19 ジミー・チュウ、フェラガモ、ディオール

 坂のふもとのアパートでぱっとしないスーツに着替え、ソリッドタイを締める。ベランダに出て、セブンスターを一本吸った。目の前の公園を眺めると、木々の葉の色は緑から黄に移り、もう少しで赤々としてきそうな気配に満ちていた。

「今日は帰り何時くらいになりそう?」ミサキはパソコンを睨みながら言った。

「わからない」俺はネイビーのステンカラーコートを羽織り、ポーターのビジネスバッグを掴んだ。「行ってくる」


 いくつかの坂を登り、あるいは下った。曲がりくねった道を歩き、通っていた中学校の前を通り抜けた。通りの反対側の少し先には、通っていた小学校も見える。駅に続くペデストリアンデッキと直結している、開店前のスーパーマーケットの階段を駆け下りて駅に向かう。階段は赤茶けた煉瓦調で、乾いて見えた。人でごった返した人の波に乗るようにして、そのまま改札をくぐり、電車に滑り込んだ。


 長い一日だった。徒労を抱えた身体を引きずり、地下鉄のプラットフォームから地上に上がった。一本目の角を曲がり、瀟洒しょうしゃなエントランスロビーから、暖色の灯りが漏れ出るマンションの前に着いた。マンションを見上げると、樹齢千年を優に超える御神木のように見えた。

 インターフォンに鍵を差し込み、自動ドアを開けて中に入る。何度見ても、言葉を失うくらいに天井が高いエントランスホールを抜けた。本革らしく見える、積もりたての雪のように白いソファと、どこまでも透き通ったガラスのローテーブルが眩しく煌めいている。

 エレベーターに乗り、重たいステンレススチールのドアを開け、部屋の中に入る。玄関にはジミー・チュウのハイヒールや、フェラガモのパンプス、ディオールのロングブーツが並んでいる。その脇にピンクの健康サンダルが置いてあり、どことなくおかしさを感じさせた。


 ファーで覆われたスリッパを足にひっかけて奥の部屋に進むと、エリカがドレッサーに向かって化粧をしていた。

「いらっしゃい」エリカは鏡に向かって手を動かしながら言った。

 俺はビジネスバッグを広い部屋の隅に置き、ステンカラーコートを脱いでその上に丸めて放った。丸められたコートは、どことなく背中を丸めて眠る猫のように見えて、今にも起き上がって身体を伸ばしそうだった。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プルトップを起こして倒した。俺はビールで喉を鳴らした。

「どう? 就活は」エリカは顔の前でせわしなく手を動かし続けながら言った。

「どうだろうな。よくわからない。疲労感だけがある」

「そんなもんだよね」

「就活したことあるの?」意外に思えて、俺は少し目を見開いて訊いた。

「あるよ」エリカはマスカラでまつ毛を伸ばしながら言った。「内定も出たんだけど、あんまりしっくりこなくて結局入社しなかった」

 俺はビールを片手にマンションの窓の外を眺めた。道行く人は小さな虫のように見えた。ネオンが煌めいていて、道行く車のテールランプが長く伸びる。光の渓流のようだった。

「そういえば、あれからマサユキは店に来た?」窓に映る部屋を眺めながら俺は訊いた。

「来てないよ。何の連絡もない。プライドが高い人だからね」

 エリカは化粧道具をドレッサーの引き出しにしまって立ち上がった。ウォークインクローゼットからファーがついた白いコートを取り出すと、音もなく身に着けた。

「行ってくるね。今日はアフターがあるから、帰りは朝になるかも」

「行ってらっしゃい」俺は言った。「パソコン借りていい?」

「いいよ」エリカは微笑み、黒いヴァレンティノのハンドバッグを掴んで足早に部屋を出て行った。

 広く、生活感のない部屋に沈黙が降りた。俺はビールを飲み終えてから、一時間ほどパソコンを操作した。それから広い湯船につかり、早い時間にベッドに潜り込んだ。何回か携帯電話のバイブレーションが鳴ったが無視した。ゆっくりと目を閉じると、すぐに眠りがやってきた。

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