20 クラブ・フット

 最後の秋がやってきた。街路樹の葉が黄に燃えた。渇いた秋風は薄茶色の土埃をたて、ぎりぎりのところでぶら下がっている葉を煽る。いくつかの葉が諦めたように、力なく抜け落ちるのを視界の端が認めた。路上を覆う葉が日に日に多くなり、道が黄金に輝いた。


 俺は木製の引き戸を開け、身をかがめて隠れ家のような店に入った。店員に予約をしていることを告げると、急勾配の階段を上るように案内された。二階に上がると、左斜め前の座敷にタマダとエリカ、それからピヨ彦さんが座っていた。俺に気がついたタマダが片手をかざし、エリカも手をひらりと蝶のように舞わせた。ピヨ彦さんは飛び上がった。

「久しぶり。俺もお邪魔させてもらってるよ。最後に会ったのはいつになるかな? ずいぶん前だよね」ピヨ彦さんはまくし立てた。

「ご無沙汰してます。って、会うたびに言ってますね」

 俺が席に着くと、エリカが口を開いた。「内定おめでとう」

「ありがとう」

 まずはビールで乾杯をした。カプレーゼと、オリーブとチーズの盛り合わせと、サーモンのカルパッチョと、アクアパッツァを頼んだ。ほどなくして、カベルネ・ソーヴィニヨンを使った赤ワインのボトルを頼んだ。

「君たち二人も、もう卒業なんだね」エリカが感慨深そうに言った。

「そうですね」タマダはワイングラスを反時計回りに回転させた。「あっという間の四年間だった」

「大学生活なんて、一瞬だよな、一瞬」ピヨ彦さんはデビルに火をつけながら言った。「ほんと」

「ピヨ彦さんは大学時代、何をしてたんですか?」俺は訊いた。

「麻雀、出会い系、ライブハウス通い」戦死者を読み上げるように、ピヨ彦さんは指を折りながら言った。「そんなところだ」

「色々あったような気もするし、特に何もなかったようにも思える」タマダはガラムに火をつけ、クローブが爆ぜる音を鳴らしてから紫煙を吐き出した。

 俺とタマダは思い出話に花を咲かせた。なぜかお互いの大学に行きあって、隣りに座って講義を受けた話や、サグ野郎の話をした。それから少しだけ、マサユキの話をした。エリカは静かに、控えめに微笑んで俺たちの話を聞いていた。タマダとの話は、そのどれもがすでに通り過ぎていったことだった。


 追加でオーダーしたテンプラニーリョのボトルが空になったところで、俺たちは店を出た。駅の方面に向かって歩き、カラオケボックスに入った。

 俺たちは歌った。ピヨ彦さんは、ももいろクローバーの『行くぜっ! 怪盗少女』を歌って踊った。エリカも何曲か歌った。カラオケでもビール、緑茶割り、レモンサワーやらを節操なく飲んだ。

 時間に対する感覚がひどく曖昧になっていった。どれくらい時間が経ったのだろうか? 薄く引き延ばされた時間の中で、この時間が終わることなく続いてくれる方法を探した。少しだけアキのことを思い出した。


 空気を切り裂くようにコール音が響き、終わりを告げられた。最後に俺がカサビアンの『クラブ・フット』を歌った。もちろん歌えるはずもなく、洗濯をしすぎて、よれたTシャツの首周りのように惨めなものだった。

 曲が終わって一拍の間が空き、俺は力なく下げた両腕を微かに揺らし、おもむろに立ち上がった。時間が止まったように、三人の視線が俺に集まった。

 大きく振りかぶり、力任せにマイクを投げつけた。耳をつんざく、金切り音のような衝突音が部屋に炸裂した。突然のことに三人は鋭く小さく身を震わせ、息を呑み、静止した。マイクのハウリングがその場に長く残り、いやに響いた。マイクはドアに直撃し、曇った防音ガラスは派手にひび割れていた。俺は俯き、身動き一つしなかった。

 三十秒か一分はそのままだったと思う。あるいは三分は経っていたのかもしれないが、よくわからない。しばらくしてから俺は顔をあげた。

「行こうか」


 会計を済ませてカラオケボックスを出た。三人は駅に向かおうとしたが、俺は目の前のコンビニエンスストアで立ち止まった。

「タバコ吸ってから帰るわ」俺はハンティングジャケットのポケットからセブンスターのソフトパックを取り出した。

「そうか。またな」タマダは俺に拳を突き出した。俺も拳で応えた。

「今度は、ももクロの『走れ!』を一緒に歌おう」ピヨ彦さんは笑った。

「内定おめでとう。またね」エリカは手を振った。

 俺は一人その場に立ちつくし、セブンスターに火をつけた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。白く濃い紫煙は宙に滲んで消えてなくなった。

 あたりは白み始めていて、もうじき夜が明けそうだった。頭上を見上げると、いくつかの星がかろうじて見えた。星は力なく浮かんでいた。あの光はいつから輝いているのだろう? 本当にまだそこに存在しているのだろうか? そんな考えが頭に浮かんだそのとき、後ろから声がした。

「店長、いました」

 振り返ると、カラオケボックスの制服を着た二人組の店員がいた。

「ドアのガラス、割りましたよね?」若い店員が俺ににじり寄る。

 俺は押し黙った。

「器物損壊ですよ。弁償してもらうんで、身分証、出してもらえますか?」

 俺は背負っていたグレゴリーのデイパックに手をかけた。次の瞬間、全力でアスファルトを蹴り、二人組の店員の間をすり抜けて全力で駆け出した。「捕まえろ!」という怒声が響いた。

 アルコールが染みわたり、腐った身体で懸命に走った。すぐに息が切れた。心臓が胸を突き破りそうなほど、鼓動が痛かった。

 角を曲がろうとした瞬間、背後から強い衝撃を受けて前方に倒れ込んだ。起き上がろうとしたが、身体を起こせなかった。若い店員に羽交い絞めにされ、地面に押し付けられていた。冷たく硬いアスファルトで頬が潰れた。もう一人の店員が警察に通報している気配があった。

「お兄さん、走るの速いですね」俺は首だけで振り向き、押さえつけている若い店員を見て薄く笑った。

 若い店員は満足そうに笑った。歯が白かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る