第7話 辻堂刑事の来訪
「いや、皆さんお仕事中に申し訳ない。先に館長さんには伝えましたけど少しご報告がありまして」
今日はまだ少し残暑が厳しかったか、汗を拭いながら会議室に現れたのは辻堂刑事だった。
「昨夜は突然のことで皆さんもお疲れのことと思いますが、色々気になることもありますのでお時間を少しばかり頂戴いたしますね」
課の人間を一通り見回すと、一呼吸置いてから話し出した。
「ええと、すでにお聞き及びかと思いますが、佐山邸で亡くなられていたのは比江島直哉氏。こちらにもよく通われていた映画コレクターの方でした。館内の方で個人的に交流のあった方はおられますか?」
「前にもお伝えしましたが、我々は表に出ることは少ないのであくまでお客様としての関係性しかなくて、個人的には何も。ただ彼や佐山氏もですが、図書室や常設展、上映会場に頻繁に足を運ばれていたということですので、そちらの職員の方がもしかしたら親しく会話をしたことがあるかもしれません」
西村課長は冷静に返答する。だが著名な映画コレクターが一日に二人も亡くなったことで、彼らがよく通っていたこの場所で調査を行うのは吝かではないと思っているようだ。
「ではそちらは後ほど確認してみましょう。
それから比江島さんのことですが、彼は独身で一人暮らしだったようですね。午前中にお住まいを見て来たのですが、どうも法務局に自筆の遺言書を預けておられたようですよ。そちらの確認はご親族への連絡と併せてこれからになりますが、いやいや佐山さんといい比江島さんといい、私なんかと違ってしっかりと後の準備をなされていたようで驚きますなあ」
殺人事件の話をしているというのに時々ユーモラスに笑みを浮かべたりする辻堂刑事。私達をリラックスさせたいのか気を緩ませたいのか。あるいは怒らせる? どれもなのかもしれない。
「そうそう。亡くなる前、比江島さんの体内にはアルコールの摂取に加えて睡眠薬と致死量には至らないもののリシンの成分が検出されています。死亡推定時刻は17時頃。あなた方がいらっしゃる前ですね。凶器として使われた刃物や、切り落とされた遺体の一部も現場になかったことから、警察としてはこれは他殺――殺人事件だと断定しました」
会議室の中が音がなくなったように静まり返った。空調の音がよく聞こえる。ひやりと汗が流れたのだが、クーラーはしっかり仕事をしているらしい。
「リシンって何ですか? すぐ手に入るものなんてすか?」
山森が咄嗟に質問をした。そこで西村課長が山森を紹介し、今後のこともあるから同席している旨を説明すると、辻堂刑事がメモを取りながら先程の質問に答えてくれる。
「リシンというはトウゴマという木から採れる種子から抽出される天然の毒物で、――とても猛毒です。ただトウゴマから採れるもう一つのものがひまし油なんですよ。こちらは聞いたことはないですか?」
「ひまし油って『トム・ソーヤの冒険』とかでイタズラすると飲まされるあれですよね?」
私もつい合いの手を入れると、辻堂刑事が大きく頷いた。
「古くは下剤として使われたりしていたようですよね。私は試したことがありませんけど。
とにかくひまし油は現在でも多くの加工品や美容にも使われていますので、木も普通にそこらに存在しますし、なんならネットでトウゴマの種子も売られています。まあもっとも致死量のリシンを抽出するのは大変な量を使うことになるのですが、有名な毒物ということで時々これを使った事件というのは起きますね」
そう言って、辻堂刑事は頭を下げながら持参したペットボトルを一口飲み、また続きを話していく。
「比江島さんにはリシンが注射されていたようです。その場合経口摂取よりもはるかに強い症状が出ますから、致死量に満たなくとも体調によっても亡くなることはありますし、当然嘔吐などがあったと思います。が、胃の中はほとんど空なのに倒れていた地下室は出血痕のみ。ですので殺害されたのは別の場所で、そのすぐ後に地下室に運ばれ、遺体の損壊を行ったのではないかと推定しています」
殺害場所が地下室ではなかった。それは現場が私達が見た邸のどこかかもしれないということだ。死亡してから時間を置くとあそこまで血が流れることはないだろうし。邸の内はどこも清潔に保たれていたので、違和感など何もなかった。それよりも初めてのことに緊張していて、観察するなどということまで出来ていなかったと言った方が正しいか。
「死亡推定時刻の頃は、この家の主・佐山さんが倒れて病院に搬送されていたため不在だった。ちょうどこの時牧田さんが郵便物を届けに来ていたらしく、すぐに病院へ運ばれましたが、救急車を呼ぶことを頑なに拒否されたので牧田さんの運転で行ったそうです。
比江島さんがどういう理由で佐山邸に来ることになったのか。佐山さんが倒れて家を不在にしていることを知っていたのか。多量のアルコールや睡眠薬は自身で飲んだのか。故意に摂取させられたのか。いやあ······分からないことだらけです」
そう言って頭を掻く辻堂刑事に促され、私達は頭髪と指紋の提出を依頼された。来客をまず許さなかったという佐山氏だから、ご家族と私達以外のものが見つかれば容疑者のものということになるのだろうか。来客を許さなかった、というのも伝聞であるので実際のところがどうだったのかは分からない。
警察の調査ってコツコツと進めても少しずつしか進展しないものなのかもしれない。
「まだ分かっているのはこのくらいですが、皆さんは第一発見者となります。日を置いて思い出すこともあるでしょうし、何か気になることがあればこちらにご連絡下さい。こちらも確認したいことが出てきましたら、また伺いますので。
それから佐山氏の娘さん――華子さんの旦那さんがなかなかお偉い政治家さんでして。比江島氏が亡くなったということは出しますが、あくまで訃報扱いにして犯人を油断させつつ追う形になります。まあすぐに漏れるでしょうけれど」
「佐山氏の訃報はどうされるのですか?」
「それはご家族があなた方を待ってからという話でしたので、まだ出さないんじゃないですか? おそらく遺言状にその一言があったのかもしれないですね。遺産相続の条件として。あなた方も責任重大ですね」
とにかくしばらくはあの地下室の調査は出来ないということだ。
「では館内の、比江島さん達が通われていたところをご案内下さいますか?」
西村課長が済まなそうにこちらを向いた。
「日比野さん、悪いけど頼めるかな? 希望されるところはどこでもお連れしても構わないけど、お客様の近くではセンシティブな会話は控えてね」
「はい、ご案内いたします」
「まずどちらに向かわれますか?」
マスターキーを預かって来た私が話を向けると、辻堂刑事は「じゃあ上からで」と言うので、私達ははじめに5階の常設展示室へ行くことになった。
ここは、当館で所蔵している映画資料を常設で展示しているスペースだ。特集上映が行われる時にはそれに関連するコーナーを作ることもあるが、展示替えはあまり頻繁には行わない。映画の成り立ちや、白黒映画からカラー映画、また無声映画からトーキーへの変遷のことや、戦争中のニュース映画、海外で評価された日本映画のこと、初めて作られた日本アニメ映画のこと、そして現在のフィルムからデジタルへ、といった風に、最初から見ると映画の歴史が簡単に理解出来るように展示されている。
当時の映画撮影カメラや活弁士体験コーナーなどはお子さんにも人気だ。またキャンパスメンバーズ契約をしている大学も多くあることから、映画好きの学生さんが学生証を手に足繁く通ったりもする。
「すごいものですねえ。こういう展示ケースに入っているものがあの邸に多くあったのでしょう?」
ざっと展示会場を眺めながら、辻堂刑事が感心したように言う。
「そうですね。でも地下室はほとんど見ていないので、多分そこに佐山氏が保全を求めたものがあったと思うのですが分からずじまいです」
「そうかそうか、でもしばらくはお待ちいただかないと、ですしね。その間は警察の目もありますから、窃盗犯の侵入などは許さないですから心配なさらないで下さい」
私達が保全出来なかった何かのために、窃盗に入る人が現れるかもしれないのか。死者の墓を荒らすようで嫌な気持ちになるが、無人の家は泥棒に目を付けられやすい。生活の気配がないのなら余計にだ。
「あ、質問なのですが、佐山氏も比江島氏もお一人住まいだったようですが、身の回りのこともご自身でやっておられたのでしょうか? 佐山氏の邸はとても綺麗で毎日プロが磨かれてるのでは、と思いましたが、お洗濯とかご飯作りとか、そういう生活感が感じられませんでしたので」
ふとした疑問を口に出すと、辻堂刑事は笑みを見せた。
「日比野さんはなかなか鋭いですね。そうです、佐山さんは全ての家事を牧田さんか本邸のお手伝いさんに任せていたようですよ。ただし佐山さんの在宅時に限って、という注釈付きで」
「不在の時には誰も邸に入れたくなかった、ということですか?」
「そうみたいです。食事はあまりこだわる方ではなかったようなので、冷凍の宅配弁当っていうんですか? ああいうのを牧田さんが定期的に冷凍庫に仕舞っておいて。ごみ捨てくらいはしていたようですけどね」
「······ごみも邸から持ち出されたくなかった、とかですかね?」
「そういう理由もあるのかもしれないです」
展示室を出た後、受付係と監視員にそれぞれ話を聞いてみたが、彼らは外注のスタッフで映画に詳しいわけでは無いからか、ここに来館するお客様と雑談することはほとんどないとのことで収穫なしだった。
次に向かったのは図書室。4階にあるそこは閉架式ではあるものの司書のレファレンスサービスが神がかっていると有名だ。映画に特化した図書を目当てにレポートを書く学生から本職の映画評論家まで多くの方が利用され、貴重な資料を閲覧出来る喜びが静かに満ちているように思う。
「佐山氏は当館に貴重な資料を寄贈頂いたことがあります。ですが比江島氏はコレクションのジャンルが当図書室の所蔵とは違いますので、あまりお見えにはなられなかったでしょうかね」
カウンター業務を他と交代して遣ってきた井ノ口は簡潔にそう辻堂刑事に答える。彼はここの司書として一番長く勤務しているので、彼ならばなにか知っているのでは、と思ったのだが。
「そうでしたか。比江島さんのことは置いておいて、それでも佐山さんはよくこちらを利用されていたのでしょう? 例えばカウンター業務の際に雑談をされたりですとか、他に親しくしていた司書さんがいたとか、ご存知のことありませんか?」
「······お客様の個人情報を話すのは良くないかと思っていましたが、彼ももう故人となられましたしね。
実は佐山さんは図書室でレファレンスを受ける際に必ず私を指名するほど信頼を置かれていまして、彼が今までの業績を記そうと私家本制作をした際には校正のお手伝いをいたしました」
「そうだったんですか?!」
私の方が驚いて反射的に答えてしまった。
「ええ。他の目も必要だからということで、映画公開年の確認だとか、役者名に誤りがないかとかですね。もう彼は本当に几帳面でデータ作りもお好きですから、さほど赤など入れなかったのですが、出版社の方のミスで図版のナンバリングがズレていたとか、そういうもののチェックが主でしたかね。
今でも校正原稿持ってますよ。第二弾を出したいとお話もしていましたし、とても意欲的な方で、······こんな急に亡くなられるとは思いませんでした」
知らないところで佐山氏との交流が育まれていたようで、井ノ口の目に少し光るものがあるようだが見なかったことにしよう。
「親しくされていた方の死を迎えられたばかりで、お話を聞きに来てすみません。お辛かったですね。
でも、一つ気になるのですが」
辻堂刑事は何てことのないように質問をぶつけた。
「どうして佐山氏の訃報をご存知なのですか?」
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