第四章 三話
濡れた刃を袖で拭い、鞘に納めた。念のためメドにはドアの外に待機してもらった。ディノは一人でチャペルの中へと入って行く。
カイレムはかなり興に乗っているようだった。あの後傀儡師たちを呼びつけた彼は、各所に監視を展開して繰り広げられている争いの顛末を報告してもらっていた。傀儡師と道化師は純粋な能力比べをすれば拮抗するものの、制限の少ない傀儡師の方が要領よく立ち回れるため、始まる前から勝負は目に見えていたが、時間が経つにつれ減っていく道化師の兵の数はそれはそれは面白く、状況を聞く度にカイレムは頬を綻ばせた。
「楽しんでいるところ悪いが、ちょっといいか」
「なんだい改まって。どうせ気が変わったなんて話じゃないんだろう?僕は今忙しいんだ。後にしてもらえるかな」
「まさにその今の話だよカイレム。何が起こってるのか本当にわかっているのか。これはただの師徒同士の殴り合いじゃない。これはれっきとした争いなんだ。師全体に影響する問題なんだぞ。こういう時にオレたちが動かずにいてどうする」
「まるで僕が何もしていないかのように言うね。見てみなよ、ちゃんとこうしてできる限りのことはしている。下手に歩き回って首を取られたらたまったものじゃないだろう?これでも傀儡師側の大将である自覚はあるんだ。ここに立て篭っているのもやむを得ないのさ」
ディノは髪を掻き揚げると頭を振った。雫が灯りに反射してぱたぱたと落ちる。
「オレが言いたいのはそういうことじゃない。被害が拡大すれば師徒の争いに留まらず本格的な戦争に発展しかねない。どちらかがその気になれば簡単に火蓋が切られるぞ。種族間の仲はただでさえ良好じゃなかったんだからな。まさかそれすら理解せずに傍観しているわけじゃないだろうな?」
「ああ、お前は本当に僕を苛つかせるのが上手だね」
カイレムは眉を八の字に曲げて霊獣から降りる。
「半端な傀儡師のくせに僕に説教する気かい。そんなの戦術論を学ばなくてもわかることさ」
「だったらお前が傀儡師のリーダーとして道化師の代表と話し合え。一刻も早く争いを終わらせるんだ」
「話し合うだって?興奮した獣が冷静に鎮座してお話できるのか疑問だね。そんなことしなくたってどうせこの戦いも傀儡師の勝利だ。全てが終われば道化師はまた大人しく縮こまってくれることだろう。僕らが出る間もないさ」
何一つ疑うことなく、悠然と最後まで戦いを見届けるつもりでいる。いつまでも優雅に上座に座り続けることができるとどうして思えるのか。ディノは半ば呆れて言った。
「……その程度で収まると思っているならお前は歴史学を頭から学び直す必要があるな。この争いはお前も兵師の一人として数えられているのを忘れてないか?」
「それがどうしたんだい」
「お前は誰よりも道化師の恨みを買っているはずだ。狙われない選択肢なんかないんだぜ」
「……ふん。脅しのつもりか知らないけれど、心配ないさ。僕にはバジリスクがいるからね。それにこれだけ傀儡師がいれば道化師も奇襲できるはずがない」
「なら、試してみるか」
カイレムが訝しげに片目を細めると、ディノは唐突に大声を出した。
「来い、メド」
ドアを突き破る勢いで白虎がチャペルへと乱入した。
即座に反応したのは後ろに控えていたバジリスクだった。二本の鳥脚で立ち上がりカイレムの元へと走る。
提案などどうせ断られると承知していた。カイレムの思考は傀儡師至上主義の思想そのものなのだから、和平交渉など視野にも入れず勝利を掲げることのみを望んでいる。
人の思想を瞬時に変えることなど出来ない。カイレムをその気にさせる一番効果的な方法は自尊心を煽るか、小心を支配するかのどちらかだ。
彼を観客席から引きずり下ろして戦場に立たせれば、嫌でも現状を知ることになるだろう。その身を持ってして牙を向けられる恐ろしさを知れば彼も少しは気が変わるかもしれない。
そういう算段だった。
牙が届くのが先か嘴が届くのが先か。それを知るより前に、事は起こった。
開け放たれたドアから突風が吹き込んだ。
風にしては月よりも眩しい黄金の光に、ディノはそれが何であるのかすぐに察した。あまりの速さに時がゆっくりと流れるような錯覚に陥り、光は流れて白虎を追い抜くと蝋燭の炎が靡いて消えた。視界は暗闇に閉ざされる。
代わりに三色の霧が浮き上がった。カイレムの悲鳴が上がる。
「メド、追いかけるぞ」
大回りをして教会を出て行こうとするそれを目で追いかけながら、ディノは横に手を伸ばした。
獣の鼻先が触れ、撫でるように手が頭の後ろに到達すると、ディノは飛び乗って外へ向かう。
後ろから高くバジリスクが鳴いて後に続いた。
カイレムが連れ去られてしまった。
ディノはルースを優先しなかったことをほんの僅かに後悔した。今カイレムがやられてしまえば状況が悪化してしまう。必要悪である傀儡師の筆頭が公衆の前で道化師と平和的な解決を望むことにこそ意味があるというのに、貴族を倒したとなれば道化師側は士気を高めてさらなる犠牲者を生むことだろう。
よりによって誰よりも傀儡師に恨みがあるであろうルースが現れたのが厄介だった。
逃げ切られ姿を晦まされでもしたらおしまいである。雨を顔で受け止めながら柔らかくしなった草の上を白虎は走った。空は月どころか星ひとつ見えない曇天に覆われている。街灯を横切りながら緩い坂を再び登って行った。ディノは麒麟が向かう方向にふと不安を覚える。
この近くでは小規模の争いが行われていた。もしまだ師がそこらに散っているなら見つかる前に麒麟を止めなければ。
「メド、竜巻を放て。この距離ならギリギリ届くはずだ」
白虎は低く唸り声を上げて大きく息を吸った。白い煙が鼻先で渦巻き、空気が集約されていく。
轟いた咆哮は、周囲の降る雨粒を一斉にぶるりと震わせた。
地面を滑るようにして竜巻がまっすぐ麒麟へと迫る。瞬足がさらに速度を増そうとも、風速はそれを上回る速さで追いついた。後ろ足を取られた麒麟は全身を渦に飲み込まれ、宙を舞って植え込みに落ちる。衝撃でカイレムが口から離された。
「まずはあいつを先に──、!?」
右手後ろからの気配に気づき、ディノは振り向き際に剣を抜いた。受けた剣戟は思いの外重かった。赤と紫の火花が眩く飛び散り、バランスを崩して白虎から落ちるも、咄嗟に受身を取って転がった。弾いた手がびりびりと痺れる。追撃を想定して体勢を整えると、ひとつに束ねた細い黒髪が視界に入り、ディノは目を見張った。
ゲイツ・ティオルドである。
なぜ彼がここに。
困惑しながらも次の攻撃を受け流す。
「カイレムを頼むぞ!」
白虎に指示をしてディノは剣に意識を集中させた。
気配を察知するのが少しでも遅れていれば胴を貫かれていたかもしれない。それほどに彼の一撃は苛烈極まりないものだった。ただの牽制のための攻撃ではない。そうでなければこの容赦のなさは説明がつかなかった。
「オレだとわかっても武器を下ろさないか。いや、わかってた上でやったんだな?」
ゲイツは何処を見ているのだろう。沼地に嵌り何もかもを諦めたかのような瞳が宙を彷徨っている。身を低くして構え、相対するディノを警戒する。
「ルースと何があった。お前の味方をして相方を探してやっていたのにこの仕打ちとはな。よっぽどのことがないと道理に合わないぜ」
ゲイツの槍は鋭かった。突きが目に止まらぬ速さで繰り出され、ディノはかわしながら後退していくが、まるで攻め入る隙がなく、こちらの攻撃が完全に封じられていた。基本的な槍術から独自の戦術を交えた特殊な技を持ち合わせている。並の傀儡師でここまで武器を扱える者はいない。
絹を裂くような鳴き声が耳をつんざく。植え込みの向こうでは立ち上がった麒麟にバジリスクが体当たりをしていた。
カイレムを咥え上げると白虎は即座にディノの元へと戻る。
槍を鍔に滑らせて押さえ込み、詰め寄った。
「破!」
武器に注がれた力で波動が放たれる。対妖魔の浄化の力を人間に使うと、オボが強い共鳴状態に入り一時的な放心状態に陥る。
衝撃で勢いが失われると、緩んだ手から槍を奪って踵を返した。すぐ脇に白虎が現れる。
ディノは適当に槍を遠くに投げてから再び飛び乗る。
バジリスクが足止めをしているうちにできるだけ遠くへ逃げよう。ディノたちは学院の塔を目指した。教授の住まう場所であれば師が群がりにくい。ついでに助けを呼べるならば都合がいいだろう。とにかく安全なところへ避難するのが先決だった。
しかし、一分もしないうちに麒麟の蹄の音が近づいて来た。アルミラージとは比べ物にならないほどの速さで追いつこうとしている。
「おいカイレム、聞こえるか!」
先程までの威勢の良さとは打って変わって、彼は怯えていた。セットした重たい前髪が雨に濡れて垂れ下がっていたが、それを気にすることなく咥えられた姿勢から寧ろしがみつくようにして体を丸めている。なんという体たらくか、とディノはあえて厳しい口調で言った。
「もうすぐ麒麟に追いつかれる。死にたくなければお前も戦え。オレが前に出るからとにかく逃げることだけを考えろ!」
返事はなかったが、ディノは後ろを確認するとメドに合図をして先に飛び降りる。
いくつもの赤い煙が刃から立ち上る。走りながら空を縦に切り、そして体を回転させ横に薙いだ。
十字に形作られた筋は麒麟に当たり足を縺れさせた。速度が僅かに落ちるも、助走を付けて大きくカーブを描く。やはり霊獣には力はさほど効かないようだ。
白虎はその間に薔薇園へ入った。ここを通り抜ければ最短距離で塔の近くへ出ることが出来る。豊かに生い茂る草花を越えて、奥へと駆ける。
「止まれぇ!」
ディノはついに剣を振りかざした。もはや霊獣に対抗するにはこの手段しかなかった。油断をすればこちらがやられる。ゲイツが本気であるなら、ルースもまたそうなのだろう。それならば遠慮している場合ではない。
しかし下ろされた刀身は別の角度からの衝撃により軌道を失った。それどころか金属がぶつかり合う音と共に剣はディノの手から離れた。この重い感覚はついさっき覚えたばかりのものだった。
あまりに正確な攻撃に驚きを超えて背筋が凍る。細身の刀身を狙って突ける者など一体どこにいるのだろうか。しかも対面ではなく投擲技でこの技量である。
馬鹿げている、と心の中で吐き捨てた。出会ったばかりの頃の彼からは想像もできない強さだった。
槍が飛んできた方角に注意を向けるも、雨のせいかゲイツの姿は見えない。剣を拾う間に麒麟は薔薇園へ踏み込んだ。
♦♦♦
「誓え。
森の中である。腕を引いたルースは倒れていたゲイツの身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
身体中に巻きついていたはずの鎖はいつの間にか消え、唯一繋ぎ止めていたのはそれぞれの右手と左手から伸びてものだけだった。
ルースは修道士のような洗練した佇まいでゲイツの周りを歩いた。組まれた後ろ手から複雑に絡み合った鎖が引きずられている。
「心優しいあなたが同族に歯向かうのはさぞ心が痛むことだろうが、僕のためを思うなら易いはずだよ。死ぬ覚悟までしてくれているんだ。やってくれるね?」
ゲイツの左手を取り。固く握りしめた。充血した赤紫の目がルースを捉える。寒さか、はたまた恐怖か、小刻みに震える指先が緩く握り返した。
主は常に我々を見ている。
誓いを一度破ってしまえば、その罪を吐き、悔い改めなければならない。
彼と同じ痛みを味わうまで、咎を背負って行くのだ。
どこまでも堕ちていくゲイツに、それでもルースは彼の聖なる道標であり続けた。
もう目を逸らすこともできない。
「ああ……誓うよ」
今度こそ迷わないように、ゲイツは暖かな手に額を付けた。
「じゃあ行こう。カイレム・サム・オルヴェーニュを倒しに」
♦♦♦
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます