6 旧GAP原宿があった頃

 無色の風だ。身体にまとわりつく熱風が止んだのは遥か昔の事のように感じる。今では残暑も感じない。風は熱気も冷気も含まず、純然たる風だった。どこまでも風らしい風だ。明治神宮前駅を出て、神宮前交差点のGAP原宿を背にして明治通りを渋谷方面に歩いた。

 その店は外から見ると、木製の枠に埋め込まれた巨大な水槽のように見えた。店に入ると、独特のイントネーションの「いらっしゃいませ」という挨拶が響いた。気だるく鼻にかかり、それでいて強く短く勢いがある。自意識が強いショップ店員によく似合う気取った挨拶だ。金太郎飴のようにどの店員からも同じトーンの挨拶が聞こえ、熱心な教育が行き届いていることをうかがわせた。遠目で俺に気づいたタマダが近寄ってきた。

「いらっしゃいませ」タマダは他の店員と同じようにお辞儀をしてみせた。いらっしゃいませの「い」が妙に響き、「せ」で半音上がる。

 タマダはジェームス・シャルロットらしき白いチルデンニットを着て、オリーブのファティーグパンツを穿いていた。靴はパラブーツのシャンボードで、よく手入れされているようだった。

「来ちゃった」俺は入口近くに置いてあったディッキーズのワークキャップを手に取り言った。

「気持ち悪いな、お前」

「秋冬物を探してる。特にアウター」俺はワークキャップを棚に戻し、目立つところにかけてあるアウターを物色した。

「お客様、そちらにかかっているアウターは、ゴミでございます」タマダは小声で俺に耳打ちした。「セレクトショップのオリジナルブランドなんて、着れたものではありません」

「無茶苦茶言うなあ、お前」

 俺はいくつかのアウターをタマダに提案してもらった。そのどれもがインポートブランドだった。手に取った時点ではぴんとこなくても、着てみると存外しっくりとくる物ばかりだった。深い緑と紺と土色が使われた、チェックのハンティングジャケットを買うことにした。ジョンソン・ウーレンミルズのものだ。

「お客様、そのアウターはゴミではございません。きっと長く着ていただけると思います」タマダはこっそりと社員割引を適用させて会計をしてくれた。

「色々とありがとう。ちなみに今日は何時までバイト?」

「二十時過ぎかな」

「よかったら飲みに行かないか?」

「いいね。あがったら連絡するわ」

 店の入り口で俺はタマダから紙袋を受け取った。

「ありがとうございました」タマダは再び店員口調でお辞儀をした。一朝一夕では到達し得ない高みから親しみを込めるような響きだった。


 店を出てから、いくつかの古着屋やショップを回った。歩き疲れて足がだるくなり、神宮前交差点のロッテリアに入った。コーラを飲みながら文庫本を読んで時間をつぶした。ハンティングジャケットの他には何も買わなかった。

 一時間が経ち、ナボコフの『ロリータ』を三十ページくらい読み進め、街の電飾がぎらつき始めた頃に、タマダがロッテリアにやって来た。


 俺らは大通りを渡り、細い路地を抜けて、タマダの案内で隠れ家のようなダイニングバーに入った。タマダの足取りには迷いがなく、この細々として小洒落た街のつくりを隅々まで熟知しているようだった。外科医の頭の中に、人体に張り巡らされた血管の子細が叩き込まれているように。

 店内はブルーとホワイトを基調にしていて清潔だった。猫の額ほどの広さしかない店内が不思議と奥行きをもった広い空間に感じた。俺らはクラフトビールを飲んだ。

「いつも思うんだけどさ」俺は言った。「お前、よくこんな洒落た店ばかり知ってるよな」

「いい店が好きなんだよ、俺は。どうせ飲んだり食べたりするならば、いい店に行きたい。酒と料理が美味くて、できるだけ居心地がいい店に」

「それはそうだ」

「だから、バイト先の先輩といろんな店を開拓してるんだ」タマダは最近生やした髭を確認するようにあごを撫でた。タマダは俺から見れば大人びて見えた。

「最近アキとはどうなんだ?」

「別れたいんだよね。正直なところ」タマダは居心地悪そうに苦笑した。

 タマダがそう思うのならば取り立てて異論はないが、俺は少しだけ残念に思った。

「なんとなくそんな気はしていた。ここ最近三人で会うこともなかったし」

「今、アキは少し病んでてさ」タマダはガラムに火をつけた。息を吸い込み、クローブが爆ぜる音を鳴らした。「どこで誰と何をしているかなんてことを、逐一訊いてくる」

「そうか」俺もセブンスターに火をつけた。

「正直さ、ああ、いっそのこと死んでくれても構わないのにって思う。別れるのも億劫だしな。死んでくれたら、俺が悲劇の主人公になるだけじゃないかって思う」タマダは窓の外を眺めながら言った。

「お前、さすがにそれは鬼畜だわ」

「まさに外道。鬼畜の所業」タマダは紫煙を宙に放ち、目を細めた。


 俺たちは店を出て、ピヨ彦さんのアパートに向かった。二人でタクシーに乗り込み三十分ほど北に走った。

 適当な場所でタクシーを降りて、コンビニエンスストアでビールを買って飲んだ。日ごと秋めいてきて、夜風が少し肌寒かった。民家の隙間に無理やりねじ込んだような公園で十五分ほど過ごした頃に、ピヨ彦さんが現れた。

「ごめんごめん、お待たせ」

「すみません、突然泊めていただくことになって」俺は頭を下げた。

「いいよいいよ、気にしないで。久しぶりだね。なんだかんだサマソニのとき以来だよね?」

「そうなりますね。ご無沙汰しています」

 空になった缶ビールを公園のゴミ箱に投げ捨て、ピヨ彦さんのアパートに向かって歩いた。街には濃い夜が降りていて、街灯が刃物のように鋭く光っていた。

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