8 二人で包まれて

 俺は先頭車両の最前列に座っている。席は進行方向を向いていて、見つめる先を目掛けて電車は走る。まるで運転席に座っているような気分だ。

 車内は隅々まで暖房が行き届いていて、手の先から足の先まで染み込むように温まった。意識が少しだけまどろむのを俺は感じた。

 駅のプラットフォームに降り立った瞬間、空っ風に頬を張られた。思わず目を閉じてから薄く開き、歩行訓練をする老人のように重々しく歩き始めた。駅から地上に降りて、大通りをひたすらに真っすぐと突き進んだ。激しい木枯らしに吹きつけられ、乾燥した両の目に涙が溜まった。寒さが身体の芯に響いて、車内の温もりがひどく懐かしく思えた。エデンの園から追放されたアダムとイブは、もしかしたらこんな気分だったのかもしれない。


 アパートの階段を上ると、足音がリノリウムの床と壁に吸収されて変な響きになった。かまくらの中で雪合戦をするように、音は吸い込まれて消えた。

 ドアベルを押してしばらく待つと、錠が回る鈍い音が響いて、すすけた灰色をしたステンレススチールのドアが開いた。

 俺は滑り込むように部屋に入った。目の前にはユリエがいた。ユリエは、ゆとりがあるチャンピオンのスウェットシャツに、タイトなブルージーンズをあわせていた。土間の向こうから腕を伸ばして鍵を閉めたときに前かがみになり、顔の輪郭を覆う短い黒髪が一房ほつれた。

 部屋の間取りは単身者用の1Kで、ピヨ彦さんの部屋に造りがよく似ている。靴を脱いで部屋に入ると目の前にあるダイニングキッチンから、熱したトマトの爽やかな酸味が香った。

「いい匂い。何を作っているんだろう?」

「トマトリゾット。もう少しでできるから待っててね」ユリエは鍋をかき混ぜながら言った。

 俺は洗面台で手を洗ってから、途中のコンビニエンスストアで買ってきたビールとアイスを冷蔵庫にしまった。それから隣りの部屋にゆっくりと歩き、窓の外を眺めた。眼前に見える家電量販店の看板を見るともなく見てから、大通りを行き交う車を見下ろした。車が走る振動で窓が震えた気がした。

 部屋のクッションに腰を下ろしてしばらくすると、リゾットとサラダをトレーに乗せたユリエがやってきた。

「できたよ。お待たせ」食器をプラスチック製のローテーブルに置きながらユリエは言った。

「ありがとう」俺は立ち上がった。「ユリエ、ビール飲む?」

「飲む。ありがとう」

「ハーゲンダッツもあるよ」

 ユリエは小さくガッツポーズをするように喜んだ。ローテーブルを挟んでユリエと向き合い、ビールを飲みながらリゾットとサラダを食べた。ユリエがつくったリゾットは飾り気がなく、素朴な味わいだった。パセリがいいアクセントになっていた。

「今日のバイトはどうだった?」ユリエは俺に訊いた。

「忙しくてさ、ぐちゃぐちゃだったよ。朝からバタバタだったみたいで、ろくに準備ができていないままピークに突入しちゃった感じ」

「うわあ、悲惨そう」ユリエは目を細めた。人懐っこそうな奥二重の目が線のようになった。眉根が上がり、眉はスキーの板のように八の字を描いている。表情が器用によく動く。

「次にユリエがバイトに入ってるのはいつだっけ?」

「明後日の夜。そのあとしばらくは入らない予定」

「じゃあユリエとバイトが一緒になることは当分なさそうだな」俺は空になったビールの缶を潰した。

 食事を終えて皿を洗い、一緒に風呂に入った。この部屋のシャワーは温度を一定に保つのが難しい。冷たすぎるか、あるいは熱すぎるお湯をお互いにかけてふざけあった。狭すぎる浴槽に二人で入り向き合った。膨れ上がっている旅行バッグに、無理やり追加で荷物を押し込むような感じだった。

 風呂を出ると再びビールを飲んだ。ビールが空になり、俺は新しい缶を取りに席を立った。そのとき、ローテーブルに置きっぱなしにしていた、俺の携帯電話が短く震えた音が聴こえた。音がした方を振り返ると、画面にライトが灯っていた。ユリエはその画面に表示された内容を目の端で捉え、それから顔を伏せた。特に何も言わなかった。俺は内心焦ったが、考えても仕方がないことだとすぐに思い直した。

 そのあと歯を磨いて、一枚の布団に包まれて一緒に眠った。

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