5 オー、ノー


 翌日、俺たちが動き始めたのは十時過ぎだった。鋭い太陽光線が天空から容赦なく降り注いでいる。アキは目を細めると、色が濃いシャネルのサングラスをかけた。


 会場に向かう途中で昔ながらの蕎麦屋に入った。山小屋のようにくたびれた扉を開けると、店内には所狭しと酒瓶が並べてあった。

森伊蔵もりいぞうがある」眠たそうに目を擦っていたアキの顔が明るくなった。

「いいね」タマダも重たいまぶたを押し上げた。

「森伊蔵ってなんだ?」知らないのは俺だけだった。森伊蔵を知っている大学生の方がきっと少ないはずだ。

 俺たちは森伊蔵をロックで飲んだ。マイルドでフルーティーで、遅く起きた朝の一杯目にあつらえ向きな味だった。アルコールが食道を伝い胃に到達し、身体の奥に熱が灯った。それから脳が覚醒した。ざる蕎麦を食べた。鼻から抜ける薫りがたまらなかった。ビールも飲んで、蕎麦湯まで味わった。


 マリンスタジアム側から会場に入った。歩道に植えられた街路樹の青々とした葉を、熱風が揺らしている。すでにライブは始まっていて、遠くから柔らかく響く鼓動が身体を捉えた。再び会場に辿り着けたことを喜び、俺たちはやはりビールで乾杯した。

「今日、俺の知り合いが来てるかも」タマダは携帯電話を開いて言った。

「どんな人?」

「アキちゃんは会ったことある人だよ。塾講師だったんだけど、教え子に手を出してクビになった人。俺が高校生の頃まで家庭教師をしてくれてたんだ。歳はいくつだろ? 少なくとも三十は越えてるかな」

「ああ、ピヨ彦さんね。いいじゃん。合流しようよ」アキは無邪気な笑顔で言った。


 教え子に手を出した元塾講師のピヨ彦さんと、幕張メッセに入ってすぐのモニュメントの前で待ち合わせた。

「来た」タマダは言った。

 小柄でやけに細く、不自然なくらいに白い男――ピヨ彦さん――が人混みから手を振り、こちらに近寄ってきた。床を跳ねるスーパーボールのように見えた。ハロー! プロジェクトのTシャツを着ている。どういうわけか。

「どうもどうも。タマダ君、急に連絡してごめんね。一人で来てて寂しくてさあ。アキちゃん久しぶり。元気? 今日も可愛いね」ピヨ彦さんはよく通る高い声でまくしたてた。

 ピヨ彦さんは俺を見た。「君の話はタマダ君から聞いたことがあるよ。高校生のときにね。初めましてだけど、そんな感じはしないな」ピヨ彦さんは握手を求め手を差し出した。「君が真夏の教室に三日間放置した、おにぎりを友達に食べさせたことは聞いてるよ」

 俺は握手に応じて会釈した。「ピヨ彦さんが塾講師をクビになった話は聞きました」

 ピヨ彦さんは手を叩いて笑った。「君とは友達になれると思ってたよ」


 俺たちは四人になったが、変わらずに各々の観たいアーティストを優先させた。単独行動も織り交ぜながら流動的に動いた。お昼過ぎと夕方の間に、宙に浮いたアドバルーンのような時間ができた。これといって観たいアーティストもなく、俺たちは海辺のステージ――ビーチステージ――になんとなく集まった。

「なんで教え子に手を出したんですか?」俺はピヨ彦さんに訊いた。

「そこに好みの女子高生がいたからさ」

「そこに山があるからだ、みたいに言う」水着になったアキが笑った。

「そうとしか言いようがないからしょうがない。ナボコフの『ロリータ』とか、谷崎の『痴人の愛』って読んだことある? そんな感じ」

「よくわかりませんね」俺はビールで喉を鳴らした。

「わかってくれとは言わないが」ピヨ彦さんは言った。

「ギザギザハートのように言う」アキはピヨ彦さんの胸を鋭く突いた。

「これだから塾講師は辞められない」

「ほんと、気持ち悪い」アキは吐き捨てるように言い、ビールを買いに席を立った。

 その隙にピヨ彦さんはタマダに言った。「おい、アキちゃん太ったな」

「そうなんですよ。多分、俺に合わせて遅い時間にラーメンを食いまくってるからだと思います」

「そりゃあ太りそうだな。まあ、そんだけ一緒にいるのはいいことだな」そう言い終えるとピヨ彦さんはペットボトルの水を飲み、気持ちよさそうに喉仏を上下させた。ピヨ彦さんは酒は飲まなかったが、誰よりもテンションが高い。

「続いてくれるといいな」ピヨ彦さんは呟いた。

「はい?」タマダは尋ねた。

「タマダ君とアキちゃん。続いてくれるといいなって思ってさ」ピヨ彦さんが、もう一度言ったとき、ビールを持ったアキが戻ってきた。


 何もかもが夕日で染め上げられた頃、俺らは四人で最後のライブに向かった。向かった先は一番大きな野外ステージ――マリンステージ――だ。二日目のヘッドライナーは、デビューからまだ二年しか経っていないアークティック・モンキーズ。彼らはまだ二十一歳で、異例中の異例とも言える大抜擢だった。

 俺たちはほとんど最前列に陣取った。人々の熱量が最も集中する場所だ。

「どんなライブになるんだろう」俺はあたりを見回しながら言った。

「ライブがうまいイメージはないけど、楽しみだな」ピヨ彦さんは言った。

 ピヨ彦さんは、十歳以上歳が離れている俺たちにすっかり馴染んでいた。見ようによっては、元々そういう四人組だった風に見えなくもない。俺たちと打ち解けることは、教え子に手を出すよりも簡単なことなのかもしれない。

「UKロックらしく、斜に構えた感じでいてほしいですね」タマダはキャップをかぶり直した。

「終わっちゃうね」アキが静かに言った。


 あたりに青い闇が降り、人々の期待が最高潮に達したそのとき、シェフィールド――イングランド中部の工業都市だ――から来た彼らは、機関車トーマスのテーマに乗って、ようやくステージに現れた。手短にフィードバック・ノイズを鳴らし、パフォーマンスを始めた。同時に人々は少しでも前方に行こうと動き出し、蠕動せんどう運動のような人の波が生まれた。人と人とがぶつかり合い、飛び跳ね、空から降ってくる人がいて、狂ったように回転し、もみくちゃになり、拳を突き上げ、あたりに水をぶちまけ、わけのわからないことを叫びまくり、気が遠くなるほどの興奮にまみれた。

 俺とタマダとアキと、さほど年齢が変わらない彼らの演奏は荒々しくて軽かった。ときにリズムが走り空中分解寸前になった。溜めは充分に溜められず、決めを決めきれない瞬間が何度かあった。オーディエンスとの一体感があるとも言い難かった。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。前のめりに転がるように駆け抜ける彼らから、目を離すことはできなかった。まだ細く頼りない身体で彼らは戦っていた。

 演奏を終えると、彼らはステージ上で一言も発することなく無表情で去っていった。乾いた音がスタジアムに反響した。頭上を見上げると、鮮やかな光露こうろが夜空に煌めいていた。

「終わっちゃった」アキは呟いた。彼らが最後に演奏した、『ア・サートゥン・ロマンス』でオー、ノーと歌った、アレックス・ターナーを思い起こさせる響きだった。

「すごいよな。歳は俺らと、ほとんど変わらないんだぜ。ピヨ彦さんとは大分離れているけど」タマダは額の汗を拭いながら言った。

「やかましいわ」


 俺は未来に思いを馳せようとしたが、何も見えなかった。おぼろげな輪郭のようなものすら掴めなかった。

 汗を出し切っても尚、留まることがない熱を放出する身体を引きずり、長い時間をかけて人の波に乗り、電車に滑り込んだ。俺たちはそれぞれの帰路について別れた。

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