22 できればそのままで

「別れよう」俺は言った。

 突然のことに、マグカップを持ち上げようとしたミサキの動きは静止した。マグカップは行き場を見失い、宙で弱々しく揺れた。

 無理もない。俺が就職に伴って大阪に引っ越すにあたり、大阪で一緒に見に行きたい場所や、ミサキがいつ遊びに来るかなんてことが、つい数十秒までの話題だった。

 ゴールデンウィークには京都の旅館に泊まりに行こう、なんて話をしていたのに、突然別れを切り出されたら、それはもう青天の霹靂という他ない。気の毒だが、知ったことではないと思った。

「別れよう」聞き分けが悪い子どもに言い聞かせるように、俺は繰り返した。

「いきなりなんで?」

「好きじゃないんだ」

 薄い壁の向こうから聞こえる、隣の部屋のがたぴしとした音がうるさかった。

 ミサキは唇を震わせた。「わたし、何かした?」

「そういうことじゃない」俺は平板に言った。「好きじゃないんだ。ミサキのことを。これ以上いきつく先がない」

「いつから?」呼吸のついでに疑問符を投げつけるように、ミサキは言った。

「きっと最初から」俺は組んでいた足を崩した。「最近気がついた」

「何それ……」ミサキの呼吸が浅くなっていくのを感じた。「納得できない」


 坂のふもとにあるアパートの一室は、重たい沈黙に包まれた。俺はミサキが自ら答えを出すのを待った。ミサキの目の端に涙が溜まり、昼下がりの黄色い陽光で煌めいた。

「荷物を持って、鍵を置いていって」

 数年にわたり半同棲のような生活を送ったからには、それなりに物が置いてあって、荷物をまとめるのには時間がかかった。

 ミサキは甲斐甲斐しく「捨てるものがあったら言ってね」とか、「こんなのが出てきたよ」などと言いながら、荷物をまとめるのを手伝ってくれた。

 ミサキは弱々しい笑顔をつくって言った。「わたしがいけなかったんだよね」

 俺はミサキのそんなところが嫌いだった。


 ミサキに鍵を返して荷物をまとめ、俺はアパートの玄関に立った。あっさりとした最後だった。何枚もの間抜けなツーショット写真が玄関に貼られているのが目についた。一枚残らず破り捨ててやりたかったが、思いとどまった。もしかすると、俺が部屋を出た後でやってくれるかもしれない。そうしてくれれば、思い残すことは、何もない。


 俺は大荷物を抱えて、そのままエリカの家に行くことにした。

 重厚なマンションの自動ドアを鍵で開けた。エレベーターで目的の階に上り――今となっては、何階だったのか思い出すことができない――、重たいステンレススティールのドアを開けてエリアの部屋に入った。

 エリカは奥の部屋にいて、革張りのソファに腰を掛けてファッション誌を読んでいた。

「どうしたの? 突然」エリカは少しだけ驚いたふうに目を見開いた。「てか、荷物多いね」

「鍵を返しにきた」

 エリカは俺の目を真っすぐに見た。それから雑誌を閉じて、ガラス製のローテーブルにそっと置いた。

「いいんだよ。別にそのまま持ってっても」

 俺は首を横に振った。「返していくよ。なくしたら悪いし。それに、エリカもいつまでここに住んでいるかわからないだろ?」

「それもたしかにそうね」

 差し出した鍵をエリカは受け取った。くすんだグレーのシックなネイルが照明に照らされて煌めいた。

「行っちゃうんだね」エリカはしみじみと言った。「こっちに来るときは、泊ってっていいからね。ただし、前もって連絡はして。男が来てたら困るから」

 エリカは細かいことにはこだわらず、あまり先のことを考えない。約束やルールのようなものを必要としていない。俺はエリカのそんなところが好きだった。

「ありがとう。エリカのそんなところが好きだ」

「酔っぱらってるの?」エリカは首を傾げた。「わたしも君の感じはわりと好き。できればそのままでいてほしいくらい」

「そのままでいられるかな? できるだけ」

 エリカは答えず、曖昧に微笑んだ。

「身体には気をつけてね」いつものように、エリカの華奢な手がひらりと蝶のように宙を舞った。

 最後に見た、くすんだグレーのネイルが目に焼き付いて離れなかった。

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