第0章 転変
Act.1
絵が描きたいな。
とびっきり複雑なやつを。
とっくの昔に覚えてしまった教科書を音読するだけの授業を聞き流しながら、ふと唐突にそんなことを思った。
窓際とはいえ一番前の席だから、あんまり気を抜くわけにもいかないけど、あまりにも暇すぎてぼんやりと外を眺めた。
高校に入学してから2回目の桜が、もう散り始めている。
少し目を凝らしてみれば、緑色も混ざっていた。
今日は、あれを描こうかな。
ぼんやりと見つめるだけで、僕は景色の細部まで完璧に覚えることができる。数少ない、というか唯一の特技だ。
つらつらと話し続けていた先生が、唐突に教科書から顔を上げる。
「今日はここまで。…ああそうだ、日直はこの後社会科準備室に来てくれ。手伝ってもらいたいことがある」
チャイムはまだ鳴っていないが、キリの良いところだったらしい。
聞いていなかったから分からないけど。
チラリと視線を巡らせれば、今日の日直がいい声で返事をしながら、少しだけ眉をゆがめていた。
記憶の中にある彼の普段の表情と、明確に違う。
嫌なんだろうな。僕だって嫌だ。
先生に向かって皆がおざなりに頭を下げて、授業が終わる。
とっとと部活に行こう。人数の少ない美術部だけど、だからこそ僕にとっては安らげる場所だ。
「なあ、岡田〜」
荷物をまとめていたら、日直の奴がいきなり肩を組んできた。
「なっ、何」
思わずビクッとなる。
名前は、なんだったっけ。
名字はわかる。鈴木だ。
けど、僕の方から話しかけたことはないからフルネームは分からない。話しかけられることは、あるけど。
「準備室行くの、代わってくんね?」
「な、なんでかな」
…やっぱり人と話すのは怖い。昔から、それこそ生まれつきこうなんだと思う。
他人と話すのは億劫で、怖い。
他人より優れた記憶力よりも、僕は他人と普通にしゃべれる力が、幼い頃からずっと欲しかった。
…足が震えてるの、バレてないといいけど。
「え〜、ほら今日はちょっと早めに部活行かなくちゃいけないんだよ。一応副部長だしさ」
「えっと、いやでも」
嘘だ。毎日、教室で長らくだべってるじゃないか。
「なんか用事あんの?」
声の調子はそのままに。鈴木くんは少しだけイラついたように腕に力を入れる。
肩の圧力が増して、僕は変な汗が出てきた。
「いや、そういうわけじゃ」
言い返さなきゃ、いけない。
それはわかってるけど、
「じゃあ、いいじゃん! 今度アイスでもおごるからさ。よろしく〜」
「…分かった」
もういっぱいいっぱいだった。
とりあえず会話を終わらせたい一心で、僕はうなずいた。もし、これ以上肩を組まれた状態で話していたら、貧血になっていただろう。
「お、マジ? さんきゅー」
軽い口調でそれだけ言い残し、鈴木くんは教室から出ていってしまった。
会話が聞こえていたんだろう、他のクラスメイトから少しだけ視線を感じる。
…気持ち悪い。
気の毒そうに僕を見るな。
まとめた荷物を机の脇にかけて、僕は教室から逃げた。
僕を、見下すな。
◆◆◆
うちの高校は大学付属の高校で、各教科ごとの準備室と職員室がある。職員室には先生たちの机とかがあって、生徒は原則立入禁止。だから、レポートとかの提出物は準備室に持っていくことになる。
準備室には大学の資料室に入り切らなかった資料とか、授業で使う模型とかが置いてある。特に社会科準備室はよくわからない像だったり、絵画だったりが大量に保管されていて、棚からあふれてしまっている。
一応、中には歴史的に価値がある物もあるらしいんだけど、わざわざ高校の方にしまってるくらいだ、探し出すのが面倒だからと先生たちの殆どは使っていない。
もはや墓場だ。
窓もあるけど物が多すぎて、ほとんど隠れてしまっている。おかげで薄暗く、少し気味が悪い。
ちなみに、社会科準備室と対象的なのは数学科だ。あそこの先生たちはほとんどがIT機器に強いから、紙の資料はほとんどない。あるのは立体模型と馬鹿みたいにでかい黒板用の三角定規くらいで、スッキリとしている。
「じゃあ、これ。今は大学の方で働いてる先生が仕舞ってほしいって言ってた資料なんだけど、分類して棚に入れておいてくれるかい」
「分かりました」
世界史の先生は、僕が代わりに来たということを伝えたところ、そうかと言っただけだった。
理由も説明しづらいから詮索されないのは良いことなんだけど、なんか釈然としなかった。
先生が指さしたのは、大きなダンボール3つ分。
すでに1つだけ空いており、中には案の定、わけの分からない物たちがぎっしり詰まっている。
絵画や象形文字が書かれた石板、不格好な短剣のレプリカに多種多様な像。
…本当に使うのかな、これ。
じゃあ頼むと言って資料を分類するための指示書みたいなのを僕に渡して、先生はさっさと準備室から出ていった。
無意識に、大きくため息が出た。
「…早く終わらせよう」
手近にあったパイプ椅子を引き寄せて、僕はやりたくもないことに取り掛かった。
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