第4話:尼崎へ

 尼崎。

 それは昼間から酔っ払いが街を闊歩し(偏見)、路上駐車した自転車はものの数分で盗まれ(偏見)、不慣れな者が街を歩けばまず確実にスリにやられたり難癖をつけられるという(ド偏見)、関西有数の魔都のひとつ。

 公共ギャンブルの尼崎競艇場では日々歓喜と罵声が湧き立ち、転覆したレーサーはボロ負けしたギャンブラーたちの亡霊に水の中で足を掴まれ、二度と浮き上がってこないという(そろそろ怒られてしまえ)。

 

「しかし、最近は治安の悪さも解消されてきたうえに、もともと交通の便の良さもあって人気のある都市なんだ」

「へぇ、そうなんですポコー」


 その尼崎に兄川と秘書のタヌ子が降り立つ。

 JR野洲駅から新快速・姫路行きに乗り、およそ一時間ほど。路銀は大人片道1520円也。

 ちなみに滋賀県の平均最低時給は927円であるから、三時間以上働かなければ行って帰ってこれない魔境である。

 だからほとんどの滋賀県民は尼崎に行ったことがない。

 タヌ子もまた今回が初めての尼崎訪問であり、怖い噂は聞くもののそれなりに楽しみにしていた。

 が。

 

『アホか、おのれはっ!』

『しばくぞ、ワレ!』


 駅を出るやいなやあちらこちらから聞こえてくる怒声に、タヌ子は思わず「ぴやああああああああ!!」と驚きの声をあげてしまった。

 おまけに怒声だけでなく、見ればあちらこちらで人がしばかれまくっている。

 

「ちょ、ちょっと! どこが治安も良くなってきたポコか!? あちらこちらで喧嘩してるなんて、ここは修羅の国ポコー!」


 怖いぃぃぃぃ。もう滋賀に帰りゅぅぅぅぅぅ!!

 

「落ち着け、タヌ子。あれは喧嘩ではない」

「どこがポコ! 思いっきりしばいてるポコよ!」

「違う。アレはツッコミだ」

「ツッコミ?」

「その証拠に見ろ、叩かれている方も、叩いてる方も笑っているだろ」


 ほ、本当だ。よく見たら喧嘩しているふたりも笑顔ならば、それを取り巻いて見ている連中も大ウケではないか。

  

「かつては無秩序と暴力だったこの街を、あのふたりがボケとツッコミに変えたのだ」

「あのふたり?」

「これから会いに行く『下町小僧』のふたりだよ」


 下町小僧。もはや全国でその名を知らぬ者などいない、尼崎が産んだ国民的お笑い芸人の二人組である。

 天才と称される筋肉ムキムキ坊主頭のボケ・松木本一人まつきもと・ひとりと、一トントラックと同じ衝撃を誇るというツッコミの持ち主・播磨田雅辰はりまだ・まさときによるコンビは、長らくお笑い界のみならず芸能界の頂点に君臨している。

 

「あのふたりのおかげで今がある芸能人は少なくない。かく言う俺もその一人だ」

「知事もポコ!?」

「ああ。色々とお世話になった。……タヌ子よ、お前だけには言っておく。俺は今後いかなることがあろうともあのおふたりにだけは剣を向けん。この言葉をよく覚えておけ」

「分かったポコ。ということは今回の訪問の目的はやっぱり尼崎との同盟ポコね?」

「ああ、そうだ」

「おふたりにお願いして尼崎と同盟を組んでの大阪侵攻、さらにはその後の西国出征に力を貸してもらうポコ!」

 

 そのために本日は特撰近江牛をお土産に用意した。

 いかに下町小僧の舌が肥えていようとも、近江牛の美味いところを前にして首を横に振るなど出来ないだろう。

 同盟締結、待ったなし!

 

「いや、それは違うぞ、タヌ子」

「違うって何がポコ? まさか近江牛で靡かぬ人間がいるポコか?」

「近江牛? ああ、あれはちょっとした前振りみたいなものだ。下町小僧のおふたりは食べ物なんかでは動かん」

「だったらどうやったら動くポコ?」

「安心しろ」


 笑いの絶えぬ駅前を兄川が颯爽と歩き始める。

 

「あのふたりのことは昔からよく知っているんだ」





「おー! よう来たなぁ、滋賀の田舎もん!」


 はるばる遠くは滋賀県から尼崎市庁を訪れた兄川を、下町小僧・播磨田雅辰はいきなりの暴言とケツキックのおまけ付きで出迎えた。

 長年京都府民から滋賀作だなんだと言われてきた滋賀県民にとって、田舎者とは禁句である。

 ましてや知事の尻にいきなりケリをかましてくるなんて考えられない。

 尼崎市庁での播磨田の手荒い出迎えに、タヌ子は驚いて声も出なかった。

 

「ちょ! いきなり何するんですかぁ!?」


 が、それ以上に驚いたのが兄川の反応だった。

 普段はキリっと表情を引き締め、知事らしい振る舞いを見せる兄川が尻を蹴られて情けない声をあげている。

 

「ぬははははは!」

「ぬははは、じゃありませんよ! ちょっと! 松木本さんからもなんか言ってやってくださいよ!」

「え? ああ、おう。ナイス筋肉!」


 おもむろに上半身裸となってダブルバイセップスを決める松木本。さすがは筋肉ダルマボケおじさん、キレッキレである。

 

「あ、どうも、ナイス筋肉!」


 つられて兄川もこれまた上を脱いでモストマスキュラーを決めた。ロックミュージシャンとしてのみならず、知事として常に最高のパフォーマンスを発揮できるよう、兄川の身体もまた日頃のトレーニングによってキレまくっている。

 

「って、ナイス筋肉ちゃうわ! 相方がいきなりケリ入れてくるのを止めろっちゅーねん!」

「いやぁ、でもそれが播磨田さんやからなぁ」

「そうそう」

「そうそう、って人の頭をハタくのやめてくださいよッ!」


 バシバシ叩いてくる播磨田の手を取って抗議する兄川だが、その実、表情はとても朗らかに笑っている。

 まるで心を置けない旧知の知り合いとのやりとりのようだ。

 手荒い歓迎にびっくりしたタヌ子であったが、三人のやり取りを見ていると今にも同盟を締結しそうな勢いを感じた。

 

「で、今日は一体何なん? こんな大層な肉まで持って来よって」


 応接室に通されてしばらく兄川と下町小僧がどうでもいい歓談をしているところへ、タヌ子は熱々のステーキを運び入れた。

 件の近江牛である。

 事前に話を通しておいて、食堂の調理室をお借りさせていただいた。

 

「いや、別に。久しぶりにおふたりと食事でもしたいなぁと思いまして」

「ホンマかぁ? お前、なんか企んでるんとちゃうん?」

「そんな、何もないですよ」

「言うて京都を征服しよったしなぁ。ところで京都はどうなん? いきなり滋賀県に支配されて上手くいっとるん?」

「よく勘違いされるんですけど、今回のは征服じゃなくて正確には滋賀県による支援ですね。財政難なのに漆塗りの茶室を作るとか京都は長らく市民生活をないがしろにしていたので、まずはそこを回復させるために今はとりあえず滋賀の下に入って支援を受けてもらう、と」


 果たして人は近江牛のステーキを前にして、かくも熱く政治を語れるものであろうか?

 兄川なら出来る。何故なら兄川だから。

 

「ですから支配とかそんなのは全然なくて、今は京都市民の皆さんも滋賀県民もお互いの垣根を越えて一緒に頑張ろうというところで……って全然聞いてないやん!」


 そしてそんな兄川の話に耳も貸さず、ステーキを黙々と食べることが出来るだろうか?

 下町小僧なら出来る。何故ならそれが下町小僧だから。

 

「おっ、分かるぅ?」

「分かるぅって分かるわ! 話を振っておいて無視してご飯食べないでくださいよっ!」

「いや、せっかくいい肉なんやから熱いうちに食べな勿体ないなぁと思って。てか、京都なんかどうでもええねん。どうせお前、今度は大阪を攻めるから俺たちに手を貸せって言いに来たんやろ?」


 おそらく播磨田はさほど気にすることなくその言葉を口にしたのだろう。

 が、これはこの会談のキモである。故にどうやってその話に持っていくかは手腕の問われるところであり、出来ることならばこちらから切り出すことなく相手に察してもらった方がよい。

 それを兄川は近江牛をダシに使って、見事に播磨田から引き出した。

 恐るべしは兄川高鳴である。

 

「そやけどなぁ兄川君、それは無理な話やで」


 しかしいくら本題を引き出しても、纏まるかどうは別の話。


「ワシらは確かに尼崎出身やけど、本拠地は大阪やと思っとるもん。その大阪を裏切って滋賀につくことはでけへんわぁ」


 やんわりとした口調で、しかしはっきりと断る松木本。

 果たしてどうする兄川高鳴?

 

「いやだなぁ、おふたりとも。僕、そんな話これっぽっちもしてませんやん」


 まずは軽くすっとぼけてみせる兄川。


「そやったら何しに来たんや、尼崎まで」

「まさかホンマにご飯食べるために来たんとちゃうやろ?」


 だが下町小僧とて鵜呑みするわけもない。むしろ追及の手を強めて、兄川の真意を測ろうとした。

 

「……実をいうと下町小僧のおふたりが心配でちょっと様子を見に来たんですよ」

「心配? なんでお前に心配されなあかんねん?」

「おふたりも実は内心で危機感をお持ちになっておられるんでしょう?」

「何の話か見えへんなー。何が言いたいんや、兄川君?」

「……巨泉陽きょいずみ・よう


 兄川がぼそっとその名を口にした。

 普段ははきはきと話す兄川にしては珍しい。

 しかし、それでも下町小僧のふたりは聞き逃すことなく、むしろびくっと身体を一瞬震わせる反応を見せた。

 

「この北海道出身のもじゃもじゃ男の快進撃はおふたりもご存じでしょう? つい十年ほど前は北海道のローカル芸能人だったのが、あれよあれよと大躍進し、今や全国の人気者になった」

「ふん! 確かに知っとるけどな、そやかてあのもじゃもじゃがどないやって言うねん?」

「噂ではあの男がNHK紅白合戦の司会に抜擢されたことで、裏番組にあたる下町小僧さん年末恒例の『ガチ使』が中止になったとか?」

「そんなわけないやん。アレはワシらも歳やからそろそろ体力的にもキツいからもう止めようやってことになって」

「ですが世間はそう思ってない奴も多いですよ。おまけに巨泉は今年鎌倉へと進出し、早くも『鎌倉殿』だの『佐殿』だのと呼ばれるほどの大人気だとか」

「…………」

「このままでは下町小僧さんたちの天下も危ういんと違いますか?」


 黙り込み、ついでステーキを運ぶ箸も止めた下町小僧の顔を、兄川はじっと覗き込んだ。

 かつて若い頃の兄川は下町小僧の掌で転がされるだけの存在だった。が、今は違う。逆に下町小僧すらも転がせるほどに成長し、ふたりの反応をじっと待つ。

 

「……まぁ、あんなのに負けるつもりはないけどな!」


 やがて播磨田ががぶりとステーキに齧り付いて強気な言葉を吐いた。

 

「それでお前はワシらに手を貸すって言うんか?」

「そうです」


 神妙な面持ちで頷く兄川。その瞳は氷のように澄み、青い炎のように熱い。

 

「ふん、滋賀の田舎もんがワシらと交渉とは偉くなったもんや。なぁ、松木本?」

「そやなぁ。たいしたもんや。でもな兄川君、さっきも言ったようにワシらも大阪には恩がある。いくらワシらの身が危ないからっておいそれと裏切って大阪を滋賀のもんにはさせられへんのや。それは分かっとるやろ?」

「勿論です。ですからおふたりが動ける理由をお持ちしました」

「ワシらが動ける理由? どういう意味や?」

「決まってるじゃないですか、おふたりが動くか動かないかはただひとつ。面白いおもろいか、面白くないおもろないかでしょ?」

「ほう。そこまで言うんやったら、さぞかし面白い話おもろい企画なんやろうな?」

「聞かせてもらおか、兄川君」


 長らくお笑い界を牛耳ってきた下町小僧である。そのふたりを面白いと思わせるなんて無謀すぎると、傍で見ていてタヌ子は気が気でなかった。

 なのに兄川はそんなタヌ子の心配をよそに涼しい微笑を浮かべて、ふたりに問いかける。

 

「どうですか、大阪を尼崎にしてみませんか?」

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