スラムⅢ
「骨は折れてなさそう……だね。良かった」
リベルたちはすぐにあの場を離れ、いつもの広場に移動した。モネが血で汚れたリベルの手を水ですすいで傷の具合を確認してくれている。
「まだリベルにはさ、人間の気持ちを考えてから発言しなさいって言ったところで難しいんだと思う。だからね、責め立てたりはしない。けど、なんであの人間が怒ったか、それは気になってはいる?」
リベルはただじっと、初めて皮膚の下を見ている。モネのハンカチがぼくの血で染まる。なんだか悪くは感じない。
「ちゃんと、聞きなさい」
針で刺すような声だ。さすがにリベルも我に返った。しかしモネの話を結局聞いていなかったために、応えることはできない。
「えっと、なんだっけ」
モネは憔悴しているらしい。
「リベルは、怒られた理由、知りたいとは思っているのかって聞いてるの。それで?どうなの」
言われてようやく思い返してみる。
「怒られたっていうのはわからないけど、知りたくはあるかもな」
悪びれる様子などはない。モネは深くため息を吐き、頭痛を抑えるようにこめかみに手を当てる。
「そ。だとして、なんでだと思う?」
「さぁ、知ったことじゃないよ」
あっけらかんとリベルは笑顔だ。わからないくせに、なんと白々しい。モネは苛立ちが抑えきれなくなったのか、声がより張り詰める。
「リベル。君のあの神美派に行くあたりに描いた壁画、覚えてる?」
「ああ。あれだろ、ぼくの未来を最初に飾る力作だ」
「なにを言ってるの?あれは君の絵じゃない。あれは君だけへの賛辞なんかじゃない」
「ぼくの絵だ。最初に描いてた冴えないやつはどっかに消えていった。紛れもなく、ぼくの絵だ」
「なんでわからないかな」
モネがリベルの右手をぎゅっと握り込む。今度は口が歪んだ。
「君は最初から、あの絵が描けると思う?君はね、ただ他人のステージで急に踊り出した迷惑な客。商売をやっている方からしたら堪ったものじゃない。得られた稼ぎを返還しろなんてことも言われるかもしれない。
それだけじゃない。
その人の培ってきたこと、培っていこうとしているもの、そういうのをすべて踏みにじる行為なんだよ。あれは。リベルはさ、自分が歩いた道の跡をそのままそっくり歩かれるのなんて嫌……なんでしょ」
モネは言いすぎてしまったと自責の念に駆られたらしく、口元をキュッと引き結んだ。だが、その目からは真実を言ってるらしく感じられる。リベルは思い描いてみる。
ぼくの足跡を、ぼくよりも大きな足、歩幅の奴が踏んでこちらに近づいてくる。ニコニコと笑顔でだ。そのくせ、ぼくの足跡よりも深く刻み込む。
腹の奥が熱くなる。止まった血もまた流れ出した。ギリギリと聞こえそうなほどに食いしばる。
「ふざけるな。これはぼくのだ。お前が立つな」
「冷静になりなさい。今、君の敵はここにはいない。ただの想像。それでどう?自分のやったことに気が付いた?」
「ああ、最悪だな。絶対に許せない。せめて歩くにしてもずらせと思う」
「引っ張られすぎ。もうそれはいいの。
……はぁ。あの人間はただね、自分の目指す〝美〟があった。けれど、それは神美派や体美派に迎え入れられるような代物ではなかった。頑張ってみたけど、同化・同調なんてできはしなかった。だから、スラムに来た。望んだことではなかった。これは全てにおいてそう。それでもまだ、自分の〝美〟を諦めきれないから、ギターの自作までして、ああやってずっと弾き続ける。納得がいくまで、ただずっと」
「やけに流暢だな。そんなことがモネにもあったのか」
モネは自分の意図が伝わっていないことがすぐにわかり、不愉快極まりない。風に揺れて鳴る木の葉のさえずりが、ただ今だけは夜に飲み込まんと迫ってくる波の音だ。
「ううん。少し考えればわかることだよ。リベルがまだまだなだけ」
「ああそうかよ」
リベルは折角きれいに巻いてくれたハンカチを乱暴に外し、広場の床にたたきつける。そのまま宿の方角へと脇目も振らずに歩いていってしまう。
モネはしっかりと見送る。そして見えなくなったくらいになると、黄色地に貨幣が金で刺繍されているお気に入りのハンカチをつまみ上げて、広場のごみ箱に捨てた。
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