第6話:琵琶湖、西へ

 兄川が現職知事・御好身蛸焼おこのみ・たこやきを召し取ったことにより、大阪知事選は下町小僧の初当選下克上が決まった。

 

「ぬははははははははは!!」


 そして今や尼崎となった旧大阪の地に、今日も下町小僧・播磨田雅辰はりまだ・まさときの笑い声が鳴り響く。

 

 さて、兄川の「大阪を尼崎にしてみませんか?」の問いかけに「面白おもろいやないか!」と食いついた下町小僧の政治とはどのようなものであろうか?


 誤解を恐れずに言えば、彼ら自身は大阪府を尼崎府に変える以外にやりたいことなどなかった。


 だから自分たちから何かするわけでもなく、ただ面白そうな案件には「ええやないか。どんどんやりなさい」と播磨田はゴーサインを出すだけであり、何か引っかかるところがあった場合は松木本一人まつきもと・ひとりが「ちょっと待って。それってどういうことなん?」と待ったをかけるだけである。

 

 が、そこは天下の下町小僧のふたり、その判断がまた絶妙であり、播磨田がOKを出した案件はどれも尼崎府民の暮らしを豊かにし、松木本がツッコミを入れたものはどれも何かしらの問題を抱えていた。


 結果、ふたりは特別何もしてないのに世間から大絶賛されるのであった。

 

 

 

「でも、本当にこれで良かったんですポコ?」


 5月。

 滋賀県知事・兄川高鳴とその秘書・紫香楽タヌ子は、尼崎府高槻市を流れる淀川の河川敷を訪れていた。

 桜はとうに散ったものの、皐月の空に葉桜の鮮烈な緑が目に眩しい。寒くもなければ暑くもない快適な気温の中、水面を渡って時折吹いてくる風に兄川はリラックスした笑顔を浮かべる。


 しかし、その横に立つタヌ子はあの尼崎訪問以降どうにも納得いってなくて、とうとうその思いを兄川へぶつけたのだった。

 

「どういう意味だ?」

「だってこれじゃあタダで大阪を下町小僧にくれてやったようなもんポコ」


 ふたりして尼崎に出向いたあの日、兄川が下町小僧へ滋賀の大阪進出の援助をお願いするものだとタヌ子は思っていた。

 が、実際はその逆、下町小僧の大阪進出を滋賀が援助するという兄川の申し出に、タヌ子は心底驚いた。


 兄川の野望の全貌は、タヌ子とて知らない。

 しかし、滋賀県が全国にその名を轟かせるためには京都に続いて大阪も制圧し、近畿一円を支配するのが最も手っ取り早い。当然、兄川もそう考えているだろうと思っていた。

 それなのに大阪を下町小僧にくれてやるとは、一体兄川は何を考えているのだろうか?

 

「やろうと思えば私たちだけでも大阪を落とせたはずポコ。実際、御好身を倒したのは知事だポコ!」

「ふっ、確かにな。だがタヌ子、大阪を落とした後はどうする? まだ京都市民の心をもしっかり掴めていないこの状況で、大阪府民まで手を伸ばすことは果たして得策と言えるかな?」

「そ、それはそうかもしれないポコが……」

「いいか、タヌ子。俺たち滋賀県民はこれまで京都や大阪の連中から下に見られてきた。それがある日突然立場が逆転したらどうなる? そりゃあ俺たちは痛快だろうさ。だが逆転された者からしたらたまったもんじゃない。いくら表面では冷静を装い、恭順を示したとしても、心の奥では強いわだかまりを感じているに決まっている。それを解消するにはどうしても時間が必要なんだ」

「だから今は京都だけに注力するってことポコ?」

「そうだ」

「でもだったら下町小僧をけしかける必要もなかったんじゃないかポコ? 知事もあんな危ないことまでして、それで手に入ったのがこれだけでは割に合わないポコよ?」

「そうでもないさ」


 兄川は目を細めると、河川敷の看板を見やる。

 そこには従来の「一級河川・淀川」ではなく、予め下町小僧と交渉しておいたように「一級河川・瀬田川」へと名称が書き換えられていた。


 皆さんは覚えておられるだろうか、京都の宇治川が瀬田川へと名を変えた時の話を。

 そう、瀬田川は京都に入ると宇治川へと名を変えると説明した。

 しかし、この話にはまだ続きがあり、なんと宇治川は大阪に入ると今度は淀川という名前に変わるのだ!


「これまで瀬田川→宇治川→淀川と名を変えていたものが、ついに瀬田川という本来の名前に一本化された。これはとても意義のあることだ」

「そうポコか?」

「まぁ、今はまだ分からんかもしれんな。が、そのうち……そうだな夏ごろにはこの意味が分かるだろうさ」

「夏?」

「ああ、『夏を制する者は鯉を制する』ってな」

「意味が分からないポコ!」


 タヌ子がぶぅとその太い眉を顰めて兄川へ更なる説明を求める。

 が、兄川はただ微笑みを浮かべるだけで、それ以上は何も語らず、ただただ母なる琵琶湖から流れ出た河の煌めきを見つめるのだった。

 

 

 

 果たして兄川の狙いは一体何なのか?

 それはまず梅雨の時期に、京都市民や大阪府民たちの食生活に現れた。


 一体どうしたことか!? どうにもこうにも最近ご飯が美味しい!


 梅雨のじめじめとした鬱陶しい季節、本来なら食欲は減退方向にあるはずである。

 しかし、ご飯の美味しさに減退するどころか増進するばかりであった。

 理由は分からない。が、食欲があるのは良いことなので、誰もが深く追求しようとはしなかった。

 

 さらに翌月の7月。

 尼崎府泉南郡の淡輪ときめきビーチの海開きに、颯爽と海へ飛び込んだ人々は一様に驚いた。

 海が塩辛くないのだ。

 さらには見知らぬ魚の大軍が泳いでいる。

 なんだこれはと試しに一匹掴まえたところ、背は黒っぽいものの、全体的に黄色味を帯び、斑紋があり、なんだかスイカのような香りがする。

 

 まさかと思いつつも塩焼きで食べてみるとこれが涙が出るくらい美味しい。

 鮎や! 琵琶湖の鮎や! これと比べたら山岡はんのはカスや!! 


 しかし何故瀬戸内海に淡水魚である鮎が?

 答えはひとつしかない。

 

「えー、瀬戸内海が淡水化しつつあります」


 同月中旬、環境大臣は緊急記者会見の場ではっきりとそう宣言した。

 何故かは分からないが、この春先から瀬戸内海の水が東から徐々に海水から淡水へと変わりつつあるのだ。

 理由は全く不明。ただ、瀬戸内海へと流れ込む旧淀川水系、すなわち現瀬田川水系の旧宇治川部分が今年の初めから、旧淀川部分が春から水質が劇的に改善されており、それが理由ではないかと現在研究が進められているとのことだった。

 

「なお、何故か生態系への影響はありません。海水魚たちも元気に泳いでます」


 ただし、それにしてもあまりにも分からないことが多すぎるわけで。


「この勢いですとこの夏までに広島までが、今年中に瀬戸内海全域が琵琶湖になる見込みです」


 この前代未聞の発表に、環境大臣へ記者たちが次々と質問を投げかけるのは当然であった。

 

「みなさん、ここからは大臣に代わって私が質問に応えましょう」

「あ、あなたは兄川高鳴滋賀県知事!」

「どうもみなさん、こんにちは。滋賀から変える、兄川高鳴でございます」


 そこへ所詮は名前だけの大臣に代わり、兄川が颯爽と壇上へと駆け上がって爽やかに挨拶をした。

 

「兄川知事、どうしてあなたがここに?」

「今回の異変について滋賀県も原因解明に協力しているからです。お配りした資料にもあるように、今回の一件は我が琵琶湖から流れ出た瀬田川に原因があるかもしれませんからね」

「なるほど。では兄川知事のお考えをお聞かせください」

「原因についてはなにぶん研究中のことですので詳しいことは申し上げられませんが、私から言えることはただひとつ、今回の一件について実質的な問題はなにもないということです」

「と言うと?」

「確かに瀬戸内海の淡水化は進んでおります。が、先ほども大臣からありましたように生態系への影響はないどころか、水質の改善によって明石のタコも、瀬戸内海の魚介類たちも以前より質、量ともに良くなっているとの報告があがっております。これは淡水化が広島まで進行しても広島産の牡蠣も同様の効果があるかと思われます」

「ですが瀬戸内海での塩田には影響が出るのではないでしょうか?」

「はい、我々もそこは心配していたのですが、実験の結果、不思議なことにこれまた以前より良質の塩が大量に摂れるそうです」

「なんと!? 信じられません」

「私も同じです。が、何度も実験を繰り返しての結果だそうです」


 おおっと会場が大きなどよめきに包まれた。

 当初は瀬戸内海が淡水化していると聞いて色々と危惧したが、生態系に異常はなく、産業にもこれといった影響がないのであれば、何の問題もないのではなかろうか。

 むしろ海水浴をしても塩辛くないのなら大歓迎である。


 そんな記者たちの緊張が和らいだのは、テレビ越しにこの会見を見ているタヌ子たちにも伝わってきた。

 

「さすがは兄川よ、一気に会場の空気を変えやがった」


 比古が苦笑いを浮かべて小さく嘆息する。

 もしもあのまま大臣が質疑応答を続けていたら、今頃会場はあやふやな回答の連続に猜疑心とブーイングが渦巻く地獄と化していたであろう。

 中には滋賀県が淀川水系の名前を瀬田川一本に変えてしまったからだなんていう、馬鹿げた記事を書く者もいたかもしれない。

 

「知事の狙いは最初からこれだったポコね」


 が、その馬鹿げた内容こそが、まさに今回の真相であった。 

 琵琶湖から流れ出る唯一の河川・瀬田川。しかし、これまでは道中で宇治川、淀川と名前が変わることで、どういうことか貴重な琵琶湖成分が薄められていたのだ。

 しかし、宇治川、淀川が相次いで瀬田川と改名したことで、これまた全くもってそのメカニズムは不明だがとにかく琵琶湖成分がそのままダイレクトに瀬戸内海へ流出。

 結果、琵琶湖成分を多く含んだ水で炊いたご飯は美味しくなり、さらには琵琶湖の水が瀬戸内海を侵食し淡水化、すなわち琵琶湖化してきているのであった。

 

「『夏を制する者は鯉を制する』とはこういう意味だったポコか」

「なんだそれは?」

「知事が言ったポコ。最初はなんのことだかさっぱりだったポコが、今となったら分かるポコ」

「ああ、なるほど。鯉、即ち広島東洋カープ。夏には広島まで琵琶湖化するってことか」


 さすがは兄川高鳴、おやじギャグすらも示唆に富んでいる!


 まぁ、それはともかく兄川がいつ琵琶湖の水にそれほどまでの力があることを知ったのか、ふたりにも分からない。

 まさに秘策中の秘策だったのだ。だからふたりにも話さなかったのだろう。

 

「これで大阪を下町小僧に受け渡した理由が分かったポコ」

「ああ、琵琶湖とは即ち滋賀県。ならば瀬戸内海が琵琶湖化してしまえば、その沿岸の県もまた全て滋賀県となる!」

「さすがにそれは言いすぎだと思うポコが、それでも各県に対する滋賀の影響力は限りなく大きいポコね」

「こうなると事前に分かっていれば、何かと面倒くさそうな大阪を占領しなくても、淀川さえ瀬田川に改名させてもらえばいいってことだ」


 おまけに知事選においてあれだけ協力しておけば、下町小僧が旧淀川を封鎖することも考えられない。

 

「高鳴め、一体どこまで奴は革命を起こすつもりなんだ?」

「私たちはとんでもない人を知事にしてしまったのかもしれないポコね」


 ふたりはごくりと唾を飲み込みながら、テレビに映る兄川に尊敬と畏怖の入り混じった視線を送る。

 そんなことを知ってか知らずか、兄川はただただ誠実そうな微笑を浮かべるだけであった。

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