第1章 毒薬変貌
Act.16
目が覚める。
ぼんやりとした視界が広がると同時に、枕元で鳴り響く電子音に気がついた。父好みの、真っ黒で真四角なデジタル時計を叩いて、僕は起き上がった。
寝起きのぼんやりとした頭は、無意識に昨日のことを思い出していた。
「・・・夢、みたいだ」
塔に行ったこと。いや、それ以前に錬金術に関わるようになったこと。
目覚めたばかりのこの時間が、僕は好きだ。煩わしい現実のすべてが夢だったんじゃないかって、思えるから。
しばらくぼんやりとしていると、目覚まし時計が再び鳴る。
行かなきゃ。朝食の時間だ。
うちの父は、潔癖症でしかも神経質。毎日毎日、同じルーティンをこなさないと気がすまない。
僕の起きる時間や朝食の時間もきっちりと決められている。夜はそもそも父の帰宅時間がバラバラだから決まっていないけれど、決まっている時間に関しては少しでも遅れると恐ろしく不機嫌な顔つきで、
「次から気をつけろ」
と、理由も何も言わずに言い放って、自室に引っ込んでしまう。
・・・母がいたころは、まだここまで厳格じゃなかったと思う。単に母がいるときは我慢していたのか、それとも母がいなくなったことで何かが変わったのか。
まあ、たぶん前者だろう。そして、僕相手ならば我慢する必要もないと思ったのだろう。
寝間着の上から薄手のカーディガンを羽織って、階下に降りる。朝はまだ肌寒い。
リビングに入ると、父がキッチンで朝食を作っていた。モノクロな家具の中で、僕と父だけが色を持って、動いている。
「おはよう」
「・・・ああ、おはよう。座りなさい」
「わかった」
短めの黒髪と、わずかに頬がこけた顔立ち。眉間に刻まれた皺と鋭い目つきは、哲学者のイメージそのものだ。
トーストと目玉焼き、サラダにヨーグルト。父はコーヒー、僕は牛乳。ごく普通の朝食を、会話なしでもそもそと食べる。
用意してくれるのはありがたいけれど、食事を楽しいと思った記憶はない。なんでも覚えてしまって忘れられない、この厄介な体質になる前はもっと楽しい食事だったようにも思える。
思い出せないけれど。
「少しは、」
父が突然口を開く。思わず手が止まった。
「少しは、成長したな」
「え?」
朝食を見つめたまま、僕と同じように手を止めて父は続けた。
「以前より、気弱な雰囲気が薄くなった」
驚いた。
父が僕について、感想をもらすなんて。というか、まともに会話したことさえだいぶ久しぶりだ。
中3の時、進路を決めるために軽く話して以来、僕たち親子に会話らしい会話なんてなかったのに。
「あ、ああ。そうかな」
そう意識した途端に、緊張し始めてしまった。少しどもりながら返事をする。
「他人は、好きか」
肩が震えた。脇の下を、冷や汗が伝っていくような幻覚を覚える。
父は、昔からこうだ。口数が少ないくせに、淡々と核心をついてくる。
思えば、母に離婚を切り出したのも父だった。今と変わらない様子で、天気の話でもするみたいに、他人事だと言わんばかりの寂れた口調で。
「・・・ううん。あんまり、好きじゃない」
「ほう、そうか」
目を見開いた父の表情は、意外そうだった。
何が意外だったのだろうか。
結局、そこで会話は終わってしまって、父も僕もお互いに日常へと戻っていった。
互いに干渉しない、停滞した日常へ。
◆◆◆
塔の廊下を、竜貴は歩く。
実際にどこまでも続いている廊下は見慣れていたとしても、少しだけ不安を掻き立てる。
すぐに目的の201号室についた。ノックをすると、扉の下から黒がにじみ出る。いつもと同じように、影には真っ青な口がついていた。
「竜貴か」
「入れて」
「はいはい」
扉が開く。8畳ほどのワンルームには、数人の男女が思い思いの格好でくつろいでいた。
ベッドとカウンターキッチンだけで彩られたその部屋はひどく殺風景で、使用者が誰もいないことを無言の中で叫んでいるようだった。
「あら、私で最後?」
「そうだ」
窓際で立ったまま壁に体を預けていた男が言う。特徴のない髪型に、整ってはいないものの見るに耐えないほどでもない、ごく普通の容姿。
白いシャツとデニムパンツの組み合わせも、印象に残るものではない。
「・・・今回、大きめの事件だとは聞いてたけど第3課は課長自ら参加するの?」
竜貴は少し目を見開きながら言う。
「今回のはいつものチンケな麻薬騒動じゃないってことさ」
ベッド脇で片膝を立てていた男が言う。床にまで垂れている長い黒髪はひどく綺麗で、だからこそ床に散らばっている様子は不気味にも見える。瞑っていた瞳を細く開け、竜貴の方に向ける。
「・・・本体と会うのは久しぶりね、
「ああ、そうとも言えるね」
それっきり彼はまた、目を瞑る。影男のあだ名でも呼ばれる彼の意識は、また本物の肉体を置き去りにしたらしい。
「メンバーは全員そろった。主席からの個人通達である程度のことは知っていると思うが、ブリーフィングを始めよう」
ごく普通の中年男性を装った窓際の男は、窓の外で燦々と輝く太陽のように瞳をギラつかせた。
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