10 海に行くとき

 穏やかな春がやってきて、茹るような暑夏しょかに入った頃、俺は片方の女に別れを告げた。

「もう一緒にいられない」別人の声に思えた。「申し訳ないけれど」

「どうして?」そう言うユリエの目は暗然あんぜんと窪んでいるように見えた。

「他に付き合ってる人がいるから」

 深海の底のような沈黙が訪れた。ユリエの部屋に射し込む黄色い西日が、宙に舞う微細なほこりを場違いに煌めかせている。宙で輝く埃を俺は眺めた。ほかに見るべきものも、発すべき言葉も見当たらなかった。

 しばらくしてから、ユリエはおもむろに口を開いた。

「納得はできない」ユリエは所作なさ気に、右手の指で左手の甲を撫でた。「でも知ってた。気持ちがないことは。ずっと前からね」

 俺は静かに立ち上がり、部屋の片隅に放り投げていたグレゴリーのデイパックを背負った。

 ユリエの顔を見た。腹立たしさ、情けなさ、やるせなさ、諦観、そんな色が混ざり合いながら浮かんでいるように見えた。徒労感を煮詰めたような表情。

 強がりではなく、こうなることをユリエは本当にわかっていたのだろう。よく気がついて、察しがいい。俺はユリエのそんなところが嫌いだった。

「今までありがとう」俺はトリッペンのシューズに足を通して、靴紐を縛り上げた。

 振り向かずにユリエの部屋を出た。階段を何段か下りたくらいに、部屋の鍵が閉まる音が鳴った。階段を下りる足音は、建物の壁と天井に吸い込まれていつも通りの変な響きになった。

 この場所で変な響きになる足音を聞いたのは、その日が最後になった。


「海に行こう」出し抜けにタマダが言った。

「どうしたんだ?」俺はアイスコーヒーのグラスを持ち上げながら言った。「突然」

「夏らしいことをしたいんだ」

 やけくそ気味に軽く頭を振りながらタマダは言った。短く刈り上げられていたタマダの髪は伸び、カート・コバーンのような気だるいセミロングになっていた。動きに合わせて少し癖がある毛先が揺れた。

「何となくわかるよ、その気持ちは」俺は頬杖をついて言った。「思いっきり発散させたいな」

 タマダとアキは長いこと連絡を取り合っていなかった。最後に三人で会ったのはいったいいつのことだか、はっきりとは思い出せない。俺もまた俺で、ミサキの部屋に転がり込んでいるような生活を送りつつ、ミサキと二人でどこかに出かけたりすることはまずなかった。

 俺たちは翌日にクラブに繰り出し、さらにその翌日に海に行くことにした。朝までクラブで遊んで、そのままの勢いで海に行こうということだ。この時期、俺とタマダはよくクラブに足を伸ばした。

 大まかな段取りをつけてから、タマダは喫茶店を出てセレクトショップのアルバイトに戻っていった。


 翌日の十八時過ぎに、ハチ公前でタマダと落ち合った。本当は十七時に待ち合わせをしていたが、タマダは一時間遅れてきた。アルバイトをあがり、一度家に帰り、シャワーを浴びたら思いのほか時間がかかったということだった。

 タマダはラルフ・ローレンのキャンディストライプのオックスフォードシャツを着て、濃いカーキのチノ・パンツを穿き、ネイビーのニューバランス1500を履いていた。

「一時間遅れたくらい、どうってことないさ」遅れてきたことを謝るタマダに俺は言った。「時間なら、両手に余っているようなもんだろ」

「悪いな。今日はご馳走するからよ」タマダは両手をあわせた。

 大きな木製の回転扉を押して、橙色の灯りが漏れ出るガラス張りのダイニングバーに入った。グリーンサラダ、パテ・ド・カンパーニュ、椎茸のアヒージョをつまみながらビールを何杯か飲んだ。それからマルゲリータ・ピッツァをナイフとフォークを使って食べた。どの料理も素材の良さを活かし、丁寧に調理されていた。派手さはないが、心に真っすぐ響くような味わいがした。仕上げにスキャパをロックで二杯と、タバスコを垂らしたブラッディ・マリーを飲んでダイニングバーをあとにした。


 ダイニングバーを出て、喫茶店で一息入れようと道玄坂の裏路地を歩いていたとき、見覚えがある顔が、力なくこちらに歩いてきた。

「サグ野郎、久しぶりじゃねえか」タマダは言った。

「あ、ああ、久しぶり」サグ野郎は記憶を辿るように回りの風景を見渡し、ようやく俺らに気がついたように言った。

「だいぶ酔ってる?」俺は身体を半身にしながら訊いた。

「ああ、しこたま飲んだぜ。たぶん、それなりにな」

 サグ野郎はバックパックのポケットをまさぐった。くしゃくしゃになったマイルドセブンのソフトパックを取り出し、ジッポーライターで火をつけた。サグ野郎はシュプリームの白いフォトTシャツを着て、リラックス感のある濃い色をしたデニムを穿いていた。靴はナイキ・ダンクのミシガンだった。

「タケルと喧嘩したんだよ」サグ野郎は煙を吐き出しながら言った。

「お前、まだタケルとつるんでんのか?」タマダは眉をひそめた。

「つるんでるってほどじゃないけどさ。今日は久々にあいつと飲んだんだ。で、なんでかは思い出せないんだけど、喧嘩になったんだよ。とにかく激しくな」

「ふうん」タマダは一瞬だけ宙を眺めた。「なあ、これからクラブに行って、そのまま海に行くんだけど、お前も来るか?」

「ええ、それってマジにハードじゃないか?」

「うるせえんだよ、お前はいちいち」タマダはサグ野郎の右肩を殴った。「いいから来いよ」

「相変わらずいてえな……。まあいいや。こういうのも久々だな」サグ野郎は右肩を抑えて言った。「そろそろ俺の出番、これは俺のレイバン」

 サグ野郎は身振り手振りを交えて韻を踏んでみせてから、俺たちのあとに続いた。

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