第四章 四話




「何するんだ!?」

 カイレムは突然口から解放され、泥水となった地面へと下ろされた。ただでさえ濡れていた服が中まで染み込んでしまい、最悪の気分で立ち上がる。胴体は涎まみれで、下半身には泥がつき、こんなに惨めな気持ちになるのはいつぶりかと憤る。

「静かにしろ!道化師が近くにいる」

 肢体変化に切り替えてメドは忠告した。

「そりゃあいるだろうさ。麒麟がすぐ近くにいるんだからねぇ」

「いいや、それ以外にも複数……」

「なんだって?」

 方向からしておそらく塔の奥にある林に潜んでいた連中がこちらへ回って来ているのだろう。こちらの存在に気づいているかは不明だが、確かに霊獣の気配があった。

「は……、当然お前が盾になってくれるんだろう?道化師くん」

「生憎、俺は盾役に徹したことがないんだ。ある程度自分の身を守ってもらわないと困るよ」

「そんな言い方ないだろう。霊獣の攻撃をお前が塞がなくてどうする。連携を取らなければ僕の剣がいくら優れてても届かないじゃないか!」

 カイレムは喧しく古典的な思想を口にした。傀儡師は剣となり、道化師は盾となる。聖書にも乗っていないこの言葉はオルヴェーニュ派が積極的に説いて定着させた傀儡師至上主義の基礎となる考え方だった。あくまでも傀儡師を立てようとする揺るがない思想は当たり前のようにカイレムの行動原理のひとつとして染み込んでいる。だが傀儡師の立場で守られることを前提とした発言は怠慢だろう。必ずしも道化師は盾に準ずるものではないのだから。

「文句を言うなら見つからないように隠れていればいい。戦う気があるなら剣を抜け。殺されてもいいのか?」

 メドは淡く目を光らせて後方を見やる。

「こっちだ」

 白い薔薇が絡みつくアーチの裏に回り、さらに奥へ行こうとしたが、カイレムは背中に添えられた手を冷たく払った。

「生意気な。こんな時だからこそ道化師は傀儡師を守るべきだろ!」

「……そんなことに拘っている場合か!?本当に呆れた奴だな。だったら傀儡師らしく前に出てみろ。戦闘で胡座をかくやつがあるか!」

 これ以上言い合ってもきりがないと悟ったメドは、再び白虎に変わりカイレムを咥えようとした。

 がさりと低木の葉が揺れる。

 薔薇がいくつか水溜まりに落ち、蹄によって踏み潰されて散る。黄金の毛並みを靡かせて、静かに麒麟が姿を現す。

 間に合わなかったか。と白虎は足を前後に広げて姿勢を低くした。

 霊獣たちはしばし睨み合った。

 その静けさが失われたのは、なんの前触れもなく麒麟が動き出した時だ。風を巻いて二、三歩目から加速すると、跳躍して一気に距離を縮める。

 白虎は大口を開けて首元に食らいつこうとするが、視界から急に麒麟がいなくなり、牙が空振る。

 消えた。……のではない。

 目を横にやると、肢体変化したルースが白虎を飛び越えて武器を抜いていた。

 ひい、と情けない小さな悲鳴が後ろから聞こえる。メドは小回りを効かせるため同じように変化するも、きっとあの素早さには腕を伸ばしても届かないだろうと思われた。

 幸い攻撃は弾かれた。カイレムは守りの体勢で押されて尻もちをつく。

 メドは彼らの間に割り込み、爪を向けた。

「どうして傀儡師の味方をしている!」

 ルースはあの時のように感情をむき出しにして怒鳴った。

「俺としても不本意だけどね。でも殺し合いなんか望んでいないんだ」

「既に道化師の三分の一がやられているんだぞ。それでもお前は何とも思わないのか。僕らは仲間を狩られているというのに傀儡師を狩るどころか庇うとはどういう料簡だ!こいつのパートナーでも何でもないだろう!今すぐそこを退け!」

「肢体変化のままじゃ君はその剣で心臓を突き刺してしまうだろ。それだけはやめてくれ。こいつを殺せば戦争になりかねない」

「上等だよ。それで多くの道化師の無念が晴れるなら命一つなんて安いものだ」

 顎をつんと上げ、ルースは二人を見下ろした。

「……もしかして知らないのか?そいつは道化師に対して支配的な風潮を生んだ張本人なんだよ。オルヴェーニュが正しいと勘違いしたやつらはみんなこいつに倣って僕らを下等生物のように扱った。道化師の半数近くは被害にあってるんだぞ。きっとお前にだって覚えがあるはずだ……ようく考えろ。そいつが本当に守る価値のある傀儡師なのかを」

 悲しくも力強い訴えが、メドの片隅に仕舞われていた記憶の蓋を叩く。

「……」

 雨音だけが耳に響いた。急に動かなくなったメドにカイレムは声をかけたが、メドは立ち尽くしたままじっとルースを見つめていた。爛々と輝く黄金目が何を物語っているのか手に取るようにわかった。そこにどれだけ濃く染み付いた暗い過去が隠されているのかも、だ。我々は同じ道化師なのだから、分かり合えないことなどない。並び立つ隣人に盲目的なレッテルを貼られ、過剰な抑圧を受け、そんな日常に魘されながらこれまで生きてきた。

 メドはまっすぐに向き合ってはじめて、決して狂気に駆られたわけではなく、恐ろしいほどルースが正気で正当な怒りを向けていることを理解したのだった。

 そうだ。これが姿なのだ。

 記憶の蓋が、そっと開かれた。


♦♦♦


 傀儡師の精神はイカれている。

 どこから湧いたのかわからないその文句は、道化師の師徒の間ではもっぱら有名な言葉として浸透していた。

「さっき傀儡師と話してただろ。やめておけ。あいつらまともに取り合おうとしないんだ。きっとどこかおかしいんだろうよ。先天的な病気だあれは」

 酷い言いようだとメドは思ったが、中等部から編入し、学院を中心に生活するようになった今では彼らがそのように悪し様に言うのも仕様がないことだと思っていた。

 蒐洲学院は師徒の大半が貴族である。戦争で重役を務めた位の高い家門の子孫や嫡子、政治家や医者、有名な研究者の親族などが多く在籍しており、

それらの人々の背景には、大陸の広大な土地を血に染めた歴史がいくつもの額縁に収めて飾られていた。

 現在に至るまで霊長二種は性懲りも無く崩壊と再興を繰り返し、亀裂から生まれた瓦礫をひたすらに積み上げて行く一方だったが、時代が進むにつれて徐々に理想として説かれていた共生の実現を目指すようになった。それは近年から見え始めた希望的な変化だったが、方法を模索し地道に土台を築く道半ばで生まれた次世代の子どもたちは、戦争の遺恨に著しい影響を受けて育つことになった。

 傀儡師は特に、戦勝種族としての異常なまでの自尊心をしばしば内包する傾向にあった。

 断固として天秤の上で平等であることを認めず、寧ろ傾かせたことで自らが頂点に立つ人間、神に近しい存在になったのだと信じて疑わなかった。往々にしてそのような思想が傀儡師の性格を構築する要素として垣間見られていた。

 極端な例として道化師からのほんの些細な侮りさえも彼らは許すことはなかった。過去の栄光で得た矜恃を詰られれば憤慨し、侮辱的な言葉を吐いた者は酷い時は折檻された。彼らを刺激してはいけないと、学院で道化師たちは身を寄せ合って縮こまり、主体性を捨てて機嫌を損ねぬよう唯唯諾諾と過ごすことを心がけていた。

「道化師の儀式について聞かれたから答えただけだよ。何ともない」

「強がるなよ。あんなあからさまに揶揄われていたくせに。小難しい質問をしてお前を困らせようとしてたじゃないか。そのくせ上手く返せば気に食わない顔をして去っていきやがる。あんなのと関わってたらお前も疲れるだろ。いい加減挑発に乗るのはやめようぜ。ただでさえ田舎出身は目をつけられやすいんだからよ」

「でも無視してしまえば、あの人のパートナーみたいになってしまうかもしれないだろ」

 メドは先日の苦々しい光景を思い出した。試験に失敗し不機嫌になっていた傀儡師に理不尽な八つ当たりを受けていた道化師の痛ましい姿。一方的に怒鳴られ責め立てられていたパートナーはたった一言言い返しただけで頬を叩かれていた。島に来てからずっと見せつけられて来た師の社会の実態だった。

 共生など夢のまた夢。絆を結んだはずの相手でさえもぞんざいな扱いを受ける現状で、下手に傀儡師へ不遜な態度を向ければどんな目に遭うか。想像しただけでも背筋が薄ら寒くなった。

「というか君、大丈夫なのか。今度契約の儀式をするんだろ?契約前からそんな態度じゃ命がいくつあっても足りないぞ」

「安心しろメドリュクス。おれの相方は腐った貴族共とは違って爵位のない一般市民だぜ。おまけに道化師を哀れんで心から寄り添ってくれるお優しい方だ。一緒にしてくれちゃあ困る」

「もしかしてこの間紹介してくれた彼女のこと?恋人と契約するなんてよした方がいいよ。破局すれば終わりじゃないか」

「縁起の悪いことを言うな。影に潜むようにして生きてきたおれに天使の如く微笑みかけて手を差し伸べてくれたんだぞ!あの方がいてくれたおかげでどれだけ救われたことか。おれはこれからハロと共に戦って生きていくんだ!」

 当時のクラスメイトだったマリクはそううっとりと頬を緩ませていた。

 道化師は特に契約に対して慎重だった。貴族であればそれぞれの家が政治的な約束を結び契約が成立するが、そうでない場合は自力で相性の良い相手を探さなければならず、交流を必須としていたため困難を極めた。如何せん傀儡師の評判は悪く、関わりを持つことそのものにリスクがあり、地位のない道化師は契約を結ぶことに積極的になれずにいた。

 そんな中で無事にパートナーを見つけられたマリクは幸運だったと言えるだろう。不安定な関係を築いていたことに不安を感じていたメドだったが、彼が安心して傍にいられる相手であればそれ以上のことはないだろうと思った。

「お前もいい傀儡師に出会えるといいな。二十歳になるまでには契約しておかないとまずいだろ?」

「そうだね。いい人はもうとっくにパートナーを選んでしまってるだろうけど、別の教室の人に頼んで紹介してもらおうかな」

 口ではそう言いつつも、メドはほとんど諦めかけていた。

 島に来たばかりの頃に描いていた傀儡師の理想はとっくに崩れてしまった。孤立した土地では未だ戦後の因縁が張り巡らされ、古い価値観が根付き誰もそこから抜け出すことは出来ない蟻地獄のような状態で海に浮かんでいる。三位一体の子孫から繁栄し傀儡師、道化師の祖として輝かしい地位を確立させた貴族たちは種族間の問題を前に停滞していた。それに比べれば大陸の都心に集う師の方がよっぽど先進している。未来へ向けて着々と歩を進めて行くあの様はあくまでも大陸だけの出来事だったのだ。師の長とも言ってもいい連中は過去という夢の中をいつまでも彷徨って目覚めようとしない。

 一度入ってしまえばこの濃霧から抜け出すことはできない。夢遊病のように異常と正常の区別もつかずにいる彼らからはきっと逃れられはしない。

 せめて自分だけは囚われないようにしなければ、とメドは頭を振った。

 高等部を卒業したら田舎に帰り、改めて都心に近い場所で仕事を見つけよう。階級を得るのが難しければ訓練所に通えばいい。こんな鬱々とした場所にいては、いずれは因縁の渦に巻き込まれてしまう。

 期待は外れ、アルカディア理想郷とはかけ離れた場所であったのは残念なことだったが、伯父のためにも手土産くらいは持ち帰れるよう学問に励んでやり過ごすのだ。

「ああ〜早く愛しのハロに癒されたい」

「惚気話はよそでやってくれ」

 イカれているやつらに預けられる命なんてない。

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