Act.26
「…はあ」
雨の降る音がする。
生暖かいはずの気温の中で、自分のため息だけが凍りついているように感じた。
「辛気臭いなあ、桐士くんは。いくら襲われたからって、そんなにナーバスになるかい?」
「…なりますよ」
居間のソファで足を投げ出した竜貴さんに顔を向けながら言う。”塔”に行くための鏡を僕は持っていないから、向こうに行くときはいつも竜貴さんの家を経由させてもらっている。
初めて来たときより、格段に片付いたコンクリートの箱の中。
塔では結局、交務省の人には押し切られてしまった。普段から人との交渉を仕事にしているそうだから、今まで他人との会話を避けてきた僕が勝てるはずもなかった。護衛が四六時中つくそうだ。
まあ一応、目立たないようにしてくれるそうだ。見られている、という事実だけで気分が参るけど。
また出かかったため息をなんとか飲み込んでいると、キッチンの方から声が聞こえてきた。
「岡田さん、珈琲と紅茶どっちがいいですか?」
「あ、えっと、珈琲でお願いします」
「はーい」
琴葉さんの通る声が、雨音に負けず柔らかく聞こえる。塔からここに戻ってくると、竜貴さんから話があると言われてしまったので、僕はこうして彼女の対面で肩をすぼめている。
「まずは、ごめんね」
やや言いづらそうに、彼女は切り出した。
「え?」
「ほら、私も琴葉もあなたの高校にいたのに、その、襲われてることに気づかなくて」
いつも飄々としている彼女には珍しく視線を迷わせている様はまるで、悪戯をとがめられた子供みたいな幼さがにじみ出ていた。
「あ、ああ。いえ、大丈夫です、よ。文化祭、騒がしいですし」
思わず、少し身を乗り出しながら言う。
実際、高校にいたとしてもあの時は現場近くにいなければ異常を察知するのは難しかっただろう。そもそも人気のない所だったし、高校の敷地は結構広い。校内で待ち合わせする人も大勢いるけれど、幾人かは迷子になって放送で呼び出されたりしていた。
世界は狭いですね、とか世間では言うけれど。
人間にとって、世界は十分広いものだと僕は思う。
「それでも、だよ。ほら、私って戦うくらいしか脳がないから。この前、琴葉を助けてくれた恩もあるし」
改めて、ありがとう。妹を守ってくれて。
真っ直ぐな言葉に突き刺されて、僕はどもりながら謙遜する言葉しか返せなかった。でも、不思議な感じだ。
感謝されたことは、確かに嬉しい。けれど、高揚がない。
琴葉さんが目の前のローテーブルに出してくれたマグカップを見つめる。真っ黒な液体が、さざなみ一つ立てていない。
少し前までは、もっと何かが違った。
竜貴さんの隣に腰掛ける琴葉さんの様子がまるで、映画の一場面みたく色褪せて見える。
そりゃ僕は他人が嫌いだけれど、他人から感謝されること、褒められることは結構好きだった。他人から認められれば、その分大人に近づいたような気分になれたから。
逆に、叱られて落ち込むことだって人並みにあった。うまく他人と話せないことで自己嫌悪だってする。
なのに。
今はその実感がない。他人とのつながりが途切れてしまったように、感じられる何かが希薄だ。
他人と話すことに対する忌避感、緊張感は確実に薄くなってきている。苦手であることに変わりはないけれど社会に馴染めていっていると、そう思っていた。けど、そうじゃないみたいだ。
うまく言語化できない。僕は他人を受け入れなくなったのかもしれない。
極論だけど、人間は猿に恋をしない、みたいな感覚に近い。他人を嫌って怯える気持ちよりも小さかったはずの、心の片隅にあったはずの他人をどうでもいいものだと考える気持ちが強くなっている。
だから他人が心に響かなくなってきた。
だから、今みたく感謝されても実感がない。
だから、あの時。僕はスーツの一般人を戦輪で切り裂けたんだろう。
元から、社会性が強いわけではなかったけれど。僕の中には今や、社会性の強弱をものともしないほどの他人を同族だと思わない独居性が居座っている。
「そういえば、」
「っ!、あ、はい」
ぼーっと珈琲を眺めていた僕に、竜貴さんの声がかかる。
「護衛の件だけど、琴葉にもつくことになったから」
「…そう、なんですか? てっきり僕だけかと」
襲われたのは僕だし、鈴木の件に関しては個人的な怨恨だったと思うけど。
「んー、ほら、1回目のが原因とはいえ2回目の襲撃は君個人を攻撃するものだったでしょ。それに対して1回目は動機がわからないんだよ。ただ暴れていただけといえばそうかもしれないし、誰かが君たち2人にけしかけたのかもしれない。だから、2人に護衛がつくの」
「はあ、なるほど」
とはいっても、別に偶然でなければ琴葉さんとも竜貴さんとも会うことはないだろう。
”塔”に行きたいときはいつでも言ってねと彼女たちは言ってくれるけれど、できればもう行きたくはない。
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