第二章 三話
「オレたちには話せない事情でもあるのか」
「おいおいここは医務室だぞー。人が寝てるんだからもう少し静かにしないか」
カーテンから出たパウロが声を抑えて咎めた。手当を終えたのか、救急箱に包帯などの道具をしまいながら自らの机に着く。
「……お。お前ディノ・ブライン・オルヴィスだろ。ちょっとこっちに来い」
視線が合ったことに嫌な予感を覚えた。気づかないふりをしてディノは立ち上がる。
「なんだよ先生。こっちは取り込み中なんだけど?」
「そんなの他所でやってくれ。ったく、学院が剣呑な雰囲気になってきたとたん問題を起こしやがって。おれもヒマじゃねぇんだっつうのに」
「言っておくけどオレは止めた側だぜ?」
「だがお前はさらに一つ仕事を増やした」
「は?」
机の横に備え付けられた引き出しの下段が開かれる。迷いのない手つきで一切下を見ずに、一番奥に仕舞われたカルテを取り出すと、捲るページもない表を強く叩いて突き出した。
「見ろ!入学式以来、更新が一切ないお前のカルテだ。こんなに薄いのはお前以外一人も見たことがない!他にも検診を拒否しているやつらはいくらでもいるが、その中でもブラックリスト入りの問題児だぞ。上からどれだけクレームを入れられているかお前は知ってるのか!?」
眼前で叫ばれてしまい、ディノは思わず耳を塞いだ。予感は当たっていた。
「あ〜、あ〜そうでしたそうでした。すっかり忘れてしまって。どうも検診期間が予定と合わなくて申し訳ありませんねぇ」
どうやらブラックリストに入っているせいで名前を覚えられていたようだが、よく顔を見ただけで気づいたものだ。
「カルメロイに今月中には必ず連れてくるようにと口を酸っぱくして言っていたんだがな。どうやらお前の耳には入ってなかったようだ」
「一応行くように促していたのですが、見事に聞き流されてしまって、まったく手応えがなかったんです。お力添えできなくてすみません」
呆れた気持ちを乗せてメドは肩を竦める。この二人が繋がっていたのは想定外だったが、思い返してみれば、確かに定期的に検診へ行くよう言われていたような気もする。返事は適当にしていたと思うが、元より行く気のなかった検診に行けと言われて素直に行くはずがない。
「今日という今日こそ検査を受けてもらおうかオルヴィス……こっちの部屋に来い」
「遠慮しておく。今大事な話をしてるんだよ。それどころじゃない。これは本当だ」
真剣に訴えるも、我関せずといった調子でパウロは片眉をひょこっと上げた。
「ああ、いいとも。検査が終わればいくらでも話をするといい。大丈夫だ。そんなに長くはかからない。ちょっとオボの様子を見るだけだ。注射じゃないんだから、そんなに怖がるなって」
長く骨ばった手で腕を捕まれ、ディノは隣接する部屋へと連れていかれる。
「おいやめろ、あいつに聞かなきゃならないことがあるんだ!呑気に検査なんてやってられるか!おい聞いてるのかパウロ師!」
抵抗も虚しく、半ば引きずられるようにしてディノは扉の向こうへと消えた。
彼は定期検診を受ける義務を放棄したのだ。自業自得だな、とメドはゲイツに向き直る。
「ともかく、今後は君がシュリイカを守ってくれると思っていいんだね?」
「……ああ。そうだな」
先程とは打って変わって頼りない声色でゲイツは頷いた。
本当に彼にまかせていいものかとメドは不安を覚える。ここまで放ったらかしにして遠征で飛び回っていた彼が、しっかりとこれからルースの傍についてやれるのだろうか。話を聞く限りあまり良い関係を築いているようには見えない。ルースのためにもしばらくは注意を向けておく必要があるようだ。
「ディノは気になっているようだけど、俺はあえて聞かないでおくよ。でもティオルド、どんな事情があろうと、道化師と傀儡師には逃れられないしがらみがある。ここ最近の学院の空気はよくなくてね、どうかあの子のために責任を果たしてくれ」
メドは彼からもらった袋を抱え直し、医務室を後にした。
すると少し間を置いて、ベッドを囲むカーテンが僅かに隙間を空けた。
ゲイツが顔を上げると、そこには淀んだ目が二つ。恨めしそうに彼を見つめていた。
「ルース……大丈夫か」
声こそ優しかったが、その裏には後ろめたさが隠されているのをルースは察していた。後悔でも同情でもない、己の中にある悪を知っているが故の後ろめたさ。それを自覚しておきながら表向きの優しさを貫く彼に嫌悪感が沸いた。
ふつふつと、熱い濁流が胸の中を渦巻く。
「お前は嘘をついた……」
カーテンを握る手が震える。
「お前は知らなかったんじゃない。気づいていたくせに僕から目を背けたんだ。任務なんてただの言い訳だ。お前は僕を見捨てたんだ。傀儡師に怖気付いて契約を放り投げた。全部嘘だ。どれだけ誤魔化そうとも僕だけは騙されないぞ」
今にも噛みつきそうな獣の形相で、静かな怨念をその身から放つ。殺気めいた鋭い目付きに、ゲイツは冷や汗を浮かべた。
「……違うんだ……ルース」
「出て行け。お前なんか僕の傀儡師じゃない」
「俺は、」
「出て行けぇ!」
傍にあった丸椅子が投げ飛ばされ、反射的に防ごうとしたゲイツの腕に当たった。
激しい音を立てて椅子は転がる。
ゲイツは数秒だけ放心した。弁明する資格などない。彼を傷つけてしまった要因は自分にある。そして今、彼に寄り添うことすら出来ない事実が、ただただ恥ずかしかった。
魂が抜けたようにゆっくりと立ち上がり、荷物を背負って医務室を出る。
ルースの頬は、涙で濡れていた。
♦♦♦
あれから学院で彼らの姿を見ることはなかった。
謹慎中であるルースが学院を休むのは当然のこととして、相方であるゲイツはこれまで通りの生活を送っているにもかかわらず、ディノたちが探してもその影すら見当たらない。
「同じ学科の師徒に聞いてみたけれど、普段から欠席が多くて講義に出ている方が珍しいらしいよ」
「遠征任務が多いのは本当のようだな。あの生活でどうやって単位を取っているんだか」
「必修科目以外では実技で単位を稼いでる可能性もある。そういう科目も実際にあるからね。遠征できるのも第五階級からだから、傀儡師としての能力はそれなりにありそうだ」
もうすぐ二週間が経とうとしている。
ディノたちは早朝のカフェテリアでコーヒーを飲んでいた。約半月ぶりの任務休暇に入り、 学院の休日と重なって久々に優雅な時間を過ごしていた。とはいえ頭の中では常に積み上げられた問題が切迫していてちっとも心が休まる気配はないが、形だけでも体を休めておく方が健康に差し障りないだろう。
「あの自覚の薄さは長く単独でやって来た影響だろうな。契約する相手がいるなら二人で鍛えないと意味がない。力に差が生まれるとどちらかが戦闘で遅れをとることになる。これは憶測だが、ティオルドは単独でやって行くところを家に指示されて契約する羽目になったんじゃないか?」
「どうしてそう思うんだ?」
ディノは一口飲んでから、砂糖を二つ追加して掻き回す。
「ティオルドはオルヴェーニュ派の末席だ。貴族であればありえない話ではないだろ」
「へえ。君は意外と人の名前を覚えているんだね。一派だけでもかなりの数だろうに」
面倒事に巻き込まれないようにするには貴族との交流を断つのが一番だった。顔を合わせれば道化師は劣等種だのそれに比べ我々は神に近い存在だのと宣っては最近はあの家の令嬢があのご子息が、契約するにはあの家系がちょうどいいなどとつまらないことを茶を飲みながらぺちゃくちゃと話す。結託しているように見せかけて実は一人一人プライドが高く、昨日仲良くしていた仲間が急に素っ気なくなるようなこともある。しまいには互いの契約した道化師を罵り合うようになるのだからくだらない。
そんな連中と四六時中付き合っていたらこっちまでおかしくなってしまいそうだ。だから人付き合いは最小限に留めておくに越したことはない。顔と名前は社交界に散々参加させられていた時期にある程度覚えていたから、奴らから隠れるのは造作もないことだった。
「ついでに言うと、記憶が正しければシュリイカはシュラト派の者だな。どちらも貴族としては地位はそこそこで派閥への影響力はそれ程でもなかったはずだ。引き合わされてもおかしくない家柄だが……違和感は残るな」
「オルヴェーニュとシュラトは対立しているはずなのに」
ディノはまた少し飲んでミルクを足した。
「そうだ。たいていは同じ派閥から選ばれて契約が結ばれる。仲間を増やす目的であればせめてメレ派から引き込むだろう。オルヴェーニュとシュラトなんて論外だ。もし本当であれば何か策を練っているとしか思えない」
「あの二人の関係は怪しいところばかりだ。それに派閥といえばカイレム。あいつは処分を受けた傀儡師の仲間のくせに何も罰を受けていないのが気に食わない」
嫌いな人の顔を思い出したのか、苛立ちながらパンケーキを小さく細かく切っていく。コーヒーを飲む時は甘いものと一緒に食べるのがいいのだと、謎の定説を垂れて珍しく完全食以外のものを口にしていた。
「まあ今回の件に限ってはあいつは直接手出しはしていないからな。教師に告げ口しようとも罰するのは難しい。裏で糸を引いている可能性は高いが、カイレムはああ見えて臆病者だから、自ら手を汚すようなことはせずにふんぞり返っているかもしれないな」
「俺たちが知らないだけで、これまであった師徒のいざこざもカイレムが関与しているのかな」
「さあ……どうだろうな」
一つ砂糖を落として掻き混ぜる。
「ディノ……それだけ入れても飲めないの?」
「ここのコーヒーは苦味が舌に残る感じがして苦手だ。別にオレが甘党だからじゃないぞ」
「十分甘党だと思うけど」
「よくスイーツを食べてるのはお前の方だろ。完全食を押しておきながら平気で栄養の偏るものを摂取しやがって」
「たまにはいいだろ。コーヒーが苦手なら紅茶を飲めばいいんだ。無理をすることはないよ」
「紅茶は貴族然としたやつらが飲むものだから嫌いなんだ。やたら作法や工程が多くて、細い取っ手を摘んで少しずつ飲んでいくのはオレには向いていない。コーヒーの方がよっぽど気楽だ」
やっと好みの甘さになったのか、ディノは満足そうにそれを啜った。
「そうだ。あの日教授たちが教室に来なかった理由がやっとわかってね。先にその話をしておくべきだった」
鳥が聖堂から羽ばたいていく。いつになく穏やかな午前である。
「教師たちは存外口が固くて探るのに時間がかかったけど、あの日病院に運ばれた師徒がいたらしいんだ。それは君も聞いたよね」
五日ほど前だったか、メドがそんな報告をしていたのを覚えている。
「それを辿っていくと、あの日もう一つ似た事件が起きていたみたいなんだ」
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