第17話 シズオカ・シティブルース②
「静岡市警は農協に少し甘いからな。うちの負担にならないように気を使ってくれたんだろ。相手死んでないから問題も大きくないし」
過度な期待はできないが、この分なら明日の判決もそこまでひどいものにはならないだろう、と阿含は説明した。
「失明させてしまうほどの暴行だと、懲役何年くらいになるんですかね」
「今の日本に懲役はないぞ。少なくとも俺の知ってる範囲では」
リゼが湯飲みを持ったまま固まった。
「ええ? そうなんですか。じゃあ裁判で何を決めるんですか」
「決まってんじゃん。賠償金だよ」
阿含は右手の人差し指と親指をくっつけてお金のサインをした。
静岡や他の多くの県では、懲役刑は採用されていない。犯罪者を収監するコストをまかなえないからだ。そのため裁判では懲役ではなく、被害者に支払う賠償金を決定する。また、県にも『治安回復のため必要程度』という名目で賠償金と同額を納めなくてはならない。
「それって被害者の方が亡くなっている場合はどうなるんです?」
「遺族に払う。遺族がいない場合はそっち側は免除されて、県に払う金だけで済む。もし殺すなら独り身がおすすめだね。もっとも殺しの賠償金は十万ドルが相場だから、片側賠償だけでも相当きついけど」
「賠償金が支払えない場合はどうなるんですか」
「人権を剥奪されて県が所有している農園で強制労働。農奴ってやつだな。その辺の農家の何分の一とかの給与水準でこき使われる。県軍が警備してるからまず逃げられないし」
「農奴、ですか。今の日本ではそれが当たり前なんですね」
「それだよそれ」
阿含がリゼの湯呑を指差した。
「静岡県政府が所有する農園は半分以上が茶畑だ。安くて美味しい高品質の茶葉を作って、県内流通はもちろん他県や外国に輸出してるんだぜ。農奴様様だな、俺は絶対イヤだけど」
「人を殺して十万ドルくらいなら、頑張れば払える人も結構いると思いますけど」
阿含が湯呑をあおってお茶を飲んだ。
「十万十万で二十万ドルな。遺族がいればだけど。イギリスやエジプトじゃそう難しくないかもしれないけど、ここは日本だぜ。本人か親が金持ちの場合か、農協みたいにハイリスクな仕事か、それこそ海賊みたいにデカイ犯罪とか犯さない限りそうそう払える額じゃない」
「やむを得ず犯罪を犯してしまったとして、到底支払うことのできない賠償金が課されそう。でも農奴になるのも嫌って人は」
「街から逃げる。山梨県との県境は結構ボロボロだから、あのあたりの廃墟に住むか、山に入って盗賊の仲間にしてもらう。実際そういうお尋ね者は多いよ。悪さを繰り返すようなら農協に討伐依頼が入って俺らの出番」
リゼはおよそ阿含にはできない優雅な仕草で湯呑からお茶を飲んだ。
「宮崎さんの賠償金については農協が肩代わりするという話でしたけど」
「新人だし、そんなに貯金もないだろうからね」
「それで、その今日のお迎えと明日の裁判、私も同行したいんですが。日本の裁判風景なんて今まで誰も取材したことないですから。もちろんお邪魔にならないようにしますし、必要ならガイド料も……」
「確かに、街の中なら比較的安全だし、傍聴は関係者が申請すればできるし、裁判中にドンパチになったこともほぼない」
「それじゃあ」
阿含は首を振った。
「悪いね。今日も明日も連れていけない」
「そんな、どうして」
阿含は正面に座るリゼの顔をまともに覗き込んだ。
「宮崎はさ、今誰にも会いたくない気分だと思うんだよね。特に女には。自分の尊敬するパートナーの面子を潰して、組織に迷惑かけて。まあちょっと、合わす顔ないんじゃないかな」
「あ、そ、そうですね。私ったら自分の取材のことばかりで相手の方のことを何も考えていませんでした」
阿含は立ち上がった。
「それじゃあ俺はそろそろ行くよ。知ってると思うけど、夜になったら出歩かないほうがいい。昼とは少し違うから」
「はい。じゃあ、これをつけて下さい」
「え?」
リゼは斜めがけのバッグから黒い小さな箱を取り出した。箱を開けると透明の小さな薄いガラスが二つはいっていた。ガラスは少しだけ湾曲しており、まるでコンタクトレンズのようだった。
「はい、コンタクトレンズです。取材用に用意したもので、目にはめると録画が可能です。私のHBとデータ共有してますので、バックアップもバッチリです。それと、予備のレコーダーも渡しておきますね。すごいんですよこれ、マレーシア製なんですけど、大音量で再生してもほとんど音のゆらぎがないんです」
「あれ、俺の話聞いてた?」
「もちろんです。女性の顔を見たくない宮崎さんと、どうしても取材したい私との落とし所ってところですね」
リゼはニコニコと笑う。
阿含は何か言おうとしたが、結局言葉を飲み込んだ。
「……まあいっか。俺の報酬はその記事の売上からいくらかってことで」
「もちろんです。金額が確定したらお振込しますね」
阿含はコンタクトの箱を手にとった。
「ところでコンタクトってどうやってつけるんだ」
「慣れてないと難しいですからね。私がつけてあげますよ」
阿含はびっくりしてリゼの顔を見た。
「い、いや、大丈夫だよ。自分でつけられるって、多分」
「すぐ出発されるんでしょ。この場でできますから」
有無を言わさず阿含を椅子に座らせると、リゼはその横に立ち、箱からコンタクトを取り出してチョコレート色のスラリとした指に乗せた。
「ほら、動かないで下さい」
褐色の顔を阿含にぐいと近づけると、左手を阿含の頭に当てて固定し、ゆっくりと指を目に近づける。シャンプーか香水なのか、リゼの髪からは紅茶に似た匂いがした。彼女の切れ長の目が阿含の右目に映る。左目は褐色の指でほぼ見えない。
「よし。それじゃ反対側も……できました。どうです、ちょっと瞬きしてみて下さい。違和感とかありますか」
阿含は言われたとおりにした。
「ん、問題なさそうですね。このIOコンタクトは、厄災前に開発された日本の技術が使われているんですよ」
「そうなの?」
「ええ。コンタクト自体はアメリカ製ですが、日本特別措置法で日本の特許を使えるようにしたので」
リゼが珍しくボソボソと聞き取りづらい声で喋った。
厄災によって日本が崩壊したことは、世界的な大混乱を招いた。それを鎮めるために多くの国が日本特別措置法と呼ばれる包括的な法案を採択した。その一つが、日本の企業の持つ特許・著作権の停止である。
「昔は日本もすごい国だったんだな」
「はい……。それじゃ、コンタクト外すのはできますよね。箱を渡しておくので、そこにしまって下さい」
「あれ、つーことは明日裁判所に行く前に」
「ええ。またここに寄って下さい。私の方で入れちゃいますので」
リゼの顔はまだ目の前にある。阿含はできる限り胸を反って、横を見ながら分かったと返事をした。
「さてと、それじゃ行ってくるわ」
「お気をつけて。よい取材を期待してますよ」
「はっ」
阿含は笑ってホテルを出た。
時刻は夕方の五時。リゼのホテルが有る静岡駅から歩いて十分ほどの静岡農協、その真向かいにある静岡県警本部の建物が現在は静岡市警のビルとなっている。
警察の制服を着てショットガンをぶら下げた若い女が開きっぱなしの自動ドアの横で壁にもたれかかりながら、端末をいじっていた。帽子はかぶっておらず、スカートは膝上。正直なところ、コスプレにしか見えなかった。阿含が近づくと女は顔を上げた。
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