Tale.5『翡翠の出会い』


「あっ、おはようございます、聖女様」


 一階で作業をしていたヒスイの元へ、昼前になってようやくルチアが顔を出した。私服代わりの修道服姿だ。


「〜〜っ」


 ルチアはビクッと身体を震わせて頬を朱に染めると、逃げるように壁に身を隠してしまう。


 昨夜の出来事を思えばヒスイにもその気持ちは痛いほどわかった。


「あ、あの……」


 やがてルチアはひょっこりと顔だけを覗かせる。


「……お、おはようございます。ごめんなさい。こんな時間まで寝てしまって……」


 いくら気まずくともちゃんと挨拶を返してくれるのが、彼女の人柄の現れなのだろう。


「身体の方は大丈夫ですか?」

「え? あ、はい……ちょっと、身体が重いくらいで……〜〜っ」


 羞恥に染まるルチアの様子を見て、ヒスイは後悔する。今のは明らかに、いらない気遣いとしか言いようがない質問だった。


 ヒスイとルチアは言わば、協力関係。恋人でもなければ愛し合ってもいない。


 ただ、一夜を共にした。

 魔王に唆された結果ということは理解している。錯乱していたこともわかっている。

 それでも、ヒスイの心境には変化が生まれてしまっていた。


(図々しいことこの上ないよな……)


 恥ずかしがっているルチアの姿が今までになく可愛らしく見えて、仕方がなかった。

 

「朝ごはん食べますよね?」


 会話の選択を間違えたことには違いないので、ヒスイは軌道修正を図る。


「あ、はい。いただきます。で、でもその前に……」

「……? なんです?」


 ルチアはモジモジとした後、ようやくこちらへ姿を現して告げる。


「お名前を、教えてくれませんか?」

「え……? 言ってませんでしたか?」

「聞いてません」

「ま、マジですか……」


 慌てて記憶を手繰り寄せる。が、たしかに自己紹介をするような場面は見当たらなかった。


 ヒスイにとって聖女ルチアは既知の人間。しかし当然、ルチアにとってヒスイはそうではなかったのだ。


(じゃ、じゃあなにか? 聖女様は名前も知らない俺に抱かれたってのか!? う、うぉぉ……俺はなんてことを〜〜〜〜〜〜!?)


 頭を抱えるような衝撃の事実だ。


 言い訳があるとするならば、ヒスイもヒスイなりに一杯一杯であったこと。そしてこの小さな村で日常的に新しい出会いなどあるはずもなく、自己紹介をする機会が久しく存在しなかったということくらいだろう。


「どうかしましたか?」

「す、すみませんでしたぁ! ほんっとうに、申し訳ありません!!」


 直角に腰を折り曲げて謝罪する。


「ええ!? か、構いませんよ!? 元はと言えば私が聞かなかったのも悪いですし!」

「いいえ構います! 罰を! 罰をください! なんなりと! どんなことでも!」

「だから大丈夫ですって!?」


 偉大なる聖女様に無礼を働いたとなれば、亡き父と母に顔向けできない。

 許してもらうためならば、何だってする覚悟だ。


 しかしどれだけ懇願しても、ルチアはそれを良しとしなかった。


「ふふっ。ふふふふ」


 それどころか、笑い出してしまう。


「な、なぜ笑うんですか?」

「ごめんなさい。ふふ。でも、なんだか嬉しくて」

「嬉しい?」

「はい。そうです」


 ルチアは笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭って、ヒスイにゆっくりと近づいていく。


「だって、あなたが誠実な人だってわかりましたから」

「い、いやいや。誠実な人は自己紹介を忘れませんよ?」

「なら、ちょっと抜けてる誠実な人ですね」

「ええ……?」


 ヒスイとしてはあまり納得いかない。しかし、なぜか少しご機嫌な様子のルチアに押し負ける形で、問答は終わりを告げた。


「では、改めて」


 ルチアは遂に息がかかるほど目前まで距離を詰めて来て、上目遣いを寄せる。

 

「——お名前、教えてくださいな」


 瞬間、ドキリと心臓が鳴った。身体の芯から血が沸き立つかのように熱くなる。

 艶のある金色の髪から漂う甘い香りが本能を揺さぶり、まん丸で大きな瞳に視界の全てを奪われた。


「…………っ」

 

 ずっと忘れていた感情の名前を、ヒスイは思い出した。

 

「……ヒスイ、です」

「ヒスイさん?」

「はい」

「ヒスイ……さん。なんだか珍しいお名前ですね。あ、すみません。不躾でした」

 

 愛想笑いして一歩下がるルチア。


「いえ、その感覚は間違ってないと思いますよ」


 ルチアにはちゃんと話すべきだろう、自然とそう感じた。


「俺の父はここではない別の世界から来たんだそうです」


 それはソクボ村の人間にもあまり知られていない、ヒスイの秘密。


「別の世界? それはまさか異世界のお話でしょうか」


「え、そうですけど……もしかして知ってるんですか?」


「教会の書物で異世界人の伝承について読んだことがあります。なんでも過去に異世界から来た御仁は、その異世界の優れた知識や技術を私たちに与えてくれたとか」


「なるほど……」


 田舎に引きこもっているヒスイは知らなかったことだが、どうやら異世界からやってきた人間はヒスイの父——アオイ以外にも存在したらしい。


「俺の父はそんな偉大な人ではないですが、おそらくその人と同じように、異世界からこちらへ渡って来た人なんでしょうね」


 ニホンという国で料理人をしていたアオイはある日突然、セラトネル大陸で目覚めた。

 剣と魔法が物を言い、魔族との抗争に塗れたこの世界で何の力もないアオイは相当な苦労をしたようだが、とある少女に出会えたことで難を逃れ、生き抜くことができた。

 その少女と世界を周った後、やがては結婚してソクボ村に根を下ろし、店を開いたと言うわけだ。


 そのような話をルチアへ丁寧に語り聞かせる。


「ということはもしかして、ヒスイさんのお名前は異世界の言葉なのでしょうか?」

「宝石の名前だそうです。深緑の半透明で、それはもう綺麗な石なんだとか」

「へぇ。それはぜひ、いつか見てみたいですね」

「はは、異世界に行ければですけどね」


 異世界に行く魔法、などというものは聞いたことがない。

 そもそもそんなものがあるのならば、アオイは自分の世界に帰ることもできたはずだった。


「ヒスイさん、手を出してください」

「手? こうですか?」


 右の手のひらを差し出す。

 その手を小さな両手でギュッと握られた。


「私はルチア。これから、よろしくお願いしますね、ヒスイさん」


「は、はい。よろしくお願いしま——」


「敬語はなしでお願いします」


「え、ですがそれは……」


「ここにいるのは、勇者パーティでも神官でも聖女でもない、ただのルチアですから」


「………………わかりました」


 ルチアの意思を尊重しようと、ヒスイは頷く。


「……ぜんぜんわかってないようですね」


 しかしルチアは頬を膨らませて、拗ねた表情を浮かべてしまった。


「へ!? あっ、いや、今のは——!? すすすいません!? じゃなくて、ごめん! ごめんって!?」


「ふふ。仕方のない人ですね、ヒスイさんは」


 必死に敬語を取り払って謝ると、ルチアはすぐに笑みを見せてくれた。


 それはまるで憑き物が落ちたかのように、朗らかで、優しい微笑みで、やっと本当の彼女に出会えたような気がした。

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