7 冬がすぐそこに

「入って入って、散らかってるけどさ」ピヨ彦さんは部屋のドアを開けながら言った。

 ピヨ彦さんの部屋は本当に、あり得ないほど散らかっていた。部屋に入ってすぐのダイニングキッチンの作業台には、所狭しと開封済みのペットボトルが林立している。床はひどくほこりっぽい。靴下越しにざらついた感触が伝わった。

 シンクにはいつ使ったのかわからない皿が、うず高く積み上げられている。皿の合間合間に箸やスプーンが刺さっている。カレーやらラーメンだかを食べたのだろうか、茶色い汚れと油が地層のように体積し、食器のそこかしこにこびりついていた。シンクのところどころに白い水垢が点々とこびりついている。

 ずらりと並べられたペットボトルは三本に一本くらいの割合で、コーラやお茶が少しだけ残っているものが混ざっていた。ペットボトルに残された液体は、見慣れない色に変色していた。

 ダイニングキッチンの床には、どういうわけか衣類、ゴミ袋、漫画本、開けっ放しの段ボールが散乱している。置かれている物はおおむねダイニングキッチンにとっては必要がない、とりとめのない物ばかりだった。何かをどかさないと座ることもままならない。床に散乱している物を脇に避けて、俺とタマダはそれぞれの空間を確保した。

「ピヨ彦さんの家はいつ来ても、いるだけで変な病気になりそうですね」タマダは口元を手で覆いながら言った。「いきなり押しかけて言うのもなんですけど」

 ピヨ彦さんは換気扇のスイッチをつけて、ブラックデビルに火をつけた。ブラックデビル特有の甘ったるいココナッツ臭が鼻孔をついた。部屋に染み付いている、酸っぱいような、それでいて重たいような何とも言い難い匂いと混ざり合い、黒魔術的な匂いになった。

「奥の部屋はどんな感じなんですか?」俺はしかめ面で言った。

「ああ、この部屋と同じようなもんだよ。ダメなんだよね俺。片付けということがどうにもできなくてさ」

「教え子と付き合ってた頃は綺麗だったんだぜ。この家も」タマダは居心地が悪そうに体操座りをしている。「甲斐甲斐しく、彼女が片付けに来てくれてさ。女子高生の」


 俺とタマダはコンビニエンスストアで買ってきたビールを飲んだ。ピヨ彦さんは湯を沸かしてカップラーメンを食べた。ピヨ彦さんの食生活はどう考えても乱れているはずだが、白く寒々しい蛍光灯に照らされたピヨ彦さんの髪は豊かに黒々と照っていて、肌が艶々としていて張りがあった。

「アキと別れたいんですって、タマダ」俺は言った。

「ああ、そんな気はしていたよ。最近アキちゃんと会うことがなかったしな」ピヨ彦さんはカップラーメンの蓋をはがしながら言った。「続いてくれるといいなと思ってたんだけど」

「なんでそう思ったんですか?」タマダは尋ねた。「これまで俺の彼女について、ピヨ彦さんがそんな風に言ったことってなかったですよね?」

 ピヨ彦さんは音をたてて、いかにも美味しいそうにカップラーメンをすすってから言った。「お似合いに見えたからかな。これまでのタマダ君の彼女って、いかにも育ちがよさそうなお嬢さんとか、そんな感じが多くなかった? アキちゃんはガールズバーでバイトしてたりさ、なんかそういうハングリー精神みたいなものがタマダ君と合うんじゃないかって思ったんだよ。君、いいとこのボンボンだからね。凹凸がぴたりと一致するみたいに、おさまりがいい二人に見えたんだ」ピヨ彦さんは一気に喋ると、喉を鳴らしてコーラを飲んだ。

「なんとなくわかる気がします。俺もお似合いのように思ったんだけどな」俺は換気扇を回し、セブンスターに火をつけた。

 タマダはビールを飲みながら穏やかな表情で話を聞いていた。否定も肯定もなかった。ピヨ彦さんはあっという間にカップラーメンを食べ終えて、スープまですべて飲み干した。空になった容器と割りばしをシンクの横に放り投げて、換気扇に近寄った。

「まあ、よくよく考えたら、タマダ君の歴代の彼女で俺が会ったことあるのって、アキちゃんだけだからな。それで情があるのかもしれない」ピヨ彦さんはブラックデビルに火をつけ、煙の行く末を眺めがなら言った。「そして何より俺はロリコンだからさ。タマダ君がこれまで付き合ってきた彼女って、中学生とか高校生だったじゃん。だから君のことが憎くなるくらい羨ましくて、応援する気になんてなれなかったからな」

「なるほど」タマダは拳で手のひらを叩いた。「それが一番説得力のある答えですね」


 ピヨ彦さんは毛布を渡してくれたが、丁重にお断りした。その毛布からは梅雨どきの犬小屋の匂いがした。変な虫が湧いていてもおかしくはないし、よく見たら虫に食い破られた穴の一つや二つが開いてるかもしれない。

 シャワーも薦められたが遠慮した。バスルームにはカビがこびりつき、排水溝にはタワシのような抜け毛のかたまりが転がっていた。集団生活を送る、貧しいホストか何かの社宅のようだった。

 寝る前に空気だけでも入れ替えようと思い、キッチンの窓を開けた。わずかに月が見えた。月は丸く大きく、微かに緑がかった深い黄檗色きはだいろをしていた。虫の鳴き声が賑やかに響いた。頬を撫でる風は涼しく、すぐそこに冬が迫っている気配があった。

 思ったよりも、タマダとアキは長く付き合った。

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