15 移り変わり
俺とタマダが通っていた高校の校舎が建て替えられることになった。ひどく古びて錆びついた校門も、煉瓦造りでくすんだ校舎も、掘っ立て小屋のような体育教官室も、かび臭くて薄暗い地下の食堂も、全てが更地になり、新しくなるということだった。
校舎が取り壊される前に、近い代の部活のOBが集められた。練習に参加して、そのあとに飲み会を行うことになった。俺とタマダは理由をつけて練習には参加せず、飲み会にだけ参加した。渇いた風が吹き抜ける、忘年会シーズンの真っただ中。骨が軋むほど寒い冬の日だった。
チェーンの居酒屋の店内はタバコの煙が立ち込め、喧騒に包まれている。いやに黄色い照明の下で、座敷のテーブルの合間をせわしなく、甲斐甲斐しく、瓶ビールを携えて動き回る後輩という立場の人間。先輩のグラスにビールを注ぎ、愛想がこびりついた笑顔を浮かべ、グラスが開いた別の先輩にビールを注ぎにいく。
俺はテーブルの隅に隠れるようにして座り、後輩とぽつりぽつりと話をしていた。タマダは遅れていて、まだ店に到着していない。
「先輩、見てくださいよ、この指」後輩は拳を突き出すようにして、俺の目に指を近づけた。
後輩の指には黒い文字が彫ってあった。近すぎて、なんて書いてあるのかはわからない。
「何これ?」
「刺青ですよ。かっこよくないですか?」
「かっこいいな。たまらなく」俺はぬるくなったビールを一口飲んだ。「いつ彫ったんだ?」
「去年ですね。もう、大変ですよ。親と飯を食べるときとか、ばれないように指を指でつまんで隠しながら食ってますからね、自分」
なかなか器用な奴だなと思ったそのとき、個室の扉が開き、タマダが入ってくるのが見えた。俺は片手をあげて合図をした。タマダはそれに気づくと、目につく先輩や後輩に会釈をして挨拶をしながら、こちらに近づいてきたかと思うと向かいに座った。
「遅くなったわ」
「先輩、お久しぶりです。相変わらずかっこいいですね」後輩はタマダに頭を下げた。
俺たち三人はテーブルの隅でひっそりと酒を飲んだ。個室の中を見渡すと、あちらこちらのテーブルで先輩が後輩にくだを巻き、後輩は先輩に卑屈なほど頭を下げている光景が目についた。
「先輩、ひとつお願いがあるんですけど」後輩は俺に言った。
「なんだ?」
「言いにくいんですけど、お金貸してもらえないですか? 三万円でいいので」
「断る」俺は枝豆をかみ砕きながら言った。「無理だよ」
「ですよね」観念したように、後輩は大袈裟に笑った。
「金ないのか?」タマダが訊いた。
「いやあ、そうなんですよ。最近よく後輩を飲みに連れてくんですけど、払いが多くて」
後輩がそう言った瞬間、肩に衝撃を感じて俺は振り返った。目の前には、俺が一年生のときに夏合宿で付き人をして、預かった荷物をなくした先輩――マサユキと、一歳年上の先輩が二人いた。
俺はマサユキを眺めた。短く整えられた短髪、身体に張り付く細身のニット、派手な加工が施されたダメージジーンズ。首元で華奢なシルバーネックレスが光り、嫌みたらしい、にやけ顔で口元が歪んでいる。
「ご無沙汰しています」俺とタマダと後輩は、突然目の前に現れた三人の先輩に頭を下げた。
「おう、久しぶりだな」マサユキは短く刈り上げられた側頭部を撫でながら言った。「お前ら、後輩が金に困ってんのに助けてやることもできないのか?」
「すみません、自分らも貧しいもんで」俺は言った。
「俺が貸してやるよ」一目でボッテガ・ヴェネタとわかる、イントレチャートの長財布からマサユキは札を取り出した。「ほら」
「え、先輩、いいんですか?」与えられた餌に群がる猫のような目で、後輩は言った。
「苦しいんだろ? 気にするなよ」
俺たちはしばらく、六人で一塊になって過ごした。一歳年上の二人の先輩はすでに酔っぱらっていて、呂律が怪しくなっていた。飲み会が始まってから、ずっと先輩に酌をして回っていたのだろう。
「先輩」タマダが一歳年上の先輩の一人に話しかけた。「いつだったか、真冬の練習試合で負けが込んでたとき、『ここから俺が勝たせたら英雄じゃない?』とか言ってましたよね。で、何の見せ場もつくれず、速攻でボコボコにされて無様に散って。おまけに、監督からこっぴどく詰められるっていう。『お前、さっき何て言った?』なんて訊かれて、『ここから俺が勝たせたら英雄じゃない? って言いました』なんつって。あれには参っちゃいましたよ」
俺と後輩、それからマサユキが手を叩いて笑った。
「あったな、そんなこと」俺は笑いながら言った。「あれには笑わせてもらいましたよ」
「お前、それはさすがに惨めすぎるだろ」顔を真っ赤にした先輩の肩を叩きながら、マサユキは言った。
「いやあ……そんなことありましたっけ……」先輩は俯きながら呟いた。
「おい、いまなら英雄になれるぞ」マサユキは空になったジョッキにピッチャーからビールを半分ほど注ぎ、その上から焼酎を注いだ。「これを飲み干せばな」
「先輩、勘弁してくださいよ……」もう一人の先輩が狼狽えながら言った。
「黙ってろよ」マサユキは言った。「次はお前だから」
二人の先輩はマサユキがつくった焼酎のビール割りを二杯ずつ飲み、テーブルに頭を突っ伏すようにして倒れ込んだ。
「なんだよ、情けねえなあ。そんなんじゃ、まだまだ英雄にはなれねえぞ」さも満足げな笑みを浮かべてマサユキは言うと、席を立ち上がった。
マサユキが去ったのを見計らって、俺とタマダは荷物をまとめて店を出た。
後日、後輩から聞いたところ、泥酔した二人の先輩は、マサユキによって店の支払いの全てを被せられたらしい。それから二人仲良く、救急車で運ばれていったということだった。
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