Act.25


 戦輪たちを従えて、桐士が二階のベランダから飛び降りる。都合の良いことに、ほとんどの教室は飾りつけたカーテンを閉め切って密室を作っている。ベランダに現れ、すぐに墜落していく桐士の姿を見咎める人はいない。


 とはいえ、いかに人目につきにくい特別棟裏だとしても、人通りがまったくないわけではない。あまりにも異常なこの空間に一般人が入り込めばどうなるのか、ぞっとしないなと桐士は思いながら重心を前方へと傾けた。


 1秒もない落下時間、その最中に桐士の姿は鈴木の視界から消え失せる。瞬間、人形たちの肉壁と鈴木の間に桐士は立っていた。


 まるで霞が輪郭を得たのかのごとく。音すら立たない不気味な歩法。


 「なっ、」


 「誰に聞いた」


 僕のことを。


 思わず後ずさった鈴木の首元に、4枚の戦輪が突きつけられる。桐士を攻撃すべく、一瞬動きかけた人形たちが痙攣するように動きを止める。


 鈴木の肩口から流れる血はまだ止まらない。この上、首まで切り裂かれたら兄の後を追って棺桶に足を突っ込むことになるだろう。


 冗談じゃない。


 呼吸すらも浅くなる中、鈴木はそれでも桐士を睨みつける。


 「誰がっ、言うかよ!」


 燃え上がる炎のように激情を滾らせる鈴木とは対照的に。桐士の表情からは温度とというものが決定的に欠けていた。


 絵の具を原色のまま流し込んだような、真っ黒で粘性を帯びた瞳は鈴木を見ているかさえも怪しかった。


 ふと、2人の耳に大きくなった文化祭の喧騒が響いてくる。


 おそらくは、外でやっているステージ企画のうち、どれかが終わったのだろう。観客席を立った何も知らない人間たちのいくらかが、特別棟に向かって歩く足音が何重にも重なって聞こえる。


 答えない鈴木の顔を見据えたままで、桐士の頭の中に一瞬、こっちに来る奴らを皆殺しにしてしまえば見つからないなという考えが浮かぶ。が、舌打ち一つでその考えを打ち消した。


 そもそも桐士は他人と会うことすら億劫なのだ。死体を作り出したとして、それを目の当たりにすることに嫌悪感しかない。人を殺してはならないという倫理的な価値判断でなく、完全に己の嗜好だけで殺人を思いとどまった桐士は再びその身を加速させる。戦輪を消し、特別棟のベランダに付けられた手すりたちを蹴り飛ばして、屋上へと上がる。


 見下ろせば、指先ほどの大きさになった人形たちと、桐士を見失って辺りを見渡す鈴木の姿が見えた。こうして俯瞰すると、ひどく現実感を薄く感じる。


 以前よりは体も慣れたとはいえ、異常励起された神経が発する焼き付いたような痛みと熱さ。それに、頬を撫でる湿った風と薄汚いコンクリートが押し返す両足。確かな実感に対して、視界から得られる情報はミニチュアじみて滑稽にすら映る。やがて、近づいてきた足音と話し声に押し出されるようにして、鈴木は傷を押さえながら裏門の方に走っていく。


 桐士はそれを追わなかった。いい加減面倒なことはもうお腹いっぱいだったし、これからまた塔に連絡して後始末してもらわなきゃいけない。


 「…気が重い。重すぎる」


 鈴木が遠く離れたことで、人形たちの暗示も解けたのだろう。桐士が切り裂いたサマースーツの一般客が気づいた痛みにつんざくような悲鳴を上げた。 


 








 ◆◆◆


 








 「よお」


 「…どうも」


 「また会ったね」


 「はい」


 「…会いたくなかったんだけど」


 僕もです、とは言わなかった。


 塔の一室。取調室のような、会議室のような殺風景この上ない部屋で、僕は交務省の人と再び向かい合っていた。


 彼はやっぱりくたびれたスーツを着て、今回は手に何かの書類を持っていた。逆さまに見る限り、シフト表みたいな何かだった。


 「なんだってこんな短期間に2回も襲われるのかね、君は」


 「心当たりは、ないです」


 「だよねー。はあ、面倒くさい」


 何も僕はしていないのに、なぜか悪いことをしているような気持ちになってしまう。


 薄味の、心の浅いところで蟠る罪悪感。


 罪悪感といえば。僕はあの時、邪魔だからという理由だけで一般客を躊躇いもなく攻撃できた。自分のことのくせに確証はないけれどきっと、僕はあの人が死んでも構わなかったはずだ。


 人は移ろいゆく。不安定で、気まぐれで。僕が嫌いなのはそういう精神的な脆さだったのだけど、肉体まであそこまで脆いとは思わなかった。


 切り裂いたあの瞬間を思い出して連想するのは、地面に落とした試験管。地面に落ちて、粉々に砕け、四方八方に飛び散るガラス片がなぜか血液を思わせる。


 「とりあえず、君には護衛をつけることになった」


 手に持っていた書類を軽く振りながら、彼は言う。8時間3交代制のシフト表なんて初めて作ったよ、なんて付け加えて。


 「…はい?」


 護衛?


 他人が近くに来るのか?


 他人と関わるのはもう限界だ、もうたくさんだ、しばらく距離を置こう。そんな風に考えていたっていうのに。


 冗談じゃない。ここのところ癖になりつつあった、自己分析の紛い物を中断して顔を上げた。


 「なぜ」


 なぜ僕が、そんな護衛ものを受けなくちゃいけないんだ。


 


 

 


 

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