白の斑模様になっている。

 少年は苦しそうに呻くと、男二人を野生動物の如く、鋭く睨みつけた。

「もう十分殴っただろ。おいらの金、返せよ!」

 男達は顔を見合せて笑い、ひょろ長の男が少年から取り上げた財布を目の前にぶら下げる。それを奪い返そうと手を伸ばす少年を嘲るように、男はわざと財布を高く掲げ、必死な少年を見下してみせた。

「やめろ!おいらの金だぞ!」

「お前の金だって?身体を洗う石鹸さえ買えない貧民街スラムのガキが何か言ってるぜ、トマ」

 と、ひょろ長の男が言い、

「まったくだぜ、セロ。お前ら貧民街の奴らの臭いが酷くて酒も喉を通らねえんだ。肥溜めの臭いがするぜ」

 と、背の低い帽子の男がわざとらしく顔を歪め、鼻をつまんでみせた。

 二人はだんだん調子に乗ってきたのか、街中に声が響くことも気にせず笑い始める。通りを行く人は横目でそちらを気にするも、関わりたくないというふうに目を逸らし、そそくさと通り過ぎていった。

「これは占い屋の婆さんの財布だ。お前は街中でこれを盗んだ。そうだろう、トマ?」

「その通りだ。俺は確かにこの目で見たんだぜ、セロ。このいやしいこそ泥が、何も知らない可哀想な婆さんから財布を盗むのをな」

「刑罰を与えないといけないぜ、トマ。窃盗犯は棍棒で殴られる罰を与えられるが、こんなひょろっちい腕じゃすぐ折れちまうかもなあ」

「まあ、お前もすぐ折れちまいそうなくらいひょろガリだけどな」

「え?」

 ふたりが漫才のように掛け合いをしている最中に、押さえつけられていた少年が、トマの腕に噛み付いた。トマはギャッと悲鳴をあげると、少年の脇腹を蹴り飛ばす。がりがりに痩せた少年は驚くほど吹っ飛び、壁にぶつかると頭を抱えて蹲った。

「このガキ、噛みやがった!見たかよセロ、まるで動物だぜ!」

「なあトマ、俺ってそんなにひょろガリかなあ?この子供より?」

「まだ気にしてたのか?そんな事よりコイツだよ!こんなに汚くて、変な病気を持ってるかもしれないのに、最悪だ!」

 トマは噛まれた腕を振り回し、大袈裟に騒ぎ立てる。少年はぶつけた頭をさすりながらよろよろと立ち上がると、ハッと吐き捨てるように笑う。

「お前ら、おいらのことを動物だって言ったな。だったらお前らは家畜さ。国に飼われてる癖に、その事にも気づいていない。現状に満足し、自分自身で飯を得る努力もしない。怠惰をむさぼるだけで何も生み出しやしないお前らなんて、おいらに言わせりゃ家畜以下だ!」

 トマとセロは少年の言葉に腹を立て、甲高い奇声をあげる。

「怠惰だって?こうやって仕事してるだろ!天下の憲兵様だぞ!」

「本当に偉い憲兵ってのは、王宮の警備をするんだろ?こんな王都から離れた場所で街の警備なんて、相当使えない奴らと見たね」

「こ……このォ〜〜!」

 憤慨し、拳をわなわなと震わせるふたり。その隙を狙い、少年はセロの持つ財布を狙って飛びかかる。しかし、それにいち早く気付いたセロは、少年の手が届かない高さまで素早く掲げてしまった。

 何がおかしいのか、トマとセロは大口を開けて笑い出す。少年は何度も飛びかかり財布を奪おうとするも、ひらりひらりとかわされてしまう。

 憎々しげに男達を睨み、少年は歯を食いしばる。

「それでおいらの家族の食べ物を買うんだ。もうずっと何も食べてない妹がいるんだ。だから返してくれよ!」

 トマ達はいっそう高く笑いだした。少年の必死な顔を真似しては、腹を抱え、涙まで浮かべている。

 悔しさで顔を歪ませる少年は、何度も何度もセロに飛びかかり、服を引っ張ったりしながら財布を奪い返そうとする。

「返せ、よー!」

「もう……しつこいなあ!」

 少年のしつこさに苛立った様子のセロは舌打ちをひとつすると、鞘に収めたままのサーベルを強く握り、柄の部分を思い切り少年の頭に向けて振り下ろした。

 少年は衝撃と痛みに備え、ぎゅっと目を瞑る。

「痛え!」

 そう叫んだのは、少年ではなくセロの方だった。ガランガランと、サーベルが地面に落ちる音がする。

 恐る恐る少年が目を開けると、そこには視界を覆う桃色のカーテンが広がっていた。

 いや、カーテンではなく髪の毛だ。振り子のように揺れる髪の毛の先に、シンプルなワンピースを着ただけの少女が、こちらを背を向けて立っていた。

 セロが手首を抑えながら、よろよろと後退りする。トマも、驚きのあまり口をあんぐりと開けたまま停止していた。

「だ、誰だ……?」

 何が起きたのかわからず、少年はただ少女を見上げる。髪の毛と同じ色の瞳がこちらを見たかと思うと、手を差し出してきたので、少年はびくっと身体を震わせると、自分の体を守るように身を縮めてみせた。

「小さな子供を虐めて、大人なのに情けないぞ」

 少女───ナターシャがそう言うと、トマは声を荒らげ、腰のサーベルを抜き、不慣れな型で構えてみせる。

「お、俺たちは憲兵だぞ。俺たちに手を出したら、どうなるか分かってるんだろうな!?」

「どうなると言うんだ」

 ナターシャは男たちを静かに睨むと、腰を低くし、片足を引き、両手を体の前に構えた。ナターシャ自身ですら気が付かないほど自然な、隙のない構えだった。

 トマ達はナターシャから放たれる威圧にされ、息を飲み込む。長く鋭いサーベルに斬られたらただでは済まないはずなのに、それに怖気付く様子もなく、静かにこちらの動向を伺う瞳が、彼女の得体の知れなさを助長していた。

 手首を痛そうに押さえるセロが落としたサーベルを拾い、震えながら動けずにいるトマに「もう行こう」と耳打ちし、ふたりはじりじりと後退りした後、寄り添いながら足早に去って行った。

 ナターシャは構えを解き、ふたりの後ろ姿を見送る。やれやれとため息をひとつ着くと、少年を振り返った。

「もう大丈夫だ。しかし話し声が聞こえたんだが、盗みは良くない。しっかり反省して……あれ?」

 だが、そこには誰もいなかった。通りの向こう側の遠くに、走り去っていく少年の小さな影が見える。

「助けてくれてありがとよ、馬鹿女!お前のおかげでひとりの可哀想な子供が飢えずに済んだぜ。じゃあな、もう会うことも無いだろうけど!」

 そう言い捨てると、少年は細い足であっという間に遠ざかっていく。ナターシャは呼び止める間もなく逃げられ、状況を理解することも出来ず、ぽかんと口を開けることしかできなかった。

「なんだったんだ……」

 おかしな少年の姿が見えなくなり、ナターシャは腰に手を当て、すぐに違和感を感じた。

 腰が軽い。すごく大切で、失くさないようにと腰に括っていた物が無い。

 ナターシャは腰の周りをぺたぺたと触り、それでもやはり無いことが分かると、サアッと顔が青ざめた。

 アインから貰った、お金が入った巾着が、無い。

「……盗まれた!」

 気づいたところで時は遅く、通りの向こうに目をやるが、もはや少年の姿は跡形もない。少年を見失った場所まで行くも、密集した住宅地の中はいくつもの細い道が迷路のように曲がっており、少年がどっちへ行ったかなど分かるはずもない。

 ナターシャはただ呆然と、その場で立ち尽くすことしかできなかった。

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