23 これからもきっと

 その年の桜が開花した。桜が咲いてから、花冷えの日が続いた。夜になるとしっかりとしたアウターが必要なくらい肌寒く、俺はジョンソン・ウーレンミルズのハンティングジャケットをよく着た。


 タマダと缶ビールを飲みながら、夕暮れが迫る千鳥ヶ淵をあてもなく歩いた。日本武道館の前を通り過ぎる。ここで入学式が行われたのがつい昨日のことのように感じられた。

 タマダと高校時代のことを話した。部活の大会で日本武道館に何度か訪れたこと、決まって毎回結果が芳しくなかったこと、大会の休憩中に先輩の財布から数千円をくすねて、牛丼を食べに行ったこと。

 日が落ちようとしていた。太陽が林立したビルディングの影に隠れていく。遠慮のない夕焼けにあたりは染め上げられた。配慮も慈悲もなく、ただ圧倒されるばかりの赤が広がった。

 二本目のビールを飲み終えた頃、太陽はほとんど沈んで薄暮がやってきた。それでも、遠く離れてそびえ建つビルディングや、近くで生い茂る樹木が残照で煌めいていた。


 タマダと東京駅に移動した。駅構内の洋食レストランでビールを飲みながら、オムライスとフライドポテトをつついた。

「お前の大学の新歓コンパに行ったときのことを思い出すな」タマダが目を細めて言った。

 喫煙席がなくてタバコが吸えなかった。俺たちは手持無沙汰で、食器を鳴らす音と、咀嚼音だけが響いた。

「寂しくなるな。お前が行ってしまうと」タマダはビールを一口だけ飲んだ。「いつまで大阪なんだ?」

「わからない」

 就職したあとのことは想像もできないことだらけで、何もかもがわからなかった。

「また、一緒にビールを飲もうぜ」

 あっという間に、ジョッキのビールは空になってしまった。


 新幹線の改札前でタマダは言った。「コーヒー・ショップでまた会おう」

 タマダは俺に拳を突き出した。いつも通りに、俺も拳で応えた。拳と拳が結合した。思い返せば、沢山の細胞結合と分裂があった。あとにも先にも、こんなに短期間で繰り返されることは、おそらくもうないだろうと思うほどに。

「いつかレッチリのライブに行こうぜ」俺は言った。

 改札に切符を入れて、俺は足を踏み出した。引き返すことができない一歩になる予感があった。プラットフォームに上る階段のあたりまで進んでから、後ろを振り返った。気がついたタマダが平手をかざした。俺も平手をかざして応えてみせた。


 新幹線が走り出したころに大雨が降り、不思議な天気に変わった。空は厚く重たい雲に覆われて、奥行きがない鈍色の膜が降り、窓から見える街は色彩を失った。それでいて太陽が沈んでから、しばらく経ったにもかかわらず、闇が完全に降りているわけでもなく、かすかな明るさがあった。

 新幹線はうなりをあげ、猛スピードでトンネルを進んだ。窓から伝わる、風を切り裂く鈍い振動で、身体が高速で前進しているのだと実感した。俺は止まったままで進んでいた。意思とは関係なく、ひたすら前へ前へと押し出されている。

 短いトンネルを抜けた。深く濃い緑の山間に、寂れた旅館がいくつかあるのが目についた。山には薄い雲がかかっていて、ほの暗い無色の海が奥に広がっている。雨があがっていることに気がついた。ほどなくして、どこまでも完璧な暗幕が降りた。


 タマダに金を借りた翌月から、俺は二万円ずつ返済した。一日も遅れることなく、儀式のように返した。八か月で返済は完了した。

 返さなくてもよかったのに、とタマダは言った。俺が東京に寄ったとき、完済記念にタマダは渋谷でランジェリーパブを奢ってくれた。どういうわけか。

 タマダは就職をしなかった。数年にわたってショップのアルバイトを続けてから、父親が経営している運送業を営む会社を継いだ。

 何年かおきにタマダと二人で夏フェスに行った。ザ・イエロー・モンキーも、カサビアンも観た。レッド・ホット・チリペッパーズだって観た。彼らは『コーヒー・ショップ』は演奏しなかった。最初からわかりきっていたことだ。

 俺が結婚したときも、子どもが産まれたときも、タマダの親からお祝いをもらった。タマダは今も独り身で、たまにクラブにも通っているらしい。最後に一緒にクラブに行ったときは、スヌープ・ドッグとウィズ・カリファの『ヤング、ワイルド&フリー』で躍った。

 俺は今も大阪で暮らしている。関西弁が苦手で、関西弁を使わないようにして生活している。関西弁に迎合しないこと。そんなくだらないことで、できるだけ俺を保っているように思う。

 タバコは数年前に辞めた。タマダは今でもガラムを吸い、クローブが爆ぜる小気味よい音を鳴らしている。

 酒は飲むが、俺もタマダも前ほどは飲まなくなった。

 いつかの夏にライブを観た、アークティック・モンキーズは今でもよく聴いている。これからもきっと。


 もしも月の裏側で、アークティック・モンキーズをもう一度、あのときの気持ちで聴けたなら――

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月の裏側のダンスフロア ツル・ヒゲ雄 @pon_a_k_a_dm

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