Tale.18『ルチア』

「………………リス」


 墓前でヒスイが小さく呟いた、その瞬間だった。


『あれれ、もしかして今呼んだかな♡ ヒスイくん♡』


 脳内に直接語りかけるかのように、あの忌まわしくも甘く蕩けるようなサキュバスの声が響きわたる。


「ま、魔王!? だ、誰がおまえなんか……!?」


『なーんだ、ざんねん』


 慌てて立ち上がって辺りを見渡すが、やはりと言うべきか人影はなく、墓石が立ち並ぶばかりだった。

 この場に魔王リリスがいるわけではないことをヒスイはかろうじて理解する。


『私はちょうどヒスイくんに用事があったんだよね〜』


 人を揶揄い、弄ぶ淫魔の誘い。

 その蠱惑的な声音からして、悪い予感しかしなかった。


「だ、だから、俺はおまえと話すことなんて……!」


 ヒスイは会話から逃げるように踵を返すが、脳内に語りかけるリリスにとってそれは意味のない行為だった。


『ほんとにいいのかな?』


「…………っ」


『聞いた方がいいと思うよ? じゃないと——』


 クスクスと忍び笑いをしながら、リリスは囁く。

 

『——キミの大事な人が、大変なことになっちゃうかもよ?』


「っっ!?」


 直後、ヒスイは全力で駆け出していた。


 ルチアが先に帰宅しているはずのヒスイ亭を目指して。


『あはははは! そうそう走って! そうだよね、やっと出会えたんだもんね! ありのままの自分を認めてくれる人。お互いに尊敬し合える関係。繰り返される淫らな夜の営みに何かが生まれ始めていると、本気で思っているんだよね! だからこそ、守らないとだよね!』


 煽るようなリリスの言葉などどうでも良かった。

 仮にルチアの身に本当に危機が迫っているとして、ヒスイは何の役に立てるだろうか。

 ヒスイ程度が解決できる問題をあのルチアが一人でなんとかできないはずがない。

 むしろ足手纏いになってしまうではないかという懸念さえ浮かんでくる。


「く、っ……!」


 それでも足は止まらなかった。


『……大丈夫だよヒスイくん。そんなに心配しないで。こんなやり方しかできないけど、でも、私は………………』


 最後の呟きにヒスイが意識を傾ける余裕はなかった。



「はぁっ、はぁっ、くそ、息がッ」


 全力疾走に耐えられず、ヒスイの身体はすでに悲鳴をあげている。

 日頃の農作業ですら魔法道具に頼って楽をしている有り様なのだから当然だ。


 こんなことなら、運動神経がないなりにも身体を鍛えておけば良かった。


 息も絶え絶えになりながら力を振り絞ってヒスイ亭を目指す。


 数分後、辿り着いてすぐ異変に気づいた。


 出入りの扉が空いたままだ。


 適当なヒスイならまだしも、品行方正なルチアに限ってそんなことはあり得ない。

 

 今日は営業してないから、客というわずかな可能性も絶たれている。


 つまり、侵入者がいるということだ。



「————ルチア!」



 ヒスイ亭へ飛び込む。


 視界に映ったのは、床に崩れ落ち青ざめた顔で涙を流すルチアと——小鬼ゴブリン


「ぎぎゃあ!?」


 幸いと言うべきかゴブリンはヒスイの登場に驚いてルチアから背を向け、こちらに戦意をむき出しにする。


「——ッ」


 弾けるようにヒスイはホールの隅へ走った。筋肉が限界に達してふくらはぎを攣ったが、気にしてる暇はなかった。

 掃除用具入れからモップを取って構えると、ゴブリンに向かって飛びかかった。


「うわあぁぁぁぁあああああ!!!!」


 ただ、一心不乱だった。

 魔物と戦ったことなんてない。ヒスイは勇者でなければ冒険者ですらなく、魔法も使えない村人だ。

 こっちの武器は掃除用具のモップ。対するゴブリンは石製とはいえ殺傷力のある短剣。

 

 怖いなんてもんじゃない。

 本当なら足がすくんで動けなかっただろう。失禁していたっておかしくない。


(だけど……!!)


 それでも守りたいヒトができたのだ。



「はぁ……はぁ、ひ、ヒスイ、さん……っ!?」


 ヒスイがゴブリンと戦っている。

 何の変哲もない掃除用具を大振りに振り回して。脂汗を浮かべながら、恐ろしいくらいに必死の形相で戦っている。


 助けにきてくれた。

 嬉しい。よかった。

 助けてもらえる。

 

 助けられて、しまう……?


「あ、あぁ…………ッッ」


 頭に浮かんだひどく幼稚で無様な考えを一掃するように、ギリと歯を食いしばる。握り込んだ拳に血が滲む。


 どうしてヒスイが戦わなければならない? どうしてルチアは地に膝を降り、助けられることばかりを望んでいた?


 ルチアは勇者パーティであり神官であり聖女である。


 たとえそれらの名を返上してしまったとしても、彼女には戦う力があったはずだった。


 目の前のヒスイよりも、ずっと、ずっと。

 

「なにを、やっているんですか……あなたは。——ルチア!!」


 誰かに守られてばかりは嫌なんだ。

 自分のせいで誰かが傷つくのは嫌なんだ。

 だから才能がないなりに、頑張ってきたんだ。


 その結果だけが、聖女という名こそが、ルチアの誇りだった。


 魔王に敗北して、アランに見捨てられたかもしれなくて、全てを失い、後ろ向きなことばかり考えていたけれど。


 ——俺には、キミが必要だよ


 それでもまだ、こんなルチアを必要としてくれる人がいる。


「聖女なんてもう、クソ喰らえです」


 ただ、ルチアのために戦ってくれている平凡な彼のために。

 そのためなら、トラウマなんて知ったことではない。


「…………っ」


 ヒスイとゴブリンの闘いに意識を集中させる。


 ヒスイが我武者羅に振り回すモップをゴブリンは間一髪で避け続ける。

 戦闘技術があるわけではないゴブリンは回避に必死で反撃をできずにいる状態だ。

 一見、ヒスイが優勢に見える。

 しかしお互いに息が乱れ、体力の限界が近づいていた。


 いや、ヒスイの方はとうに限界を超えている。


「……癒します。”ヒール”」


 手のひらに魔力を集めて、魔法を放つ。杖がないため効果は薄めだが、それでも充分な回復が見込める。


 ヒスイの身体が淡い緑色の光で包まれた。


「————っ!!」


 瞬間、疲労がわずかに癒えたヒスイの攻撃のキレが鋭くなった。


「ギィッッ!?」


 初めての命中。


 たいしたダメージは期待できないがゴブリンは後退し、怯んだ。


 それだけで充分だった。


 ルチアにとって最も必要だったのは、勇気だったのだから——


「”ウィンドカッター”」


 もっとも威力の弱い低級風魔法。

 小さな風の刃は、魔法初心者が作り出すようなものと大差ない。


「ギギャァァァァアア!?!?!?」


 それでも倒せるのが低級魔物・ゴブリンである。


 ゴブリンが倒れ伏すと、室内はシンと静まり返った。


「はぁ、はぁ、たお、した……?」


 ヒスイはその場に尻餅をつくように座りこむ。


「ヒスイさん!」


 ルチアは立ち上がってヒスイの元に駆け寄る。腰が抜けていたようだった身体は、不思議と楽に動かすことができた。


「大丈夫ですか? もう一度癒します。”ヒール”」


「ああ……これ、もしかしてさっきも……?」


 そのおかげで身体が軽くなり、一撃を入れることができたのだとヒスイは今更ながら納得する。


 身体の疲労がスッと楽になるのを感じた。


「ヒスイさんっ、ヒスイさんっ」

「うわっ!?」


 ルチアは衝動のまま、ヒスイに抱きつく。

 

「どうして助けに来たんですか! どうしてこんな無茶をしたんですか! 相手は魔物ですよ!? 殺されたっておかしくないんですよ!?」


「ルチア……」


「どうして……私なんかのために……」


 泣きじゃくるルチアの頭をヒスイは撫でた。優しく、柔らかく、宥めるように。


「守れてよかった。まぁ、実際俺は足手纏いだったかもしれないけどね」


 ルチアの魔法を見た後だと、余計にそんな気持ちが湧く。


「そんなことないです……そんなこと……ぜったい……」


 ヒスイが来てくれなければルチアはきっともう立ち上がれなかった。


 弱いまま死を選んだだろう。


「本当にありがとうございました」

「……どういたしまして」


 ヒスイとしては複雑な思いがないこともないが、この結果自体に文句はない。

 ヒスイには、女の子を華麗に助け出すようなチカラはないのだから。


「疲れたね……今日はもう何もしたくないや……」


 回復魔法をかけてもらったが、それでも心に強い疲労感を残していた。


「では、ヒスイさんはここでゆっくり休んでいてください」


 芯のある声でそう言って、ルチアは立ち上がる。


「……どういうこと?」

「群れで行動するゴブリンが、一体だけ村に紛れこんだとは思えません」

「なっ……」


 ヒスイはすっかり一仕事、いや一生分働いたくらいの気持ちになってしまっていた。


 ゴブリンの真の恐ろしさは、数にある。


 上位種がいる可能性もゼロではない。


「私は村を見てきます。誰一人死なせません。全員守ります」


 ルチアの瞳には強い意志が宿っていた。


 覚悟を決めたその佇まいは皮肉にも、ヒスイにとってまさしく世界を救う聖女そのものだ。


「俺も行くよ」


 役に立てることなんてないかもしれない。

 しかし合理性を捨てた先に今という結果があった。


「とても心強いです」


 ふたりは手と手を取り合い、村へ向かう。

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