第二章 五話



 何度も何度も、頬に衝撃がくる度に脳みそが揺れる。頭の中を掻き回されるような心地がいっそう深く、意識を泥の中へと沈めて行く。

 しばらく感じていなかった懐かしい痛みだった。


 メドが学院にやって来たのは蒐洲学院中等部の中途入学試験が開かれた秋のことだった。大陸の西側にある片田舎に住んでいたメドは、改めた顔で海を渡ることを家族に伝えると、大層驚かれた。とはいえメドが道化師を目指すことは親戚も含め全員に知れ渡っていたことだったが、等の両親は本気だとは思っていなかったようだ。荷物はとっくにまとめてしまい、いつでも出る用意はできていると息巻いていると、持病でベッドに寝たきりで過ごしている祖父に嗄れた声でこう言われた。

瘋癲ふうてんの傀儡師と契約を結ぶなど霊獣神への誓いを穢す行為ぞ、メドリュクス」

 傀儡師の精神はイカれている。それが道化師の種族が集う地域一帯に共通する傀儡師への認識だった。

 大陸では二つの種族が州ごとに分かれて繁栄しており、北方は實族しぞくである傀儡師、南方は匣族こうぞくである道化師の一族が主な数を占めていた。歴史の中で大移動を繰り返し、時に交わっては戦争を起こし、それを何度か繰り返しているうちに現在の形になったのである。今でも近隣の村には別の種族が居を構えるということも当たり前のようにあったが、島と同様に種族が完全に入り交じった暮らしをしている地域は非常に少ない。

 特に都市から離れた田舎では種族同士の性質の無理解が甚だしく、互いに差別や偏見を向け死ぬまで本質を知らないことがざらにあった。都心との文明の差は時代が進むごとに開いていくばかりで、新聞すら渡ることのなかった田舎者にとっては政治など雲の上の話だった。

 ともあれメドはそんな環境下で偏った常識を幼い頃から刷り込まれながら育った。しかし彼が変わったきっかけは、そんな人々に囲まれながらも、ある日親族の集まりで会った伯父によって新たな認識を得たことだった。

 傭兵として各地を回り妖魔を討伐する仕事をしていた伯父は、ひょんなことから都心で活動する政府直属の傀儡師と知り合いになり、これまで知ることのなかった最新の時事や師の知識をふんだんに教えてもらい、その内容の濃さに酷く衝撃を受けたのだという。

「あれは精神がイカれたなんてもんじゃない。あいつらはいい意味でも悪い意味でも知ることに貪欲なんだ。私が会ったのは頭の固いやつで何でも理詰めに話したがる癖のあるやつだったが、世の中の発展のために研究職に携わっていてな。特に妖魔に詳しかった。話を聞くと案外面白いやつで私なんかより何倍も経験が豊富で随分と立派な人だったよ。都会にはそいつと似たようなやつがごろごろいたからたまげたねぇ。これまで頭のおかしいやつらだと思ってた自分が馬鹿馬鹿しいくらいさ」

 酒を飲みながら何度も感嘆の声を上げていたのが印象的だった。

 それからメドは伯父を介して傀儡師がどんな種族であるのか、都会ではどんな世界が広がっているのかを調べるようになった。時には伯父がお土産に買ってくれた本で歴史を勉強し、そうしているうちに都会への憧れや興味がますます強くなって、道化師の通える学校や軍事施設を紹介してくれるよう伯父に頼むと、心境を察してくれた伯父は快く受け入れてくれた。

 甥の期待に答えようとした伯父はあらゆるツテを回って紹介状を書いてくれるように頼み込み、メドがどの学校にも苦労せず行けるように支援をしてくれた。そしてメドは、師の養成学校の中でも特に有名な蒐洲学院へ入学することを決意したのだ。

 他の一般的な学校とは違い、政府との結びつきの強い組織である学院は、中等部からでも基礎を補い、学年が上がれば通常の学問と合わせて専門的な分野や軍事訓練を行い、習得できる特殊な教育機関だ。

 都会へ行くにもまずは見解を広げるための知恵を持たなければと、メドは意気揚々と紹介状を封入した手紙を書いて学院へ送った。

 幼い頃から地域一帯を囲う壁を守る番についていたメドは、十三になる頃にはすでに妖魔を単体で一匹倒すほどの能力を持っていた。

 自信はあった。

 新しい世界を目指し、トランクに荷物を詰めたメドは、こうしてはるばる海を渡って島へとやって来たのだった。


 そこが閉鎖的であるが故に、時代錯誤な貴族階級による権威主義の温床になっていることなど知る由もなく。


 ──聖典にはこう記されている。魂の分離は我々の祖による原罪の証であると。

 脆く儚いオボが胸に宿るのもまた、神が我々に下した罰なのだと。

 だからこそ我々はこんなにも醜い生き物になってしまったのかもしれない。

「忘れるんじゃない……俺は獣だ。お前の喉笛を咬みちぎることくらいできる」

 イカれていようがいまいが、こいつらに抗うには強くなくてはならない。

 なるしかないのだ。

 アイスブルーの瞳がキンと鋭く光った。口を開くその一瞬で……顎が変形し人間の骨格を超えて大きく開かれると、牙が涎の糸を伸ばして男の首にかかろうとした。

「おいまずいぞ!早くここから出ろ!」

 見張り役をしていた仲間が扉を開けて叫んだ。我に返ったメドは、ずるりと獣から元の綺麗な彫刻の顔に戻る。

「っ……何だ?誰か来たのかよ」

「いいや、寮の近くで乱闘が──」

 ガラスの割れる音が遠くで響く。耳を澄ますと人々の喚き声が窓越しに微かに聞こえた。どうやら本当らしいことを男は認めると、舌打ちを置き土産に仲間を連れて部屋を出て行った。

 やっと一人になった。

 壁に凭れてメドは口元を拭った。中で切れてしまったのか口端からは血が溢れていて、袖が赤く汚れてしまった。このまま自暴自棄に溺れて天井を見上げていたかったが、どうやら休んでいる場合ではないことを頭が勝手に理解してしまっている。投げやりな気持ちで重い体を起こすと、窓の外を見た。

 そこでは文字通りの乱闘が起きていた。

 傀儡師は何故か武器を持ち出して牽制し、道化師は肢体変化をして睨み合っている状態だ。火花が散る勢いで怒鳴っているが、ここからは遠すぎて何を言っているのかよくわからない。

 中にはもう既に喧嘩を始めているところもあったが、それ以外は止める者や暴れる者とでもみくちゃになって実に混沌としていた。

 メドは廊下に飛び出した。するとそれまで静かだと思っていた空間が急に騒がしくなる。階段や廊下が人で溢れ返っていた。その半数が武器を持って外へと向かい、ある人は焦りを浮かべて手すりの下を覗き、ある人は怒りを込めて汚い言葉を吐いていた。やつに殴られている間に何が起こったというのだろう、とメドは首を回しつつ出口の方を見た。

 そこには両手両足を掴まれ外へ連行されるルースの姿があった。

「どうなってるんだ」

 泡を食って後を追った。

「遅いぞお前ら!」

「悪い悪い、こいつなかなか活きがよくてよ、捕まえるのに苦労したんだ」

 人混みを掻き分けて開けた場所へ出ると、地面にに飛び散っていた血に、踏みかけた足を引っ込める。

 それだけで惨事が起きたことがありありと知れた。

「お前ら、こんなことして幽膜の主が黙ってると思うなよ!」

「うるせぇ!勝手に暴れ回ったのが悪いんだろ、そのせいでこいつが怪我をしたんだ、このくらいの報いを受けても仕方ないだろ?だいたいあの姿で殴りつけても死にやしないってのに道化師サマはほんと繊細だなあ?」

「お前よくも……」

「道化師を舐めるのもいい加減にしろ!」

 殴り合いを始めた師徒たちの後ろでは、大量に血を流して倒れている霊獣の大きな塊があった。メドは怖気を震って後ずさる。

「何が……あったんだ」

 近くにいた道化師が言う。

「変化のまま暴れ出した道化師が相方を襲ったらしい。それで仲間が止めにかかってたんだが……」

「あれはやりすぎだったな。最後はもう袋叩きにされてたぜ。そんでぱったり動かなくなっちまって、見てた奴らがやりすぎだってキレてこの有様だ」

 さらりと事の次第を言ってのけた彼らは、あくまで他人事として、蚊帳の外を決め込んでいた。

 殴られた所が今更痛み始めた。じくじくと襲う痛みと共に目眩を覚え、メドは強く瞼を閉じる。

「おい、何する気だ!」

 男たちがルースを乱闘の中に投げ込もうとしているところに、中心部に息を切らした様子の傀儡師が躍り出た。手にしていた槍を振り回しルースからやつらを散らすと、庇うようにして立ち塞がる。ゲイツは温厚な表情を一切消し、必死の形相で睨みつけた。

「んだよお前は」

「何する気だって聞いてんだよ!」

「こいつに問いただしてやるんだ。あの霊獣のグルじゃねえかってな」

「どういうことだ」

「お前知らねぇのに割り込んで来やがったのか。このチビもこの間暴走したばっかなんだぜ。ほかの道化師も似たようなことしてやがるし、立て続けに傀儡師が重症を負う被害が出てる。こんなのやつらが何か企ててるとしか思えねぇだろ!」

 ゲイツは気持ちを抑えきれず首を振った。

「こいつは関係ないんだ、俺が保証する!頼むから変な憶測で巻き込むのはやめてくれ!」

「じゃあどうして傀儡師を襲うんだ!」

「そんなの事故だろ!?そうじゃなけりゃお前らが無下に扱った罰を受けてるんだ。それ以外の何があるって言うんだよ」

 もはや様々な思惑や思想、真実と虚構が入り交じり、誰も現実を正確に捉えることができず、交錯した線の上でわけがかわらないまま皆が踊らされていた。

 なぜ道化師が暴走したのかも知らぬまま。なぜルースが意図的に傀儡師を襲ったかも知らぬまま。

 なぜ多くの傀儡師が傷を負ったのか。少し考えれば気づく事もあるだろうが、なにせ混沌の中心に立つのは、聖典に綴られた神の魂から生まれた摩訶不思議な霊長二種である。謎に包まれながらさらに雲に囲まれてしまえば、見えるものも見えなくなってしまう。なぜ我々が存在し、なぜ我々は天秤に例えられるのか、その本質を見抜かなければ、いつまでも我々は繋がることの本来の意味を失ったままである。

 人として通じ合うのもまた同じことだ。

「……あ」

 我々は分かり合わなければならない。

 無知を知覚し、原理を紐解き、原罪の本懐を悟る。

 その先を目指さなければ、

「ルース……」

 ──気づけば、脇腹に短剣が刺さっていた。

 突然のことにゲイツの脳は痛みの原因を探ることに遅れた。そして左の脇腹に刺さった剣と、それを握る震えた手を見て、やっと理解した。

 認識したとたん熱が沸いたように痛みが加速し、ゲイツは片膝をついて歯を食いしばる。

「なん……」

「これが僕の、罪だ」

 奥でやっていた乱癡気騒ぎは激化し、武器を持てと誰かが号令を出す。

 争いはいよいよ深刻化し、その規模は徐々に拡大していった。

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