第二章 二話


 こうなるのは必然だったのだ。ディノは焦った表情でその実冷えきった回路からそんな考えを巡らせていた。

 誰もがいずれこうなるだろうと予測出来たことを、誰もがありもしない未来として蓋をしていたことで、底から湧き上がった現実がいざ目の前で吹き出た時、皆そろって呆けた顔で見上げるのである。

「あぁぁぁああああぁあ!!!」

 転がるように廊下を走る男がいた。あの背格好には見覚えがある。昨夜の任務でかち合った弓矢の男だ。暗がりで見た時は人相の悪い男だと思っていたが、明るい日の下で焦燥に駆られている姿もやはり愚かしく写った。

 後ろを追いかけるのは、男よりもいくらか背の低い小柄な少年だった。陽が登ったばかりの淡い青空のような髪を振り乱し、黄金目をギラギラとして血走らせ、刃物らしきものを片手に襲いかかろうとしている。

 振りかざしたそれを男が避けると、勢い余って教室の窓ガラスを割り、破片が飛び散る。

 悲鳴が上がった。獰猛な獣から逃れるように師徒たちは廊下の隅や教室の中へと退いて行く。止めることなどできるものか、鎖も繋いでいない獣を窘める術はないと言わんばかりに、遠巻きに乱闘を眺める。

 ただ事ではないとわかっていた。少年の殺意がこの階全体に充満している。今にもこの男の心臓を止めんとして握ったこともない刃を振り回している。

 皆は気づいているだろうか。

 これは彼らだけの問題ではないと。

「ふざけんな!こんなことをしたらただじゃおかないぞ!傷一つでもつけてみろ、お前を訴えて晒し者にしてやるからな!」

 少年は止まらなかった。言葉などあの日の痛みに比べれば大した傷にもならなかった。恐怖という感情は、殺意という激情に上塗りされて極限まで薄まっていた。今なら何でもできるという不確実で無敵な心地が少年の心理を支配している。この男を手にかけることが、少年のただ一つの使命だった。

「神よ……お許しください。彼の死が僕にとっての唯一の救いとなるのです」

「うああ!」

 軽やかな身のこなしで男の背後を取り、背中を切った。赤い飛沫が床に飛び散る。

 男は転がる勢いで起き上がり、反撃を試みたが、小回りの利く小さな体で避けられ、顔面を狙って一直線に突かれた刃をすんでのところでかわす。

 だが刃はありえない軌道を描いて男の額を裂いた。

 少年は剣術を習ったことがない素人だった。武器を扱わない人のでたらめな動きを武術に長けた相手がどれだけ読めるかはわからない。だがそのせいで不意を突かれたのは明らかだった。

 立て続けに少年は腕にナイフを突き刺すと、倒れた男に跨って心臓に狙いを定めた。

「殺すな!」

 背後から腕を捕まれ、少年は男から引き離された。暴れながら背後を振り向くと、そこには汗を浮かべたディノの姿があった。

「おい、どうして教師が出てこない!誰でもいいからこいつらを押さえろ!」

 固く握り締められたナイフをもぎ取り、遠くへ投げ捨てる。

「他の講義室にも教授がいない。別の階を見てくる」

 メドがそう言って階段へ向かおうとするも、すぐに足止めを食らうことになった。

 押さえつけていた少年の細腕がぶくぶくと膨れて歪み始めた。霧が薄らと漂い、異常な形状の変化に耐えられずディノの手が離れる。

「おいおい嘘だろ……メド!」

 彼の呼び声にメドは反射的に体が動いた。

 少年の四肢は獣のそれに変化へんげしていた。ディノの腕から逃れた途端、人間の運動能力を超えた速さでナイフを拾い、男の方へと駆ける。

 ああやはり、あの時の麒麟か、とディノは刹那に思った。

 肢体変化をしたメドは追いつかないことを察して体当たりをした。二人で壁にぶつかり痛みに悶えるが、それでも少年は止まろうとはしない。胴体へ絡みつかれ、必死に藻掻く。

「邪魔をするな!僕がこいつを殺さないと道化師は救われない!心を巣食う悪魔を取り除き、イカれた精神を正さなければ我々の健全な肉体が穢されてしまう!僕が第一人者となるんだ!道化師が真の繰り手だとわからせてやる!!」

「手を汚しては駄目だ、お願いだからやめてくれ!」

 逃れてもなお立ち塞がるメドに、少年はついに牙を向けた。

「お、おい!こいつを誰か止めろぉ!」

 男は情けない声で傷口を押えて廊下を走る。

「うわぁ、やっぱり度が過ぎたんじゃないの?昨日のあれ」

 教室から顔を出したのは狐顔の男である。

「カイレム!何とかしてくれ」

 背中から血を流し、情けない姿で膝を着く彼に、カイレムはくつくつと笑った。

「君が撒いた種だろう?手綱も握れないくせに無闇につつくからこんな事になるんだ。道化師の扱い方を見直すといいよ」

「何をぬけぬけと……お前が言ったんじゃないか!お前と同じようにすればいくらでも道化師を仕えさせられるって」

 縋り付こうとする男の手を払い除け、カイレムは鋭い目を細めた。

「何度も言わせるな。間違ったのは君だ。僕を巻き込まないでくれ」

 次の瞬間、男は腹を殴られ宙へ飛んだ。

 強烈な蹴りを食らわせたのは少年である。

 瞬足を持つ彼にメドの手は届かなかった。

「あぁぁぁああああああああぁぁぁああ!!」

 どちらの叫び声なのか、もはや区別はつかず、揉み合いの末に銀の一筋が男の喉元へと落ちる。

「ルース!」

 ぱき、と鉄が鳴った。

 瞬きの間に見えたのは、少年の腕から伸びる半透明の鎖だった。

 名を呼ばれた少年は硬直したかと思うと、脱力してその場に崩れ落ちる。黄金の砂が溶け落ち、けもの肢体が元に戻った。

 肩を震わせて、ゆっくりと振り向く。

「……お前……」

 暗い空洞の瞳が揺れた。

 階段付近で避難していた人混みをかき分けてある男が姿を表した。戦闘着に大きな荷物を背負った、妙な男であった。彼は気安く、しかし慎重に少年の元へ駆け寄った。

「何がどうなってるんだよ」

「それはこっちが聞きたいんだがな」

 廊下の端まで歩いてきたディノは髪を掻き上げてため息をついた。

「一体何なのだこれは!」

 誰が呼んで来たのか、一人の老齢の教師が驚愕の声を上げ、事態はようやく周知されることになった。



 事件に関わった者は全員事情聴取が行われ、ルースという少年は二週間の謹慎処分、彼をいじめていた男は謹慎と階級降格の上に半年間の出動禁止となった。

「いやぁ本当にすまなかった。だいぶ迷惑かけちまったみたいで。迷惑料って言っちゃ何だけど、これ受け取ってくれよ」

 教師陣の質問攻めから解放された頃には、もうすっかり陽が傾いてしまっていた。

 細く伸びた髪をひとつに束ねた男は、ルースを医務室で寝かせた後、自らの荷物の紐を解いて、次々とものを取り出した。

「これはクェーデル産のチーズだ。まるまる持ち帰っちまったから半分お前らにやるよ。それとこれは行商人にもらったお守り。魔除になるらしいぜ。ああ、飲み物もあるんだ、ほら、教会で育てられた新鮮なフルーツを使ったミックスジュース!さっぱりしてて美味しいんだ、受け取ってくれ」

 ほとんど押し付けられる形で受け取った二人だったが、彼の底抜けの明るさと混じり気のない気持ちには、どうしても拒絶しがたいものがあった。

「はあ。どーも」

 香り高いチーズの濃厚さが牧場を連想させた。

「ああ!それとクェーデル限定の栄養食、チーズ味なんてのもあるんだが、いるか?」

「いらねえ」

「ええ、お前は?」

「俺はちょっと気になるけど……」

 じゃあこれもやるよ、と袋いっぱいに詰まったそれがメドの手に渡る。明らかに一人で食べるには有り余る量で、受け取って早々、興味を示したことを後悔した。

「そんなことより、お前はオレたちに聞くべきことがあるんじゃないのか?」

 ディノの言葉にハッとしたのも束の間、扉が開き、ひょろりとした白衣の男が医務室に入って来た。

「おーいそこ、床にもの広げるんじゃないよ……うわ、チーズくさ」

「ああっ、すみません先生」

 学院に務める保健師、兼教授のイェルガ・パウロである。医学界の頂点である黒十字医師團に所属している選良な傀儡師だ。神経質そうな顔に皺を寄せ、のっそりとした動きで歩く。

 怪我をした師徒の治療に当たり、情報共有を済ませて帰って来たところであった。

「んで、ここに道化師が一人寝てるって聞いたんだけど?」

「こっちで寝かせています」

「そうか。手が血だらけだったがちゃんと止まったか?」

 パウロはルースの様子を見るため、カーテンの内側に入った。

「……それで、お前なんて言ったっけ」

「ああ、ゲイツ・ティオルドだ。そういえばまともに挨拶してなかったな。これでもかなり焦ったんだよ〜、帰って来た矢先にこれだからさ」

 へらりと笑う彼を一瞥して、ディノはソファに腰掛けた。

「聴取されている時に聞いたんだが、お前がルース・シュリイカの傀儡師らしいな」

「と言ってもまだ仮契約なんだけどな。書類契約を済ませた段階で遠征任務が決まっちまったから、それからずっと会えてなくて」

 だからこんな大荷物を、とメドは手際よくまとめられたそれを見下ろす。

「お土産も渡したいし、久しぶりにルースの様子を見に行こうとしていたらこんなことになってて驚いたよ」

「お前はシュリイカが暴行を受けていたことを知らなかったのか?」

「……また尋問が始まるのか?俺はよく遠方に派遣されることが多くてさ、あまりルースの面倒を見てやれてなかったんだ。まともに話したのは一年くらい前だったかな。知っていたらこうはならなかっただろうさ」

 何があったのか、詳しく教えてくれないか。

 それまでの軽薄さがまるでなかったかのように、ゲイツは神妙な面持ちで乞う。

 果たして彼はルースの傀儡師として信用に足る存在なのだろうか。

 疑念を抱きつつも、ディノは自分がわかる範囲で事細かにこれまでのことを話した。五分もかからないうちに全て話し切ると、包の上に座っていたゲイツは顔を強ばらせていた。

「きっとオレたちの見えないところでも痛い目にあってたんだろうさ」

 仮にも自分のパートナーがこんな侮辱を受けていたらどんな気持ちだろうか。

「君には相談のひとつもなかったの?」

「……なかった」

「変じゃないかな。君たちは契約する関係だったんだろう。なのに遠征ばかりでほとんど交流がないみたいだし、信頼もまるでなないじゃないか。なんのために契約を結ぼうとしたんだ?」

 メドの問いにゲイツはすぐに答えることが出来なかった。妙な間が生まれ、不信な視線が彼に突き刺さる。

 彼らの関係は特殊だった。遠征とはいえ任務には二人一組のパートナーが派遣されるものだ。階級に差があれど低い方のレベルに合わせて任務は割り振られている。だというのに共に行動することがないというのはどういうことなのか。

 やはり無闇に個人を助けても、面倒事が重なるばかりである。






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