第五章 三話


「オルヴィス君」

「……?ああ、カルメロイか」

 本を返却しに来たディノは再び図書館でメドと会った。露を紡いだような白髪に忘れかけていた名前を思い出す。一週間ぶりのことだった。

「呼ぶならファーストネームにしてくれ。苗字は重苦しい」

「ディノ君ならまたここに来ると思ったんだ」

「何だ、また聞きたいことでもあるのか」

「君に倣って歴史について勉強し始めたんだけど、何かおすすめの本はないかな」

 本は隙間なく元の棚に収まった。

「歴史か……師の成り立ちは正典かディポルカの神学、戦争についてはエイメン、文化はワルガー辺りの本を読めばだいたいわかる」

「覚えておくよ。やっぱり物知りだね。いつもどの講義を受けているの?」

「授業はあまり関係ない。講義で学べることは全体のほんの一部だから、そこから先は自分で調べるようにしてる。教授に聞けばいくつか参考文献は教えて貰えるぞ。そういえば一年生だったな、お前」

 移動すると、少し後ろをメドがついて歩く。

「あれ、君は違うの?」

「オレは一応二年だぞ」

「ええ、試験に出ていたからてっきり同い年かと」

「あれは臨時でお願いされて参加しただけだからな……そういえばあの件はどうなった」

 メドは少し間を空けて言った。

「マリクとはしばらく距離を置くことにした。ほとんど君の言う通りだったよ。たくさん話し合ったけどどうしても分かり合えなかった。マリクは辱めを受けた無念を晴らしたかったみたいだけど、俺にはその気持ちが理解出来ないんだろうと言われた。その通りだったから何も言えなかった。俺も傀儡師とトラブルになったことはあったけど、あいの悔しさや辛さまで汲み取ってやれるほど世間を知らなかったから」

「だから歴史を学ぼうとしたのか」

「講義じゃどうしても細かいところは流されるからね。師の戦争は特に教科書では最小限にしか書かれていないから、あれだけで全て把握するのは難しい」

「そうだな。オレたちはその話題に積極的に触れようとはしない。いくら戦おうとも共生を前提とした仕組みから逃れられないから、過去の遺恨に蓋をして見えないフリをしている。だから残された問題にいつまでも取り掛かろうとしないんだ」

 表紙を見てまた一つ本を収める。

「ほら、これ」

 エイメンに関連する学術書を引き出し、メドに渡した。考え込んでいたメドは流れるように受け取ってはっとする。

「……あ……ありがとう」

「規模が大きいから場所も覚えきれていないんだろ。欲しいのがあるなら探してやるよ」

 改めてメドはこの珍しい傀儡師を不思議に思った。

「君はどうして道化師に優しいんだ?」

 ディノはニヒルな笑みを浮かべる。

「……は。皆感覚が狂っているもんな。これが普通なんだよカルメロイ。オレたちの世代は一度たりとも争ったことなんてなかったんだから」

「道化師を助けているのはそういう理由で?」

「いいや。あれは私情だよ」

 隣の棚へと入って行くディノの表情は何とも言えない絶妙な雰囲気を醸し出していて、メドはこれ以上踏み込むまいと口を閉ざした。

 自分を可哀想だと言った言葉の裏にその表情の正体があるような気がした。

「良ければ今度この本の感想を話してもいいかな。君からの意見も聞きたいんだ」

「いいぜ。次の休日に個室を取って勉強するから読み終わったらその時に来てくれ」

 そうして彼らは度々図書館に集うようになった。緩やかな交流は荒立つ日常とは裏腹に穏やかに流れて行き、付かず離れずな二人の間を揺蕩っていた。

 やがて秋が終わり空風が吹き始めても特別親しくなることなく名称のない淡い関係は続いた。深入りせず、かと思えばただその日あった出来事を話し、任務の大変さやテストの乗り切り方など当たり障りない会話を楽しみ、時に師徒らしく討論を挟んで勉学に励んだ。種族や年齢や身分など考えずこうして何気ない時間を送るのは彼らにとって価値のあるもとなっていた。因縁の毒が回らない空間は居心地がよく、澄んでいて息がしやすかった。境界線をなくした曖昧な在り方が学院の濁った空気から切り離してくれたのだ。

 何でもない関わり合いを持つことがどれだけ難しく貴重なものだったか。身に染みて感じていたからこそ、二人は安易に師としての立場を持ち出さず敢えて距離を保った。

 ディノが道化師を遠ざけようとしなかったのはこれが初めてだった。

 傀儡師も道化師も等しく嫌っていた彼は敵をなるべく作らないよう貴族とは最小限の付き合いで済ませていた。下手に友好的にすれば道化師から反感を買い、傀儡師は勢力に加担させ都合のいいように扱うから、繋がりを持つのが億劫だったのだ。

 どちらも自分のことばかりで個人の人となりを見ようとはしない。たった二つの区分に分け偏見塗れの目で恨めしそうに睨み合う、自尊心に溺れる傲慢さも、意地でも負けまいと競り合う陰険さにも、うんざりするほど付き合わされてきた。

 この島に生まれてからずっとそうだった。

 オルヴェーニュ派の上席に並ぶオルヴィス家は遥か昔からオルヴェーニュ家と懇意にしていた。掲げられた思想に従ってシュラト派を政界から退場させるべく手を結んで奮闘し、ディノも幼い頃から社交場に出て貴族としての立ち振る舞い方を教えこまれて来た。

 カイレムに出会ったのはその時期だった。幼い年齢にそぐわず落ち着き払った子であったカイレムはディノとよく遊んでいたが、活発に動き回るよりも書斎で本を読み漁るのが好きで、よくディノを連れて訪れていた。

 子ども心に部屋でじっとしているのが楽しいなんてつまらない奴だとディノは思っていたが、時々勧められたものを読んでは神童と呼ばれた彼の敏い一面を垣間見て、同い年でありながらその才がどこまで伸びるのか密かに期待を寄せていた。

 初等部に入学してまもなくカイレムは道化師と仮契約をした。温厚な彼は最初こそ良好な関係を築き仲睦まじく過ごしていたが、ある日十字架を交換する際に仲違いしてしまいそれからカイレムの態度は一変した。

 ディノが発見した時には道化師は顔に切り傷を作って木の根元に蹲っていた。

 この件は子ども同士の喧嘩として処理されたが、その後のカイレムに一切指導しない大人の不自然な対応が、だんだんとディノの内側に霞のような違和感を覚えさせるようになった。カイレムは事あるごとに道化師に無理を強いてはトラブルを起こし、ディノが仲裁に入ろうとも調教だと言い張って聞かなかった。どの大人に相談しようとも皆口を揃えてこう言うのだ。

 契約を交わしたからには道化師は傀儡師に従うべきである、と。

 オルヴェーニュは道化師を許容しない。それに気づいてディノは背中が冷たくなるのを感じたのだった。

「……の、……くれ、……」

 どうして自分が訴える度に皆首を傾げて困った顔をするのだろう。

「め……、て。……の、……!」

 どうして人が蔑視されるのを黙って見過ごす?

「……ディノ」

 オレたちは天秤の上で平等ではなかったのか。

「もうやめよう、ディノ」

 神の元に生まれた我々は所詮、この程度の存在。

 翼も持たず地上に降り立ち、魔を討伐するために誂られた兵師であれば、俗人に成り果てるのも当然のこと。

 ディノが踏みつけた足の下には鼻血を流した傀儡師がいた。虐められていた道化師を助けたところを傀儡師に逆上され悶着が起こったのだ。赤い一筋がシャツの襟元に付着してじわりと滲んでいる。上位貴族に抵抗した傀儡師は珍しかった。人を侮るとここまで堕ちてしまうのかと、ディノは胎内に巡る黒い影を呪った。

 憎らしかった。

 貴族然としていながら地位に胡座をかき、天秤を揺るがそうとする奴らが憎くて堪らなかった。

 均衡を知ったせいで世の中の不平等さに怖気がついた。幼さ故に偏りを正す力も何も持たなかった虚しさも今になっては健気な思い出だが、狭い世界で自分だけこの異常さに気づいている孤独に魘されて少しずつ影は濃く大きくなっていった。

 とっくの昔からこの身体は毒に慣らされてきたのだ。どう足掻いても自分は彼らの同胞なのだから。

 解毒剤として罪のない道化師を救うことで、まともであると言い聞かせ、奴らとは違い正常であると証明したかったのかもしれない。

 果たしてこれが正しい在り方だろうか。

「ディノ、大丈夫か」

 影と日向を渡り歩く。

 俯瞰した視点でものを見るのは一つの手段に過ぎない。負の循環を巡っているディノは新たな視点を手に入れながらもそこから脱する力はなかった。道化師を守るのも蔓延する毒から逃れようとして出た禁断症状のようなもので、頭のどこかでわかっていながらも正しい道へ行きたいがために騙し騙しに傀儡師を裁いた。

 種族問題に向き合わず先送りにしていたのは他でもない自分であったのに。メドに師の何たるかをどうして教えることができるだろうか。

「ディノ!」

 柱の影の中で止まった。

「道化師を守ってくれただけなんだろう。俺はわかってる。君は悪くない」

 それだけの理由であれば、最初からこんなことはしていなかった。

「……もっと人を疑えよ」

 過ちに気づいてから罰を下すまでの神の判断は早かった。

 大粒の雪が島を白く染め上げた日にディノは、メドに誘われて初めてペアで任務に赴くことになった。師の関係を持ち込みたくなかったディノは一度断ったが、どうかこの日だけと強く押すメドに拒否し続けるのも忍びなく、渋々コートを羽織った。

 乾いた風が吹きすさび、外に出てすぐに服が雪に塗れた。手袋をはめて校舎の前に伸びる大階段へ向かおうとすると、上階の窓がやけに騒がしい。見ると師徒らが遠くの方を指さしてまずい、止めろ、と口々に叫んでいた。

 建物の脇にあるテラスからは学院を囲う岩壁が塔の奥から覗いていた。なだらかな丘になっているそこは一部壁が崩れていて、さらに奥には海があったはずが、一クラス分ほどの人数が群がって塞がれていた。

 ディノは目を細めて注視すると、たちまち顔色を変えて脇の階段を降りて行く。メドはわけがわからないまま後を追ったが、彼の切羽詰まった様子にただ事ではないと察した。

 丘には教師が複数人立ち会っており、校舎に比べてやけに静かだった。不安げな声を漏らし雪に紛れて何かを囁きあったり祈りを捧げたりと、今にもお葬式が始まりそうな悲愴感で満たされている。

 慎重な足取りでディノは壁へと近づいて行く。

 教師が諭すように言った。

「いいかい、こうなってしまったのは我々の落ち度だ。どうか考え直して欲しい。私がなんとかしてあげるから、早くこちらへ戻っておいで」

 積み重なった岩の上に立つのは、かつて試験を共にしたテムという少年である。

 寒い季節だというのに軽装のまま袖をはためかせていた彼は、虚ろな目で夢遊病者の如くぼんやりとこちらを振り向く。

 充血した真っ黒な瞳が見開かれた。

「ディノ・ブライン・オルヴィス……!」

 視線が一斉に後ろに集まった。ディノは迷わず前に進み出る。

 テムのそのやせ細った手足には傷跡のようなものがあった。顔には痣が浮かび、耳から流れたであろう血が乾いて皮膚にこびり付いていた。傀儡師にやられたのだとディノは直感した。ずっと前から被害に遭っていたテムは試験の相方すら満足に選べず困ってるところをディノに助けられ、階級を得た。けれどその後は講義や任務などで会うこともなくそれっきりになっていた。

「テム」

 だがそれだけでは終わらなかったのだ。

「どうして助けてくれなかったんだ」

 伸ばそうとしたディノの手がひくりと止まる。テムの大きな目に捉えられ、足が凍りついたように動かなくなった。テムの瞳孔の奥には暗い底なしの沼が張っている。それに気づいた途端、ふっと得心が重く腕にぶら下がった。

 少年は既に胴までその身を沈めてしまっている。手の施しようがないほどの深み。彼はこちらへ戻って来ようという意志もなく、ただ頭の先まで沈み消えてなくなることを願っている。

「僕はずっとあなたを待っていたのに……!」

 今か今かと助けを待った。しかし救世主は二度と現れなかった。

「待て、テム」

 神は我を見捨てたのだ。

 小さな絶望は少年を闇に葬った。

「この偽善者め」

 冷たい海へ投げ出される。いつかの十字架とそう変わらない軽さで、落ちて、水飛沫も呆気なく波に飲まれて、とうとう上がって来ることはなかった。


 

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