第一章 五話


 これが日常であるという現実が、メドにとって許し難いことであった。

 

「最近は国境沿いの山岳地帯に新種が発見されたらしいね。三年前くらいに妖魔の進化予測が発表されてたけど、ある意味当たってたのかもしれない」

「ああ、一週間前の新聞に載ってたな。そこらの妖魔より凶暴性が高いらしいじゃないか。そういう調査に是非行かせていただきたいもんだ」

 翌日の学院である。いつも通り昼食を調達して教室に訪れた二人は、講義室の隅で新聞を広げて話をしていた。昨夜の疲れが残っているのか、ディノは気だるそうに眉間を揉んでいる。

 日差しが眩しかったのか、メドはそっとカーテンを引いた。

「そういえば新聞をとっているんだったね。防衛登録地域がその周辺で増えるらしいから、そのうち新しい派遣先にも登録されるはずだよ」

「運良く配属されるか申請するかのどちらかだな。いや、第三階級を持っていればもっと簡単だ……」

 ディノは机に広げられたスティック型の食べ物にふと目を落とした。メドが購買で買ったのはアイスコーヒーのみで、食事はいつも前もって用意したものだけを食べている。

「また栄養食かよ……そんな味気ないものよく食べ続けられるな」

 やれやれとメドは肩を竦める。

「そういう情報は遅れてるんだね。これは新作なんだ。今までのとは違って色んな味が出ててどれも美味しいって評判だよ。今朝はチョコレート味を

食べたから次はこのチーズ味と、ヨーグルト味を試そうと思ってね」

 納得した様子でディノは教室を見渡す。

「食べるやつが増えたのはそういうことか。まあ、それでも俺は必要な栄養は直接摂取するのが一番好きだけどな」

「そもそも完全食が流行ったのは、急な戦争でも簡素な食事に耐えられるようにするためなんだ。食生活が変わるとコンディションに問題が出たり戦闘で上手く力が出なかったりするから、必要な栄養を吸収できるよう事前に体づくりをしておくわけだよ」

 戦争という言葉にディノは片目を細めた。彼は特に右目に力が入りやすく、表情に変化がなくともそこだけ感情や思考に忠実なところがあった。

「ここにいるやつらは一体どちらの戦闘に備えているんだろうな」

「え?」

「いや……、ということは、だ。お前の体つきが変わったのは、食事に加えてトレーニングも変えたからだったのか?どんなメニューか教えてくれよ」

 苦いものを食べたかのようにメドは顔を歪ませた。

「どこを見たらそんなのがわかるんだ……。君は今まで通りのやり方で問題ないだろ」

「お前は鍛えても細いからな。食事制限までしてたら筋肉も増えないぞ。栄養ばかりが体づくりじゃないんだから」

「華奢で悪かったね。道化師は傀儡師ほど筋肉は役に立たないんだよ。力の大部分は霊獣に依存するから」

 普段気にしていることを指摘されてむっとする彼に、からかい甲斐のあるやつだとディノは笑った。

 スティックを食べながらメドは賑やかな教室に目をやる。真面目に勉強をしながら食べる者、ゴミを投げて散らかす者、それを注意したりふざけあったりして騒ぎ、周りでは笑いが起こり、それを迷惑そうに遠くから見る人もいれば、全く目もくれず話し続けるグループもいた。交友関係は同種で固められる傾向にあったが、基本的に種族の区別なく交わっている。

 その実、同じ人間であれど、名が分かれているからには生き物として違う存在であることを我々は無意識に理解している。

 しかし師の歴史から見て千年以上も前から続くこの関係性は、共生とは言い難い因果で繋げられて出来上がったものだ。そのためあらゆる時代の端々では、反発が起こっては戦争を繰り返してきた痕跡が残っている。現在では妖魔殲滅のため協約を結び平和を築いているが、つい五十年ほど前までは種族間で争っていた仲なのである。

 世代ではないメドでさえつい最近のことのように思える。けれど誰もが彼のように過去を意識しているわけではない。世代が更新される度に昔の出来事は遠い物語となり、忘れ去られていく。それでも過去に残した傷は今も跡として深く根付いている。気づかないうちにその跡は彼らの世代にもくっきりと現れ、腐った鎖のようにそこら中に巻きついているのだ。

 表では平和を装っていても、我々は未だにくすんだ醜い感情を互いに向けあっている──。

「ディノ。報告書はきちんと提出してくれた?」

「ああ、もちろんだ。なんのためにお前より早く寮を出たと思っているんだ」

「そうか。それならいいんだ」

「心配ない。提出しただけのオレと違ってお前は執念深く報告内容を綴っていたからな。対応は向こうに任せるとしても、上には伝わるはずだぜ」

「うん。……でも、こういうことをしたって意味がないんだよね」

 ディノは新聞を捲ろうとした手を止めた。

「……まあな」

「昨日、俺がしたことは間違っていると思う?」

 新聞を畳み、机に置く。

「いいや。お前は正しい。人を助けることは当たり前のことだ。オレが冷たいだけでお前は真っ当な思考をしている」

「君のことを冷たいだなんて思ったことはない。だって本当は人を救いたい気持ちがあるんだろ。だから昨日も助けてくれたんじゃないか。でも、俺はどうしても目の前にいる人を見捨てる選択肢がとれない」

「別にお前のやったことを咎める気はない。そういう気質であることも理解しているつもりだ。……ただ」

 日差しを遮り、陰ったメドの瞳を見つめた。

「必ずしも状況が良くなるわけでもなく、悪化する可能性すらあるというのに、一時的に救いあげた相手に最後までお前は責任が取れるのか?」

 淡く透明な瞳が揺れる。

「責任……」

「可哀想と同情した相手が、次の日もっと酷い扱いを受ける。お前はもっとそいつに同情を向けるようになる。そしてたまたま出逢えばその場で助ける。その繰り返しだ」

 はっとしてメドは体を強ばらせた。

「それこそ可哀想だと思わないか」

 善意の器をひっくり返されたような、居心地の悪い浮遊感が胸を襲った。冷静になれば容易に想像できたこと。それでも助けることには意味があると信じて疑わなかった。何よりもメドはそんな善意によって救われたことがあったのだから、他の道化師もまた救われるきっかけになりうると思い手を差し伸べていたのだ。

 だというのに、その心では意味は成せないというのか。

「……俺はディノみたいにはなれないよ」

「お前のそれは偽善じゃないからこそ成り立っているものだ。オレだってそうはなれない。どうしてもその先のことや結果を考えて、結局きりがないと諦めてしまうからな」

 少なくとも自分がやることではなかった。メドのようなまっすぐな心など、とうに枯れてしまったのだから。

「でもお前の気持ちまで枯らしてしまうつもりはない。本気で救いたいと思っているなら、計画を進めるために協力してくれないか」

「え」

 ディノは教科書に挟んでいた紙を取り出し、メドに差し出した。

「いい加減お前の堪忍袋の緒も切れそうだからな。そろそろ内容を説明しようと思う」

「これは?」

「リストだ。お前が協力してくれるなら、それに書いてあることを実行してほしい」

 いいか、メド。と念を押すように前かがみになる。

「状況を覆すには多少の犠牲も必要だ。変革を望んで旗を掲げたとしても成し遂げることは難しい。だからと言って一度始めれば戻ることはできない。それでも今を変えたいと望むなら、覚悟することだ」

「ああ」

 力強くメドは頷く。

「道化師のためにも、俺は何だってやるさ。神に誓ってね」

 その執念を胸に抱きながら。



♦♦♦



 学院の校舎は島で最も標高の高い場所に建てられているが、その正門は反対に最も低い場所に構えられている。

 近くには島の者が大陸へ向かう手段のひとつである港があった。海風に吹き晒された重々しい鉄柵には、中を垣間見る隙間もないほどに植物がたっぷりと絡まり、三位一体の意匠が施された堅牢な門が二人の門番によって守られていた。

 とはいえ師の集う学院へ侵入しようとする輩が滅多に現れるものではないのは事実だった。大陸に比べて島はすこぶる治安が良い。退屈そうに並ぶ屈強な男たちは、駄弁を弄しながら門の柱に寄りかかっていたが、遠くから人影が見えると、あれは何だとそろって目を細めた。

 団体ではなくたった一人で門へ訪れる人がいるのは稀なことだった。だからこそ最初は怪しいと踏んだものの、その正体が子どもであることに気づくと、やや警戒を解いて門番は定型文を口にした。

「所属を答えろ」

 大きな荷物を肩に担いだ青年は、汗を滲ませつつも快活な声を発する。

「俺はここの師徒だよ。蒐州学院本部所属、ゲイツ・ティオルドだ。ほら、時計とバッチ」

 男たちは強面な顔を近づけてじっくりとそれを確認すると、にっこりと頬を弛緩させて勝手口を開けた。

「よし通れ。長旅ご苦労だった」

「ああ、ありがとな。おっさんたちもお疲れ様!」

 気持ちのいい笑顔で大樽ほどの大きさがある荷物を器用に勝手口に通し、また軽々と持ち上げて青年は門の向こうへと駆けて行った。

「そろそろ遠征組が帰ってくる頃合か」

「だな。ようやくオレたちの仕事が帰ってきたぜ」

 門番たちは装備を整え出迎える準備をした。

 ゲイツと名乗った青年は遥か上にある寮を目指してひたすら走る。息を切らすことなく淡々と石階段を登り、天高くそびえ立つ学院を仰ぎ見た。

 初めての遠征任務から、約半年ぶりの帰還であった。





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