2 この世はスラム

 仄暗くカビ臭い地下鉄のプラットフォームから地上に上がると、五月らしい晴天が広がっていた。程よく張り詰めた青空だ。清々しい薫風くんぷうを俺は胸いっぱいに吸い込んだ。

 横断歩道を渡ってタマダが歩いて来るのが見えた。ソフトモヒカンに整えられ、立ち上げられた前髪を風が揺らしている。

 タマダは白いカットソーの上にエヌ・ハリウッドの霜降りパーカーを羽織り、エイプリル77のスキニーデニムを穿いている。靴は黒いチャック・テイラーのハイカットで、コムデギャルソン・オム・プリュスの黒いバックパックを背負っていた。おまけに缶コーヒーをいかにも大切そうに携えている。タマダは時代の代弁者のように見えた。

 互いに平手をかざして短く挨拶を交わし、並んでキャンパスのアーチをくぐった。若葉風と共にいくつかの建物を通り過ぎて奥に抜けた。ちょっとした広場のような場所に突きあたった。


 数名の男女が木製のベンチに座り談笑していた。襟が小さいシャツを着た男が立ち上がり、こちらに歩いてきた。

「おう、タマダ」男はタマダに拳を近づけた。タマダはかたくなな地蔵のように無言で拳を突き出して応じた。

 その場にいたただ一人の女がタマダに訊いた。「言ってた友達?」

「そうだよ、アキ。高校からの友達」

「どうも」俺はアキと呼ばれた女に会釈した。

「初めまして。タマダから聞いているよ。君のことは」

「どんなふうに?」

「ほどほどに愛想が良い、腹を空かせた野犬みたいな男だって」

「なるほど」俺は目を細めた。「よくわからないな」


 その場にいたメンバーの自己紹介のようなものがあった。彼ら、彼女らは金曜日によく集まっているらしい。自分たちをオン・ア・フライデーと呼称し、わりとしっかり結びついているふうだった。そう、細胞結合だ。

「集まって飲んだり、カラオケに行ったりするだけだがな」タマダは誰に言うでもなく仏頂面で呟き、ガラムに火をつけた。

 黒いシュプリームのTシャツを着た男が割って入ってきた。「なあ、今日はどこに飲みに行く? タケル」

「うるせえんだよ」タマダは割って入った男――サグ野郎だ――の肩に拳を突き刺した。「この春日部のサグ野郎が」

 サグ野郎は顔を歪め、それなりに痛そうに肩を抑え込んだ。タケル――ここに来て、タマダが最初に拳を交わして挨拶をした男だ――は考え込むように大げさに腕を組んだ。タケルが着ている几帳面にプレスされた白いブロードシャツが、やけに太陽に映えてうるさかった。

「渋谷」タケルはゆっくりと顎をさすりながら言った。「今日はセンター街にしようか」

「来るか?」タマダが俺に訊いた。

 俺は頷いた。


 夕暮れの赤が街に滲んだ。ネオンの発光はまだ弱々しい。センター街を抜けて、隠れ家めいた瀟洒しょうしゃなダイニングバーの扉をくぐり、店の奥のテーブル席を陣取った。

 ウォールナットのローテーブルと、チョコレート色をした革張りのソファの重厚さは、オン・ア・フライデーズと呼び合っている面々の肩肘張った心持ちにいかにもふさわしく見えた。

 乾杯もそこそこに酒を飲み始めた。彼ら彼女らは浅瀬で跳ねるように笑いあった。

「サグ野郎、お前、金つくってんのか?」タケルは不敵な笑みを浮かべ、顔を傾けて訊いた。

「俺を誰だと思ってるんだ? 春日部のマネーメーカーだぜ」

「うるせえんだよ」タマダはサグ野郎を小突いた。「このサグ野郎が。てめえ、スーパーでバイトしてるだけじゃねえか。何がマネーメーカーだよ、おい」

「いてえな……。お前はバイトしてないのか? タマダ」サグ野郎は涙目で言った。

「してるよ。居酒屋。来月から原宿でショップ店員も始める」タマダはガラムに火をつけ、乾いた音を鳴らした。「トータルコーディネートしてやるよ」

「いらねえよ。シュプリームしか着ねえんだよ。俺は」

「生意気な野郎だ」横からタケルが入った。「こうしてやるよ」

 タケルはタバコの火をサグ野郎のTシャツへと伸ばした。

「勘弁しろよ! タケル。お前、お気に入りのシャツにそれやられたら、たまったもんじゃないだろ?」

「ただじゃ済まさないな」

「タケルはシャツしか着ないもんな。なんでなの?」

「シックに見えるからな」

「シャツル君だな、タケルは」タマダは言った。「大人っぽく見せたいお年頃なんだな、シャツル君」

 タケルは神経質な狐のように薄笑いし、一瞬だけタマダを見た。

「ねえ、夏フェスに行こうよ。夏フェス」これまで沈黙していたアキが突然言った。「サマソニに行きたい」

「いいね、行きたかったんだよね」俺は膝を打った。「普段どんなの聴くの?」

「R&Bが多いかな。ヒップホップやロックも聴くけど」アキは宙を眺めながら答えた。「最近はブラック・アイド・ピーズとか、ニーヨとか聴いてる。ねえ、どんなの聴いてる?」

「UKロックが多い。だから今年のサマソニはドンピシャ」俺は言った。「タマダは最近もレゲエ?」

「やっぱレゲエだな。この頃はロックもよく聴くが。ヤーマン」

「ヤーマン」と一同唱和。

「俺とタケルはヒップホップ一筋だな」サグ野郎はタケルと肩を組んだ。

「だから、俺とサグ野郎はサマソニには行かない」タケルは目を伏せて言った。

 アキは驚嘆した。「なんで? ヒップホップ勢も来るよ。一緒に行こうよ。わたしと付き合って初めての夏だよ? きっと楽しいよ」

「いや、夏フェスに来るような奴らはちょっと違うんだよね」緩いパーマがかかったタケルの茶髪がうろうろと横揺れした。「あと俺、あんま日焼けしたくない」

 タケルの肌は新雪のように澄んでいる。身体の線は細く、まるで気弱な鶴の足のように見えた。

「何それ」アキは憮然ぶぜんと言った。

「俺とサグ野郎のことは気にするなよ。タマダ、お前は行くんだろ? タマダたちと仲良く三人で行ってこいよ」タケルは紫煙で包むように言った。

 タマダはタケルを平板な目で見るともなく見ている。言いたいことは何もないみたいだった。

「いや、なんか俺、行かない感じになってるけど……」サグ野郎が喋り始めたところをタマダが殴りつけた。

「うるせえんだよ、お前は。来るんじゃねえよ。行きたいなら一人で行ってろ」タマダは遠心力に任せ、サグ野郎の肩をもう一発殴った。「いつもいつも、間が悪いんだよ、お前はよ」


 各々が好きなものを好きなだけ食べ、しこたま飲んだ。ネオンが青白く、いやらしい輝きを手に入れた頃、ダイニングバーを出てカラオケボックスに移った。ひどく酩酊したタケルは、レッド・ホット・チリペッパーズの『バイ・ザ・ウェイ』を歌ってからトイレで吐いた。


 カラオケボックスを出ると、空が白んでいた。鋭角な朝日に目を細めた。ふらつきながら肩を組むようにして、オン・ア・フライデーの面々は散り散りに帰っていった。

 俺とタマダはタクシーで池袋に移動して、北口にある純喫茶に入った。店内には朝まで酒を飲んでいたのであろう客や、夜の仕事を終えたばかりと思わしき客、これから出勤といった感じの客など、雑多な客で溢れている。店内では昨日と今日が混ざり合い、ミルクコーヒーのように溶け合っていた。

 目が覚めるような真紅のベルベットの椅子に座り、タマダと向き合った。店員はすぐにホットコーヒーを二つ運んできた。

 タマダは灰皿を引き寄せながら言った。「どう、俺の大学は?」

「面白そうじゃん。俺の大学よりは」俺は目をこすりながら言った。「これいつまで続くんだ? って感じだけど」

 タマダは頷き、コーヒーカップを持ち上げて静かに口元に運んだ。ソーサーに戻すときに陶器を打つ音が響いた。

 メロウでファンキーなBGMが流れていた。アルコールと眠気に侵され、熟しすぎたマンゴーのようになった身体に染み入る、ソウルフルな曲だった。

「ちょっといいですか?」席のそばを通りかかった店員を俺は呼び止めた。

 白いシャツと黒いベストを着た若い女の店員が立ち止まり、面倒くさそうに眉を動かして俺を見た。

「なんでしょう?」

「今流れている音楽の、アーティスト名と曲名を教えてもらいたいのですが」

 店員は賢い猫のように顎を引き、バックヤードへと大股で素早く歩いていった。俺は天井のステンドグラスを眺めた。赤、青、黄、緑、それぞれの色彩の輪郭がぼやけて霞んで見えたそのとき、店員は音もなく戻って来た。

「ウォーというアーティストの『ザ・ワールド・イズ・ア・ゲットー』という曲です」

「ありがとうございます」

 俺が頭を下げると、若い店員は少しだけ満足そうに頷き去っていった。タマダは胸の前で腕を組み、椅子に深く腰を掛け、うなだれるようにして眠ってしまった。

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