Act.19
「
明らかな異常に対して冷静を保ったままの桐士は、それでも血を吐くように呪文を唱える。
彼は人を嫌う。
すべてを記憶できてしまうがゆえに、時々で移り変わる個人の人格や機嫌を気持ちの悪いものとして認識してしまう。
でも、だからこそ。彼は誰よりも人間が変わりやすい生き物だと知っている。
どんな穏やかな人間でも、誰かに殺意を覚える。
どんなに意地の悪い人間でも、情に流されうる。
桐士にとって、それはひどく不可解なものだ。なぜ彼らは、こうも不安定で記憶通りに動かないのだろうと不満じみた疑問が尽きることはない。
桐士に世界が収束し、額に青白い魔法陣が浮かび上がる。世界が認識している、桐士の思いが強化され、
4枚は桐士の周囲に残り、もう4枚は上空へ。
かすかな風切り音を奏でながら舞い上がり、パジャマ男の肩や脇腹あたりを狙って飛んでいった戦輪は、見事に男の体を切り裂いた。
が、痛みすら感じていないのかもしれない。
男は姿勢を崩すことも、うめき声を上げることもなく。そのまま真っ赤な拳を桐士に叩きつける。
桐士の周囲で、恒星を巡る惑星のように舞っていた4枚がそれを防御する。
甲高い金属音が鳴り響き、男はさっきまでの軌道をなぞるように吹き飛ばされた。
「え、い、な、なんで、」
その一連の攻防を、琴葉は呆然と眺めていた。
なんで、彼はこんなにも冷静なのだろう。琴葉が疑問に思うのは、ただそれだけだった。我が強い魔術師ですら、いきなり襲われれば動揺する。どんなに戦闘慣れしている人であっても、緊張くらいはするだろう。
なのに、桐士にはそれがない。
まったくの自然体で、まるでそうされることが当然みたいな顔をして。つまらなそうに口を結んでいる。
はたから見れば、確かに桐士の様子はおかしいのだろう。けれど、桐士にとってはごく当たり前のことだった。
彼は何もかもを記憶できてしまうがゆえに、周りの人間が以前と違う行動を取ることに違和感を、不快感を覚えている。けれど、何年も生きていれば自ずと悟るのだ。
人間とは、そういう生き物だと。
一貫性などなく。気まぐれに動く、不可解な生き物だと。
だから桐士は驚かない。
きっと彼は、道端で通り過ぎる赤の他人がいきなり彼を殺そうとナイフを構えて襲いかかってきたとしても動揺すらなく、つまらなそうな表情のままに死んでいっただろう。
死んでいった。それは過去形だ。彼には今や自分を表す手段があり、それを使うことができる。
琴葉には見えない、彼だけの師匠は他人に振るわれる桐士の戦輪を見て、どこか満足そうに
男の体を切り裂いた戦輪は、大きく旋回して、着地した男を背後から強襲する。さっきとまったく同じ部位を切り裂かれた男は糸が切れた人形のように、体をガタつかせながらうずくまった。
桐士の周りに4枚が戻り、8枚が巡る。
「へえ、これはまた原始的な魔術だね」
師匠が言う。
桐士と師匠が見つめる先で、血の一滴もこぼさないくせにひどく赤い断面を見せていた男の傷は煙を上げながら治っていく。寒さに震えるかのようにどす黒い魔法陣が揺れている。
「生き物としての生存本能かな。死にかけている身でよくやるもんだ」
「死にかけてる?」
「なんだ、気づいてなかったのかい? 彼の中身、ボロボロだよ。年齢の割にひどく劣化してる」
ふうん。
しごく興味がなさそうに、桐士はつぶやいた。とっくの昔に人間という変化の激しい生物の理解を諦めてしまった桐士は茫洋とした眼差しで男を見つめている。
桐士の冷めた視線の先で、魔法陣のガタつきが体にまで影響し始めたのか、手足をブルブルと震わせながら、男が再度雄叫びを上げる。
瞬間、男の姿は桐士の真後ろに現れている。
「な、にが」
わずかに目を見開いた桐士から声が溢れる。戦輪が一枚、炎天下の氷のごとく宙に溶けていった。
生き残るという単純な特性を強化している男は、その死にかけた体から生命力を絞り出し、無理やり行動速度を底上げしているのだ。
反射速度や思考速度などはそのままだとしても、先程より数段早い攻撃は桐士の動体視力をしのぎ、戦輪を砕くだけの威力がこもっていた。
「・・・しょうがない。あれでいこう」
「言われなくても」
師匠に軽く言葉を飛ばしながらも、桐士の額に再び世界が収束している。琴葉という目撃者がいることを考えれば、錬金術を多用することは避けたいところだ。
特に複数の魔法陣を使用できるということは。
しかし、桐士だって命は惜しい。特に、自身が嫌っている
今度は薄茶色の魔法陣が額に浮かび上がり、世界が桐士の色に染まって出力される。
「
それは、男の生命力あふれる加速とは根本的に異なっていた。
7歳、まだ日本語すら覚束なかった頃に母を失い。厳格な父のもとで生きてきた桐士が無自覚のうちにずっと抱いてきた思い。
世界だけが知っている、彼の事実。
早く、大人にならなきゃいけない。
早く、僕は1人でも大丈夫だと思わせなきゃいけない。思い込まなきゃいけない。
僕をからかうな、僕に関わるな、僕をいじめるな。
僕は平気だ。母さんなんかいなくても。父さんが怖くても。
だけど、周りはそう思わない。僕はまだ親を必要としていて、それを取り上げられた可哀想な子供。
そんな風に僕を見下すな。
命をすり減らすような思いで生きてきた桐士の、生き急ぐという特性。
それはただ生命力を絞り出しただけの速度を、遥かに凌ぐものだった。
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