第16話:限界熱狂③
たったひとりの暴走が、しかし、滋賀軍全てを揺り動かした。
石部に続いて出屋敷率いる草津軍が山を駈け下り始めると、続いて滋賀で一番の勢力を誇る大津軍も後に続き、彦根、長浜、甲賀、近江八幡、高島とそこからはもう全ての兵士たちが一斉に眼下の白髭神社へと押し寄せた。
「ええい、兄川餅を喰らえ!」
「う、うまいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!」
「
白髭神社は大混乱、元旦初日の初詣を越える人数があちらこちらで銘菓・名物を喰らわしまくっている。
数では京都兵が勝っていた。
しかし、今の滋賀には声は出せずともダンスで鼓舞する兄川によるバフがあった。勢いがあった。そして何よりも我らの兄川高鳴滋賀県知事を救うんだという大義があった。
「す、すみません、紳田さん、俺やっぱり……」
「俺たち、滋賀県民なんで……」
それは芸能界と言う厳しい上下関係で結ばれた連中たちも反旗を翻すほど。
「お、おい、お前ら! そんなことしたら後でどんなことになっても知らへんで!」
黙してじっと事態を見守る島助の代わりに隣に立つ黒服が引き止めるも、もはや彼らの
「くっくっく、全く滋賀作は無駄なあがきが大好きでごじゃるなぁ」
白髭神社の混乱は、離れた湖上ステージで戦っている兄川たちも気が付いていた。
「今さら何をしたところで兄川が麻呂に召し取られる運命は変わらぬでごじゃるに」
それでも八つ橋の自信に陰りはひとつも見られない。今はまだ兄川に逃げられ続けているが、いつか必ずやおたべまみれにしてみせると確信している。
紳田島助が再編した京都兵は皆、屈強だ。そして自分自身も汚名返上の為に厳しいトレーニングを積んできた。
それに兄川がどれだけ身体を鍛えていると言えども、猿轡を噛まされてはまともに息も出来やしまい。そのうち疲れで動きが鈍る時がくる。
今はただその時をじっくりと待てばいいと、八つ橋がおたべを持った手を振りかぶった。
すなわち兄川を召し取るためのおたべではない。兄川の体力を削る為のおたべだ。捨ておたべだ。
食べ物を、しかも京都銘菓おたべを捨てるなんて、本来なら許されない行為である。だが、八つ橋は子供の頃から裕福な家庭に育ち、その辺りの感覚が欠如していた。
おたべは確かに美味しい。けれども野望の為ならばおたべのひとつやふたつ何も考えずにあっさりと投げ捨てる性格の持ち主、それが八つ橋旨麻呂――。
結局のところ、それが勝敗を分けたと言えよう。
八つ橋はひとつとしておたべを無駄にしてはいけなかったのだ。ひとつひとつに魂を込め、これで兄川を召し取っちゃると常に全力でことに当たれば、もしかしたら今頃は全く違う結論が待っていたのかもしれない。
しかし、下手に長期戦を選んでしまった八つ橋は、全く気が付いていなかった。
水面下で兄川救出作戦が展開されていたことに。
具体的に言えば、湖上で野洲レジスタンスがジェットスキーで京都の狙撃兵を釘付けにしているその下で、兄川高鳴の秘書・紫香楽タヌ子が有人潜水調査艇かいつぶり一号で特設ステージに人知れず近づいていたことに!
ざばぁぁぁぁぁん!
浮上してきたかいつぶり一号に湖上ステージが大きく揺れた。
「な、なんでごじゃるー!?」
無様に腰をつき、ステージを転がる八つ橋。同じく転げて琵琶湖に次々と落ちていくおたべ。
対して兄川は依然としてキレッキレなダンスでポージングを崩さない。
そして揺れが落ち着き、ようやく八つ橋が上半身を起こした時には。
「京都府前府知事・八つ橋旨麻呂の命、この兄川高鳴が秘書・紫香楽タヌ子が貰い受けるポコー!」
名乗りと同時にタヌ子は手にしていた滋賀県甲賀市信楽町名物・信楽焼きのタヌキを、思い切り頭上高くから八つ橋の脳天目がけて振り下ろした。
「そ、そんなのアリでごじゃるかーっ!?」
「名物だからありポコーっ!」
重さ十キロはあろうかと思われるタヌキの置物が八つ橋の頭に炸裂し、ぐしゃりと砕け散った。
そう、一見焼き物そっくりではあるが、実は滋賀県の特産品丁稚羊羹で作った特注品だったのである。
だが、そうとは知らず瀬戸物で頭を思い切り殴られたと思い込んだ八つ橋は、そのショックで見事に失神。無様な姿を今度こそ全国中継のテレビに晒してしまったのであった。
「知事!」
気を失った八つ橋を跨いでタヌ子は兄川へと駆け寄ると、その猿轡を手にかけた。
「ぷはっ! タヌ子、よくやった!」
「知事、ご無事でなによりポコ!」
タヌ子とて兄川が簡単にやられるとは思ってもいなかった。
しかし、かくも惨い仕打ちを受けながらも、自分が救出に駆け付けるまで逃げ延びるとは悪運が強いと言うか何と言うか。
改めて兄川高鳴の生命力に驚くばかりである。それにしても黒テープぐるぐる巻きが妙に似合ってるな……。
「我が愛する滋賀県民たちよ!」
感心するタヌ子の隣で、兄川がそれまでのダンスでも息ひとつ切らさず、琵琶湖全体に響き渡るような大きな声で呼びかけた。
「俺は無事だ!!」
おおおおおおおっっっっっ!!!!!!
地鳴りのような大歓声が湖岸の国道161号線から、白髭神社から、山中から、テレビの前で固唾を飲んで状況を見守っていた滋賀県民たちから巻き起こる。
一方、京都兵たちは思いもよらぬ大逆転劇に腑抜けたようにその場に立ち尽くすばかり。滋賀兵たちが一斉に湖岸へ駆け寄り、琵琶湖へ飛び込んで兄川へと泳いでいくのをいまだに信じられないと見送った。
「知事、よくぞご無事で!」
出屋敷が膝まで琵琶湖に浸かりながら叫ぶ。
「やった! 俺たちはやったぞ!」
数十名もの京都兵と立ち回った石部が吠えた。
「我らが滋賀の勝利だ!」
草津の宣言に、今再び大きな歓声が起きる。
名もなき兵士たちとお笑い芸人たちが抱き合って喜び、彦根と大津の市議会議員たちが肩を組んで大声で兄川の曲を歌う。
誰もが滋賀の勝利を祝い、滋賀の未来を切り開いた誇りに心が昂っていた。
「やれやれ、本当に滋賀県民はアホばっかやな」
それを紳田島助の冷めた声が、浮ついた滋賀勢たちの心を現実へと呼び戻す。
「黙って兄川を差し出せばよかったものを、ホンマに滋賀はアホやで」
そうだった。まだ兄川を救い出しただけ、京都の戦いはいまだ終わっていない。
京都を、この紳田島助という巨星を倒さなければ、滋賀の明るい未来は依然として切り開けていないのだ。
高揚していた気持ちがあっという間にしぼんでいくのを誰もが感じた。
兄川はなんとか助けることが出来た。しかし、肉体的にも名物的にも消耗は激しく、ここで続けざまに紳田島助と戦えるほどの戦力は滋賀にはない。
一方、京都は体力面の消費こそ滋賀と変わらないものの、名物はいまだ十分にある。
そもそも一大観光都市・京都と、最近でこそニューびわ湖タワーのおかげで様々な名物が出来たものの、いまだ発展途上の滋賀では地力が桁違いなのだ。
それは仮にここはお開きになったとしても、今後の長い戦いの中で大いに懸念される事案であった。
「紳田さん、確かに俺たちはアホかもしれない」
一瞬で空気を換えた島助に兄川が応じた。
「そうや、アホや。滋賀にとって京都は切っても切り離せない重要な出稼ぎ先やん。そやのに喧嘩売ってどないするねん」
「喧嘩を売っているわけじゃない。俺たちはただ
「滋賀の田舎もんがか? 何かあれば『琵琶湖の水を止めたろか』としか言えない腰抜け連中がオレらと同等になりたいやって?」
「ああ、そうだ」
「そんなこと、ホンマに出来ると思ってるんかいな?」
「勿論だ!」
「ふん、県民もアホならお前もアホやな、兄川。いや、知事であるお前がアホやから、県民もアホなんやろか。こんな奴の戯言を信じよって、こんな奴を助ける為に、黙って見守ってたら今まで通りオレら京都の忠実なしもべとして可愛がってやった無難な道を捨てて、危険な賭けに出るなんて、滋賀県民ってホンマ――」
最初は島助の言葉に絶望感を覚えた滋賀勢であるが、ここまでアホアホ言われたらさすがに腹が立ってきた。
これが挑発なのは誰もが分かっている。今日は兄川が救出されたところでキリよく終わりとなる流れを、島助が敢えて滋賀県民を怒らせる言葉を並べることで再度抗争の機運を高め、物資に劣る滋賀勢を叩き潰そうという狙いなのは見え透いていた。
だから怒りに任せて手を出してはいけない。敵に戦う理由をみすみす与えてはいけない。
それでもここまでアホ呼ばわりされては、我慢もさすがに限界が――。
「ステキやん」
が、続いて島助の口から漏れたのは、想像外の賛美であった。
「兄川、アホなお前の夢で弱気な滋賀の奴らがみんなアホになってもうたで。仲間の為、故郷の為なら、自分たちの未来を投げ出すようなステキなアホにな」
「紳田さん!」
「アホのやることや、今回のことは不問にしといてやるわ。ただし、京都は返してもらうで」
「かまいません。もとより紳田さんのようなまともな人が出てきたら返すつもりでした」
「おいおい、オレはとっくの昔に引退した身。京都が滋賀に征服されたんが腹立って表に出てきたけどな、そやけど京都が元に戻った今、オレはまた一般人に戻らせてもらうで」
「ふっ、それでもあなたがこうして俺たちを認めてくれたことは京都人にとって大きな意味がある」
兄川の返答に島助が面白くないとばかりに鼻白む。
が、一瞬だけニヤけた表情をすると真面目顔で「よっしゃ、みんな! 京都奪還や! 今から凱旋して京都解放パーティするで!」と宣言した。
かくして紳田島助による反乱は、滋賀の京都返還という形で幕を下ろした。
この事実だけを見れば滋賀の敗北である。
が、タヌ子は知っている。
これは滋賀県民が京都の呪縛を自ら解き放ち、真に対等となるべく自らの考えで動き始めた記念すべき戦いである、と。
まさに兄川高鳴知事が起こした革命が進化した瞬間である、と――。
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