9 いつの日か十年が過ぎ去り

 翌日も風が強かった。昼過ぎに目覚めて、ユリエとバッティングセンターに行った。どれだけ鋭くバットを振っても、ボールが前に飛ぶことはなかった。ユリエは器用に肘を折りたたんで打ち込んでいた。それから公園に行って、キャッチボールをした。ユリエが放る球は、決まってちょうど胸元に届いた。


 駅近くのスーパーを通り抜け、住宅街の方面に足早に向かった。駅にほど近い広い公園の横を通り抜けたとき、やせ細った樹木が目に入った。枯れた葉を落としきった姿は、厳しい減量を耐え凌いだストイックなボクサーを思わせた。

 道路を左右に何度か曲がった。坂道を上ったり下ったりして、やせ細った野良猫の腹みたいに粗末なトンネルをくぐり抜け、坂のふもとにあるアパートに到着した。

 申し訳程度の門を開けてアパートの敷地に入った。階段を上り、クリーム色のドアの鍵を開けて、部屋の中に身体を潜り込ませた。この部屋も玄関に入ってすぐ目の前に、細い廊下のようなキッチンがある1Kの間取りだ。この頃、俺が立ち寄る家のほとんどはこんな感じの造りだった。

 洗面台で手を洗い、奥の部屋の扉を開いた。ミサキがソファに腰をかけてテレビを眺めていた。ミサキはベージュのブラウスの上にグレーのカーディガンを羽織り、淡い水色のつるりとしたスカートに黒いタイツをあわせていた。

「おかえり」ミサキは微笑み、こちらを向いた。赤茶に染められたセミロングの髪の毛が少しだけ揺れた。

「ただいま」俺はチェックのハンティングジャケットを脱いでハンガーラックにかけた。背負っていたグレゴリーのバックパックを部屋の片隅に無造作に放り投げ、ミサキが座るソファ兼ベッドに腰をかけた。

「どうだった? 今日のバイトは」俺はミサキに訊いた。

「今日もバタバタだった。なんか最近、朝の準備ができていないんだよね。今日もそのままピークに入って、ぐちゃぐちゃ」

「昨日と一緒じゃん」

「すごいデジャヴ感だった」ミサキはソファから立ち上がって言った。「タバコ吸お?」

 ミサキはタバコを挟むように指を二本立てて、口の前で前後に動かしてみせた。ミサキのあとに続いて一緒にベランダに出た。俺はセブンスターに火をつけ、ミサキはキャメルに火をつけた。

 すぐ目の前には広い公園があって、子どもがキャッチボールをしていた。昼過ぎにユリエとキャッチボールをしたことを少し思いだした。まだ変声期を迎えていない子どもの声があたりに反響した。

 夕焼けの気配が満ちた。役所が流している、子どもに帰宅を促すチャイムが鳴り響いた。間抜けなほど素朴な古い時代の歌謡曲のような、聴き慣れたメロディーが流れた。キャッチボールをしていた子どもたちは、不承不承といった感じで荷物をまとめて、自転車にまたがると散り散りに別れていった。


 俺とミサキは近所の焼肉屋に出かけた。

 席を案内しにやってきた女の店員が、ミサキに声をかけて抱きついた。「ミサキちゃん、久しぶり。隣りの部屋なのに、最近全然会わないね。大学でも」

 店員の女は俺にも親し気に挨拶をしてから、席に案内してくれた。それからあまり味がしない肉を食べて、薄いビールを飲んだ。あまり時間をかけずに食事を終えると、焼肉屋の隣りにあるカラオケボックスに寄った。

 一時間半カラオケボックスで歌ってからミサキのアパートに帰り、一緒に風呂に入った。蛇口をひねると快適な温度のお湯が出てきた。何とか足を伸ばせるくらいの広さの湯船に、二人で一緒に浸かった。俺はミサキのなだらかで柔らかい身体を背中から包んだ。

 風呂を出てからビールを飲んで、ベランダで一緒にタバコを吸った。歯を磨いて、ソファを倒してベッドにして、抱き合って眠った。


「あんた、いったいどうするつもりなの?」

 質素なオフィスチェアに腰掛けた中年の女性――ツチヤさんは俺を睨みつけて言った。刺すような鋭い声だった。俺は押し黙った。どうするかなんて、考えたこともなかった。

 アルバイト先の休憩室には俺とツチヤさんの他には誰もいなかった。ツチヤさんの声は、部屋のくすんだコンクリートに吸い込まれて妙な感じに反響した。

「バイト先で二股なんて、ほんと信じられない」ツチヤさんは短く切りそろえた髪をかきあげた。「やるにしてもうまくやればいいのに、なんで隠そうともしないの?」

「自分でもよくわかりません。気づいたときには今の状況になってまして」

「いい迷惑よ、はっきり言って」ツチヤさんは足を組んだ。「人間関係がぐちゃぐちゃ過ぎて、シフトを組むのにも一苦労よ」

「すみません」

「早いところなんとかしてほしいわね。周りがあんたたちに気を遣っているのよ。ただでさえ人手が足りなくて、シフトを作るのが大変なんだから」

 ツチヤさんがそう言ったところで、休憩室のステンレススチールのドア開く軋んだ音が響いた。日に焼けた女子高生が「お疲れ様です」と言い、休憩室に入ってきた。


 俺とツチヤさんは休憩室を出て、近くにある地下のダイニングバーに場所を移した。

「それで、あんたは本心ではどっちが好きなの? ユリエとミサキ」ツチヤさんはビールを喉に流し込むと、ため息交じりに言った。

「どうでしょうね。どちらも、それなりですね」

「なんなの、あんた。どちらも向こうから寄ってきたってわけでもないんでしょ?」

「そうですね。しっかりこちらからアプローチしてますね」俺はセブンスターに火をつけて、紫煙を頭上に吐き出した。

「はあ……」ツチヤさんはビールで喉を鳴らした。「一本もらえる?」

 俺の返事を待たずに、ツチヤさんはセブンスターのソフトパックからタバコを一本抜き取り、手早く火をつけた。浅く息を吸い、短く紫煙を吐き出した。

「まあ、いいけどね。あんたが何をしようと私は。シフトの作成難易度があがっていて困っているというだけの話。できればよそでやってほしかったわ」

「それは本当に申し訳ないです」

「そう思うなら、早く綺麗な状態にしてよね」

 ツチヤさんはそう吐き捨てると、火のついたセブンスターをくわえて深く息を吸い込んだ。それから今度は濃い紫煙を吐き出した。

 ツチヤさんは普段タバコを吸わない。明らかに苛立っていた。おそらく俺がその一因なのだろう。

「まあ、人生なんて説明できることの方が少ないと思うけど。五十代半ばを過ぎて、そう思うようになったわ」

 俺はさほど興味がないことを示すように相槌を打った。

「なんでこんな男と結婚したのか? って、最近ことあるごとに思うんだけど、そのたびに過去の自分をぶん殴ってやりたくなるわ。どうしてこんなつまらない、面白みのない人と一緒になったんだろうって」

 俺の興味の有無はお構いなしに、ツチヤさんの話はひとしきり続いた。


 しばらくしてから地下のダイニングバーを出て、地上に上がった。あたりには濃い夜が降りていて、冷気が張り詰めていた。吐く息は白く濃く、乾いた風が鋭く目に刺さり、視界が涙で滲んだ。歩く方向がツチヤさんと別れ、俺はイヤフォンを耳に突っ込み、ハドーケン! の『リキッド・ライブス』を聴きながら歩いてミサキのアパートに帰った。


 ツチヤさんはその九年後に離婚した。アルコールの海に溺れつつあり、大体いつも気味が悪いくらいに陽気で、今ではタバコを吸っているらしい。十年以上が経って、風の便りに聞いた話だ。

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