第五章 四話


♦♦♦



 毒に侵食され麻痺していた精神は、自覚症状もなく無責任で、無作為で、自己満足な正義を振りかざすまでに悪化していた。

 正しくあろうとしたのは、否定されるべき部分を正当化したかったからだ。わかっていたはずなのに、直そうとはしなかった。ディノはその未熟さが招いた死にしばらく囚われ、懊悩して堪えがたい自責の念に延々と駆られ続けた。

 自問自答を繰り返し、一つの結論に辿り着いた時には、もう冬は過ぎていた。

「ほら、薬」

 ベッドを囲うカーテンが引かれた。

 物思いに耽っていたディノはやや明るくなった視界に目を細める。

 メドは持ってきた小瓶をサイドテーブルに置くと、丸椅子を引き寄せて座った。

「どう、調子は」

「そこそこだな……、瓶、開けてくれないか」

 体を捻って左手で瓶を取ったディノは、指で蓋を回すのを早々に諦めてメドに渡した。

「何粒?」

「二つ」

 師徒の暴動から一夜が明けた。昨晩の大雨で湿気た空気が病室に充満し、分厚い雲が重たげに浮かぶせいで太陽も拝めず、何人も怪我人が運ばれたここは日が沈んでからもどこか鬱屈としていた。

 追加部隊が派遣されてから騒動はようやく収拾の兆しが見えたが、参加した師徒の数は予想を上回り全ての師を捕らえるのに時間を要した。学院は今回の件を受けて師徒の統率強化のための会議を全教員を集めて行ったという。

 ディノは薬を口に放り込むとコップいっぱいに入った水を少しずつ飲んで流した。

 胸の疼痛を抑える薬はディノの部屋に保管されていた。頻繁に服用するものではなく週に一度だけ携帯用に補充していたが、丁度切らしたところに発作が起きてしまい、治療で取りに行く暇がなかったディノはメドに持って来るように頼んだのである。

 霊獣に襲われ右腕の骨折と全身打撲を負ったディノはメドが庇ったおかげでどうにか致命傷を免れた。腕を狙われたのは鎖断ちが目的だったのだろう。もしメドと契約していれば致命傷どころの話ではなかったが、彼が慎重だったおかげで絆の代わりに骨一本の犠牲で済んだ。だがカイレムやルース、ゲイツたちのその後の行方は知れず、運ばれた患者の中にもそれらしき人はいなかったとメドは言っていた。

「学校が始まれば生きてるかわかるだろう。一晩中動き回って疲れた。腕が治るまでお前もゆっくり休めよ」

「そうさせてもらうよ。……必要なものがあったらまた持ってくるから」

 ディノは思い出したかのようにサイドテーブルを指さした。

「そうだ、帰りに手紙を出してくれないか」

 メドはコップの手前に置かれたそれを拾い上げた。印籠も押されていないシンプルな封筒である。裏返すと筆記体で書かれた宛名に目が入り、メドはどきりとした。

「いいけど、これ……」

「そろそろ家から催促が来るそうなんだが、怪我のおかげで断る口実が出来たんだ。そういうのはちゃんと事前に知らせておかないとだろ?」

 したり顔をしたディノだったが、メドは反対に表情を曇らせる。

「会食か……ご両親にはまだ俺のことは言ってなかったんだっけ」

「契約すればそのうち言うつもりだ。済ませてからじゃないと大変なことになる」

「ディノはそれでいいのか」

 何が、と手を頭の後ろに回す。

「俺を選んだらどちらにせよ困ることになるだろ」

「あの人たちを出し抜いてやれればそれでいいんだ。一度してしまえば契約解除なんて不名誉なことは強制しづらいだろうし、説得するよりもスムーズに行く。……やっぱり不安か、オレと組むのは」

 メドは僅かに視線を落とす。

「いいや。寧ろ頼もしさすら感じるのに不安だなんてとんでもない。君とペアになってだいぶ経つけど、ずっと一人で背負っているのを見ているしかなかったから、心の内を晒そうとしない君の隣に立つだけでどれだけ役立てられるんだろうと思ってね」

 テムの自殺からディノは道化師との接触を極力控えるようになった。図書館の個室に籠りきりになり黙々と書物を読み込む彼は目も当てられないほど沈んでいたが、メドがいくら慰め寄り添おうとしてもディノは最後まで心情を打ち明けることはなかった。死を選ばせてしまった後悔から脱するまでを全て内側で完結させ、メドにすら介入を許さずひたすら緩んだ螺を閉めて回り、思考の再構築を図った。

 そうして導き出した答えが、派閥の解体と平等の実現だった。

「何でも言えとは言わない。けど君の理想に憧れてついて行くと決めたからには俺もできることをしていきたい。君が前に出るんじゃなく、俺も一緒に前線に立つのは駄目なのか」

 彼の丸まった背中に手を添えるだけは力になれない。契約は二人の通過点ではなく共に道を歩む誓いだ。一方通行に前を向いていては見えるものも見えなくなってしまう。

 ディノは真一文字に結んだ口を開いた。

「人に散々偉そうにものを教えておきながら、パートナーの定義すらオレはこの通り分かっていないんだ。何があってもお前は幻滅するどころか食らいついて来て見放そうとしなかったから……勝手に戦えてると思い込んでた。それも、間違いだったんだな……。また自分のことしか考えずにお前を置いて行こうとしてしまった」

 くすんだ乳白色の天井を見上げる。

「君が完璧だと思ったことはない。師は一人でいるには不完全な生き物なんだから。そのことをほとんどの人が自覚しないのに君は揺らがず一人で信念を貫こうとしていた。俺は本能的に偏った均衡を正そうとしていたその姿に憧れたんだ。でもディノ。くさりを繋いで完全へと近づけば俺たちは今度こそ食い違わずに向き合っていけるんじゃないかな」

 視線を横にやると、メドは目尻を下げて小さく笑っていた。

「きっとその先でいくらでも変われるはずだ」

 彼の後ろで雲間からぼんやりとした月が遠慮がちに覗いていた。ささやかな輝きが、内にある蟠りを解きほぐしてくれるようだった。

 ああ、とディノは腑に落ちた。

 己の愚かさに気づけたのは、人と心を通わせ、友人とも極端に一線を引こうとせず、人と人との繋がりをなおざりにしなかった彼のおかげだったのだ。

 寝ながらも、ベッドの上で力が抜けた。前頭にかかった雲が嘘のように晴れていく。

 ああ、ようやく赦されるのだな、とディノは思った。


♦♦♦


 庭を彩っていた色とりどりの花々はとうに枯れ果て、辺りは青々とした深い緑が茂り、春の終わりの景色を爽やかに塗り替えようとしている。

 天に拳を突き上げ、久方ぶりの快晴の空の下で伸びをしたディノは、吸った息を大きく吐く。

「これ持ってて」

 メドが銀の十字架を通り際に渡した。

「実家から持ってきたやつがあるからそれは君にあげるよ」

 シンプルな作りの十字架は学院に入学した師徒全員に配られるものだが、祈りだけでなく契約の儀式にも必須となる道具である。早いうちに無くしてしまっていたディノはない状態で儀式に挑むつもりだったが、半端な気持ちでやるなとメドに怒られ大人しく借りることになった。

「お前も対して信仰は篤くないだろうに」

「鎖断ちで切れないほどしっかりと繋ぐには儀式の形式に正確に則らないと」

「確証もないことを言われてもな」

「大事なことだ。今日くらい敬虔な態度を見せたっていいだろう」

「現金なやつ」

 首にかけ、陽光に反射する十字架を指でくるりと回した。

 怪我が回復して一週間もしないうちに申請を済ませ、二人は陽気のいい休日の暮れに儀式を執り行うことになった。

 泥汚れがすっかり落ちた清潔な戦闘服に身を包み、歴史ある厳かな大聖堂の扉を押し開ける。

 床は浅く聖水が張られていた。水が撥ねないよう静かに中央を歩く。左右の壁には縦に大きくステンドグラスがはめ込まれ、物語を模した色とりどりのグラスを通した光が、夕暮れの日差しと混ざり合い濃く長く床を彩った。

 祈るための椅子は一つとして置かれておらず、壇上の上すら余計なものは取り払われていた。ここに必要なのは神父、正典、そして一対の師のみである。

 水面に浮かぶ円形の陣の真ん中に立つと、待ち構えていた神父は書物を開き、書かれた言葉を読み上げていく。

 「ディノ・ブライン・オルヴィス、メドリュクス・カルメロイ。その命を捧げ、賜り、繋ぐことに、自我と非我を委ねないと、主に誓うことができるか」

 膝をついて祈っていた彼らは、ゆっくりと頭を上げて答えた。

「はい」

「魂に誓えるか」

「はい」

「では、主よ、彼らの清らかな精神と肉体をくさりで繋ぎ止め、一つの円環へと導きたまえ」

 七方位から聖水の玉が浮かび上がり、落ちて波紋が広がった。

 向かい合い、ディノは右手を中央にかざし、その下にメドは左手を伸ばした。


「──Thelema《テレーマ》」


 二人の胸に宿るオボから赤と青の筋がゆらりと波打ち、腕を旋回して手の間に集約し始めた。

 どこからともなく吹いた風が水面を揺らし、服を翻す。

 かざした手の内側がだんだんと熱を帯びる。魂魄の気脈が次々と流れていき、エネルギーがぶつかり合っているのだ。絡み合いながら通り過ぎて互いの体を巡回し、そしてまた手の中へ戻る。曖昧だった循環は繰り返す事に精密化され確立されていく。エネルギーに押し返されそうになりながら、二人は腕に力を込めた。

 摩擦でちりちりと細かな熱が弾ける。

「我が片志に汝の秘めたるしるしを」

「我が片志に汝の密やかなしるしを」

 七方位から飛び出した聖水がディノの手の甲の真上で渦を巻く。生き物のように蠢いて晴れると、先端が細く尖った一本の棒が現れた。

 まっすぐに降りて二人の手を貫通する。

 どくん、とオボが脈を打った。

 歯を食いしばり、さらに強まる力に手を震わせる。青と赤が次第に混じり合い筋が時折紫に変色する。流れが早まった。

 すると手の皮膚が膨れ上がって神経のようにぼこぼこと腕を走った。気味の悪い感覚が首や顔、胴体と全身に広がって泡立つ。

 二人は目を合わせた。中心を貫く棒から枝分かれして竿が出現する。手が燃えるように熱く、血が沸騰しているかのようで今にも離れてしまいそうだった。互いに手をぐっと近づける。

 吊り下げられた器が左右に振れる。右の精神、左の肉体それぞれの魂魄の重さが測られ、釣り合いが取れているか査定される。少しの差異も許されない。

 金属の擦れるささやかな音があちこちで聞こえる。

 ぐらり、ぐらり、器は一方が下がっては一方が上がるのを繰り返し、二人はさらに手を近づけた。

「「証人に告ぐ。

 七つの洗礼、七つの福音。

 七つの御使いにより七つの罪をここに懺悔し、

 我々は七つの秘蹟を賜る。

 主のみこころのままに。

 汝の誠の意志のままに!」」

 かちりと天秤が静止した。

 皮膚を裂いて、くさりが駆け巡る。

 光が満ちて、彼らは強く、手を握った。

「「Nos ovum esse unaノース オヴム エッセ ウーナ!」」


「そういえば、俺を選んだ理由をまだちゃんと聞いてなかったね」

 大聖堂に入る前、ディノがドアを押そうとしたところでメドがだしぬけに言った。

「そうだったか?別に改めて聞くまでのことじゃないぞ」

「へえ。余計気になるな」

「ただ、師としての責任をお前になら持てると思っただけだ」

 大衆を掬い上げるほどの器がないのであれば、一人だけでも、とあの頃の彼は思い詰めていた。

 もう誰も傷つけはしない。身の丈に合わない偽善も捨てる。

 だから天秤の片側に乗せると決めたパートナーだけは、今度こそ必ず救わねばと。

 誓いは確かに、二人を硬いくさりで繋いだのだった。


-第一部 終-



 

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ゲヘンナ・ロンド〜眠れる獅子と踊る愚者〜 狗柳星那 @se7_sousaku

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