第四章 二話
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どのくらい走っただろうか。東塔を回ってすぐのところにある小さな森に入った。にわかに雨が降り始め、木の葉の隙間から落ちる大粒の雫がゲイツの頭や肩を濡らした。
まるで何かの引力によって導かれているようだった。
星の光も届かぬ深緑の森を木々を伝うようにして歩いた。途中で思い出して懐中時計のライトを付ける。信号の返信はもちろんない。ゆらゆらと揺れる明かりを追いかけてどこか夢心地に奥へ進むと、やがて探していた気配が輪郭を濃くして行った。
もう少し、といったところでゲイツは足を止めた。ライトの端に黒い影が写った。
見ると、木の根元で人が倒れている。近づいて声をかけるもぴくりとも動かず、全体的に土まみれになった服に雨が滲んで汚れていた。しかもところどころ裂けて血が流れている。どうやら戦った跡のようだった。気絶しているだけで死んではいないようだが、果たしてこれは、と疑心暗鬼になりつつ、ゲイツは先へ進んだ。
呻き声である。
ぬかるんだ土を踏む音に混じって、耳に届いた。
それが雨の中で途絶えて地面に落ちる。声を頼りに急ぎながら、ライトで地面を照らして探った。
するとそこに、大きな鉤爪のついた獣の足が浮かび上がった。
「ルース……」
ゲイツよりいくらか背が低かったはずの彼は、変形した四肢によって少しばかり大きくなっていた。
足先の黒黒とした毛は膝へ向かうに連れて金色へと変わっている。手は肘から先が元の腕よりも太く生え、やはりそれも金を帯びて、一振すれば人間の柔肌など一瞬で抉られてしまうだろう大きな爪がそこから伸びていた。
ゆっくりと振り返った彼の黄金の瞳が、怪しく闇夜にぽっかりと浮かんでいる。
先程倒れた人の傍にはもう一人誰かが伏していた。
ああ、そうやって今まで彼は独りきりで戦って来たのだな、とゲイツは妙に納得した。
「本当に無神経な奴……。
ゲイツは自分の掌を見た。
「いいや、わからない。お前がここにいる気がして……」
「煩わしいんだよ。失せろ」
視界にも入れたくないのか、ルースは背を向けて走り出そうとした。あの足で逃げられればとても追うことは出来ない。
どうにか止めようとして、ゲイツは声をやや大きくして言った。
「どうしたらお前を救うことができるんだ。教えてくれ……お願いだ!」
ルースは舌打ちをする。
「もう遅い。道化師が直接制裁を下せるこの好機をどうして逃すことができる?誰かでなくともこの僕がやってしまえばいいだけのことだ。今更お前なんか必要なものか」
それでも止まらないルースに縋るように手を伸ばす。
「俺を殺してくれたっていい。それでお前の気が済むならいくらでも刺してくれて構わないから、だから償わせてくれ。どうか、どうか……」
「煩わしいと言ってるだろ!」
強い力でゲイツは振り払われ、胸ぐらを掴まれた。
「お前みたいな臆病者に出来ることはせいぜい契約を切ることだけだ!僕が味わってきた苦しみなんて誰にもわかるものか。お前が死んだところで過去が消えるわけじゃないんだよ!」
だから、過ちも消えることはない。
抵抗する気力もなく、ゲイツは項垂れた。
「……そうだ。俺は相応しくなかった。傀儡師としての責任を放棄して、上のやつらに逆らえずに、遠征を口実に逃げた。何もしてやれなかった。お前が前に言った通り、俺は麒麟に目が眩んだだけなのかもな……」
険をむき出しにしてルースはゲイツを突き飛ばし、倒れたところで首を絞めにかかった。
「
半月ほどの遠征から帰還したゲイツが見たのは、首に縄を付けられ家畜のような扱いを受けているルースの姿だった。
「最近お前、オレらを避けてるだろ。声掛けても無視しやがんの!酷くねー?オレら何かしたかなあ、って。だからこいつに話聞いてたんだよね。お前らここんとこよくつるんでるだろ」
外回廊の隅でぷらぷらと紐を弄ぶ男。それを卑しく笑いながら見守る仲間たち。中心には捨てられた仔犬のように服に汚れや皺をつけて座り込むルース。壊れた玩具のように頭を垂れて動かず、わざわざ聞かずともゲイツがいない間に何があったのか、状況がありありと示されていた。
ルースが目をつけられてしまったのもそうだが、調子に乗って彼らとなるべく関わらないようにしていたのが裏目に出たことにゲイツは焦った。どんな上手い言い訳をしようとも彼らが見逃してくれるとは思えない。
「ルースは……関係ねえよ。俺新しい任務を初めて少し忙しくなってただけだ。課題も全然追いつかなくて、どうしても手が回らなくてさ、避けてるつもりはなかったんだけど……」
「じゃあもう二度舐めたマネしないって約束できるか?」
脅しに等しい警告に、ここは穏便に済ませなければとゲイツは頷く。
「……ああ、わかったよ。ルースを離してやってくれないか」
「は。こいつ関係ないんだろ?だったらオレらの好きにさせてもらうぜ」
「……何でだよ?俺がいるんだからもう用はないだろ」
そんな問題ではないと男たちは笑い始める。どうも雲行きが怪しい。
「お前ら契約結んでるんだろ。カイレムの坊ちゃんがお怒りだぜ?」
名を聞いた途端、頭の芯が冷えていく心地がした。
ひっそりと儀式を行ったはずが、なぜオルヴェーニュの耳に入っているのだろう。
「よりによってシュラト派と組むとは趣味が悪いねえ。急がなくても僕が紹介してあげたのに〜って残念がっててさあ。あの方にあんな顔させてどうするんだよゲイツ、なあ?」
「……いや……契約なんかしてない」
萎縮するゲイツに蛇のように視線を這わせた男は、おもむろに腕を掴み上げる。
「へえ?じゃあ絆断ちされても困らねえよな」
互いに手を引き合って震える。
「なんだよ、それ」
「強制的に契約を断つんだよ。絆に刺激を与えれば切れるんだと。お前で試させてやるよ。あの犬は出し方知らねえみたいだし」
「やめろ!」
恐ろしくなってゲイツは振りほどいた。
「はは!こいつほんと嘘が下手だな。契約してないとかほざきやがって。正式な解約を行わないってんならこっちは容赦しないぜ。オルヴェーニュ派を裏切ったんだからなぁ!」
啖呵を切ったのを合図に、次々とゲイツに手が襲いかかる。
「まずはカイレムの前で謝罪してもらおう。どんな言い訳が聞けるか楽しみだな」
堪らず振り切って、ゲイツは逃げ出した。
あいつに会ってはならないと脳が警鐘を鳴らす。
オルヴェーニュは危険なのだ。それをわかっていたはずなのに、何を勘違いしていたのだろう。
カイレムは冷酷無情な傀儡師として道化師の間で恐れられている存在だ。入学式で自分に唾を吐いた道化師を噴水で溺死させかけたという有名な噂がある。奴は道化師に対して容赦がない。そして己に背く者にもまた慈悲をかけることなどない。
会ったら終わり。認めたら終わり。向き合ったら終わり。
けれど、逃げ出そうとした瞬間のあのくすんだ黄金の瞳が、目を逸らした後も霧のようにまとわりついて離れなかった。
恐怖に脅かされパートナーを助けることもできなかった。自分がどれだけ弱く情けない人間なのかを知らしめているようで恥ずかしかった。
やはり一人で戦うべきだったのかもしれない。
誰かのために立ち向かうこともしない傀儡師など、
ゲイツはその日全ての講義を欠席し、一週間もしないうちに長期の遠征任務へと向かった。
それから学院で彼の姿をみることはほとんどなかった。
「お前の帰りを待ってまで助けを求めたこともあったな。僕はお前の何に期待してたんだろう。とっくに見捨てられてたのにそれでも頼るしかなかった。道化師は傀儡師に盾になってもらわなきゃまともに生活もできないなんて、惨めだよ。僕たちは生まれながらにして枷を背負わされているんだ」
片手に込められた力とは裏腹に、ルースはどこか涼しい顔で雨水を滴らせながらゲイツを見下ろしていた。
鬱蒼とした木の葉を見上げ、ゲイツは首を締め付けられていく苦痛を雨と共に受ける。
「馬鹿なお前は……僕の望んだ約束の意味も理解してくれなかった。僕とお前は同じだと思ってた。対等であることを正しいとしている、天秤は均衡を保ってこそのあるべき姿なんだと」
シュラト派もただ平和を手に入れるために徒党を組んでいるのではない。霊獣を降臨させる力を授けてくださった主のために、堕落した傀儡師を討ち取らんとして大義を掲げているのだ。平和など程遠い争いを前提とした思想。傀儡師の精神はイカれていると教えられてきたルースは、確かに傀儡師を恐れ憎みはしたが、勝利を手にして道化師が頂点に立つことが必ずしも正しいことだと思っていなかった。それが己が持つべき真っ当な感覚なのだと。歪んだ信仰など本来のそれと全く異なっている。師は等しく穢れてしまっているのだと。
そんな自分の考えは間違っていないと確信を与えてくれるのはゲイツしかいなかった。彼を信じることが正しいことの証明になるはずだった。
けれど彼と結んだ繋がりはあまりにも緩く、音もなく解けた。その程度の覚悟だったのだろうか。彼にとって契約とは何だ?
歪んだ信仰が正義なのか。均衡を望んだ己が異端だったのか。
そんなはずはない。そんなはずはないのに。
「なのにお前はまた掌を返して救いたいだの何だの……だったらあの時どうして僕を助けなかった!?一言でも何か言ってくれたら見切りをつけられたのにお前が中途半端に哀れみを向けるせいであるはずのない希望を持つことになった!余計に苦しかったよ……お前のせいでこんなに苦しんだのに!のうのうと帰ってきた挙句パートナー面なんかしやがって!!」
ゲイツはばちんと叩かれ、頬が燃えるように熱くなる。いつの間にかルースの四肢は
何度も、左右の頬を叩かれた。それでもゲイツはされるがままだった。もう、何でもよかった。
向き合ってしまえば、自分がどれだけ愚かで、卑しくて、狡い人間なのかがわかってしまうから、臆病な彼は目を逸らし続けていた。しかし校舎で人を殺そうとしたルースを目の当たりにした時、ああ、ずっとそうしたかったのだと、ルースの心を覆った暗幕に気づき、優しくすることで許されようとしてしまった。
軽蔑の眼差しが汚泥を覗いたように昏い。きっと穢れた俺を見ているからだろう。
激昂した聖者はどこまでも清廉だった。
「二度と信じてやるものか……」
じわりとオボが熱を帯びた。
金属が擦れ合う。
ルースの右手から滑るように鎖が巻かれて自らの体を。ゲイツを縛り付ける。
半透明だったそれは形を成して確かに二人を繋ぎ止めた。
「そうだ。僕ばかり不公平じゃないか……、次はお前が苦しむ番だ」
♦♦♦
抜いた剣先から雨粒が流れ落ちる。
アルミラージを退いてからというもの、気配を嗅ぎつけられ次から次へと傀儡師や道化師の襲撃に見舞われてしまっていた。種族同士を引き合わせることになった結果、ディノとメドは戦闘に巻き込まれたが、どうにか人の目につかない場所まで移動し、人探しを再開していた。
「ったく、ただでさえ穏やかじゃないってのに、探す手間が増えるとはな。何をやってるんだろうなオレたちは」
「もう諦めた方がいいかもしれない。二人のコードも知らないし、これ以上動き回ってもまた誰かに見つかるだけだ。無事であることを祈るしかないよ」
武器が血て濡れなかったのを幸いとすべきか、多少の打撲や切り傷を犠牲にどうにかここまで来れたが、それでも仲間内での争いは心身が削られる思いだった。
「……もう帰ろう」
「待て」
木の幹から背を浮かせたメドを止めた。
「代わりにカイレムを探そう」
「どうしてあいつを?」
「長丁場になれば明日の講義が開かれるかも怪しいだろ。早く場を収めるには決着をつけるしかない。傀儡師の長であるあいつを表に引っ張り出して道化師側と話をさせるんだ」
「和解させようってことか?でもカイレムがそれを進んでやるとは思えない。どうやって説得するんだ?」
「考えはあるが、あの性格だからな。どうなるかはわからないがやってみるに越したことはないだろ」
ディノがそう言って向かったのは、学院から寮へ向かう下り坂のほぼ中間地点に建つ礼拝堂だった。
式典や重要な儀式は学院の傍にある聖堂で主に行われるが、日課の祈りや懺悔など個人的な活動はこの教会が利用されることが多い。
あれから奴が移動してしまえばどうしようもないが、いつもこそこそと悪巧みをしているあいつならばまだあそこにいるのではないだろうかとディノは思った。
何せ安全圏に居座り高みの見物でこちらを見下ろすことを悦としているのがカイレムという男なのだから。
「やあ、雨宿りに来たのかい」
彼はパートナーである霊獣・バジリスクの背に腰掛けていた。司教の如く上段で足を組み、師徒たちに取り囲まれながら取り引きをするように耳打ちをする。扉を閉めると中は薄暗さを増し、灯された炎がゆらゆらと彼らの姿を浮かび上がらせていた。
ステンドグラスの外側で、雨足は強くなって行った。
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