第29話 豹一郎の死
「先生。一緒に和泉の家で暮らしましょう。英世だけ連れて帰ったんじゃ、富美子に叱られますから」
直樹とアトリエを訪れたほぼ一ヶ月後の十一月二十三日の祭日。後藤田は親友と連れ立って再びアトリエを訪れた。今日はバイクではなく、タクシーに乗っての訪問だった。
先月二十九日に、富美子は十津川村から和泉へ引っ越して後藤田と暮らしていた。十津川からの途中、水尾に寄り英世とゆっくり話し合って、豹一郎と三人で和泉へ向かう予定だったが、
「いや、私はもうしばらくここにいるよ。大丈夫だよ。府警の諸君が非番を利用して、アトリエの周りに五人も立ってくれているんだから。ちょっとしたVIP気分だよ。それに、お前達も二人だけの時間を持ったほうがいいだろうし」
豹一郎が笑いながら富美子に辞退の言葉を述べると、
「僕もしばらくお祖父ちゃんと一緒に居たいな。お祖父ちゃんが心配だし、お母さんもお父さんと二人だけで、積もる話もあるだろうしさ」
英世も豹一郎に目配せして、母の申し出を断ったのだった。
「お義父さん。もう二人だけの時間は十分持ちましたから。本当にお願いします」
父と呼ぶのはさすがに照れくさいのか、後藤田は頭をかきかき豹一郎に頼み込んだ。左手はしっかりと英世の肩を抱いていた。
「先生。後藤田もこう言ってるんですから、一緒に四人で和泉へ行きましょう」
直樹も微笑みながら親友の援護射撃をする。和泉では、後藤田の親族や友人たちが集まっていて、簡単な披露宴が用意されていた。
「わがままを言わせてもらって悪いんだが、私はもう少しだけここに居させてもらうことにするよ。なに、大丈夫だ。府警幹部の義父を襲うような、そんな無謀な輩はいないだろうから」
今回も笑いながら、豹一郎は辞退したのだった。自分が和泉へ移るのは、英世が後藤田に懐(なつ)いて違和感なく日常を送れるようになってからでいいのだ。
それに難題がまだ残っていて、その解決をつける必要があった。残り三カ所かそれとも四カ所あるのかはっきりしないが、供出貴金属の埋蔵場所を探し当てねば、田池一派とアジヤ人の犯罪グループの危機が完全に去ったとは言い切れないのだ。
直樹から聞いて海野征大の存在も知ってしまった。海野は当初の意図通り、確実に谷山柾一を殺害するだろう。
後藤田もいつなんどき気が変わらんとも限らないのだ。ようやく手に入れた娘と孫の幸せを守るためにも、豹一郎はこれらの問題の解決を痛感していた。
「草野君。谷山が掘り当てた場所は、僕が何とか見つけ出すようにしよう。それまで、海野君の暴走を君が止めてくれないか」
タクシーに乗り込む直樹を呼び止め、豹一郎は耳打ちした。後藤田にはこの問題から距離を置かせたかったのだ。
「はい。分かりました」
直樹は素直に頷いて、師の言葉に従う。心理学者早川の表現を借りれば役割分担ということになるが、直樹は教授に言われるまでもなく、海野の懐柔には腐心してきた。いま現在も、彼が行動を起こさないのは、谷山の渡航記録の調査に手間取っているからだった。
谷山は賭博の味が忘れられないらしく、パインゴールド興産会長職に就いてからは、頻繁に海外へ出かけていた。社長の座は今年二十歳になった妻の連れ子一(はじめ)に譲って、いわゆる院政を敷き、業界の表舞台から一層遠ざかるようになってしまった。
「昔の癖が戻ったみたいで、博打(ばくち)をやり始めてますね」
海野の調べだけでも、出国先は香港、マカオ、ラスベガスやモナコにまで足を伸ばしていた。ただ国内での賭博はさすがに用心しているのか、少なくとも暴力団関係の賭場への出入りは、警察情報としては一度も上がってこなかった。
「な、征くん。これだけ頻繁に出国しているのだから、まだ殺人罪の時効は完成していない可能性があるだろう。殺人で起訴できさえすれば無期懲役刑が科され、谷山は現在の社会的地位も失うんだから、死をもたらす以上の苦痛だよ。だから出来る限り正確に出国記録を調べてくれないか。偽名で出国している可能性も含めてね」
後藤田が英世の父と知ってからは、海野の谷山殺害の焦りが一段と増し、直樹は会う度に説得を重ねてきた。時効の完成はほぼ間違いないとの認識はあったが、時効停止事由の追加は、海野の決行抑制に大きな効果があった。
山松を騙り彼名義の文書を作成していることから、直樹は私文書偽造罪での逮捕・起訴も考えたが、海野の賛同は得られなかった。殺人罪での起訴か殺害かの二者択一が海野の選択で、この点は決して譲ろうとしなかった。
海野による谷山殺害を阻止すべく、工夫を重ねる直樹であったが、野々口教授の谷山への接触はどのようになされたのであろうか。この点は、十二月十日に上京して、初めて谷山と対面することとなった。
九月二十三日に連絡があってから、直接の接触にこれほど時間がかかってしまったのは、豹一郎が体調を崩し上京に自信がなかったのと、谷山から埋蔵場所を聞きだす具体的手段の絞り込みが十分でなかったからだった。
「先生。山松種夫が十一日から二日間、当院で人間ドックを受診します」
村木賢造から連絡が入ったとき、豹一郎は具体的手段をようやく絞り込んだのだった。九月二十三日に緊急入院して以来、谷山は四ツ谷総合病院をよく利用するようになっていた。
この病院は、最先端の診断装置であるPET―CTを使ったガンの早期発見が注目を浴びており、これに引かれたことも一因だが、村木の心臓治療に対する腕と広い専門知識に谷山が高い信頼を置いたことが、二日間の人間ドック受診の最大の理由であった。
―――検査技師に紛れ込んで、催眠術を施用するのが一番無難だな。
村木と病院に迷惑をかけず、谷山からほしい情報を得るのはこれが最良だ、と豹一郎は判断したのだった。
十二月十日午前十一時四十三分。皇居に面した伝統ある古参ホテルにチェックインして、豹一郎は窓から堀に浮かぶ正面の皇居を眺めた。戦前戦後を通し、軍に翻弄される人生だったが、ようやく終止符が打てる。
そして今後、二度と皇居を見ることはないだろう。そんな、いずれが優劣とも決しがたい両面感情に囚われながら、豹一郎は皇居を見つめたのだった。
「これから脳PET―CTを使って脳の検査をしますから」
翌十一日の午後二時、検査技師を装って野々口は谷山柾一と対面した。あまりの高齢の検査技師に、谷山は一瞬怪訝顔を浮かべたが、
「会長の検査をさせて戴くんですから、当院も、医師資格を持つ最高の先生にお願いしたんです」
同席した村木の口添えに安心したのか、最新の装置説明に熱心に耳を傾けたのだった。
「若い頃、少々無茶をしましてね。工事現場で切断したんですわ」
左手の指の欠損を豹一郎が一瞥したとき、老検査技師の慣れ切った機械操作に感心した様子で、谷山は右手で頭を掻いて弁解を返した。少し肥満気味の好々爺(こうこうや)で、知らなければ凶悪犯罪を犯した人物とは思えない化けっぷりだった。
「それでは、横になってリラックスしてください」
自分よりかなり高齢の相手に安心したのか、谷山への催眠術施用は困難ではなかった。困難を極めたのは、記憶の薄れと地点特定表現の共通化であったが、豹一郎は頭の地図を参照しながら辛うじて克服した。
「掘り当てた場所の近くにあった池は、大野池か二ノ池かのどちらか分かりますか」
「いや、池の名前は分かりません」
「そうですか。では掘り当てた場所から池はいくつ見えましたか」
「はい。確か、三つか四つ並んでいたと思います」
旧陸軍の、訓練用塹壕(ざんごう)がいくつも掘られてあった二ノ池の西側丘陵。その塹壕の一つに供出貴金属の一部が埋められていたようである。
その地点から南に大谷池が望め、北へ二ノ池、元禄池、鶴田池と並んでいて、大野池はこれらから八百メートルほども南西に外れたところに位置していた。
「何故その場所を掘ったのですか」
この質問にはなかなか答えようとしなかったが、豹一郎の推測通り、死体を埋めるためであることが谷山の口から漏れたのだった。野下重次の死体遺棄場所を探しての行動であったのだろうが、豹一郎には興味はなく、二ノ池の堤を西に上がった小路に沿った二つ目の塹壕跡。この必要な知識を聞き出すと、豹一郎は検査室を離れ、外科部長室へ向かった。
「ありがとう、本当に助かったよ。賢造、このとおり恩に着るよ」
豹一郎は村木を幼い頃に呼んだ名前を告げて、彼の右手を両手で拝むように包んだ。
「先生、やめて下さい。もったいない。ぼくのほうこそ、命をいくら捧げても、捧げきれない御恩を受けているんですから。さあ、後は僕が処理しますから、一刻も早く、水尾へお帰りになって下さい」
村木に促され、豹一郎は病院ロビー前でタクシーの後部座席に滑り込むと、
「運転手さん。長距離で、おまけに急ぎで悪いんだけど、今から京都の嵐山へ行ってくれないか。嵐山からは、柚子の里水尾まで行ってもらうことになるんだ。不案内だったら、私が指示を出させてもらうから。―――それから、これは料金の足しにしてくれればいいので」
運転手に行き先を告げて、十万円を手渡そうとすると、
「いいえ、とんでもないです。村木先生から十分なお金はいただいていますし、行先も教えられていますので、ご心配はご無用になさってください」
村木とは余程強い信頼関係で結ばれているのか、五十過ぎの運転手は必要なことだけ豹一郎に告げると、自分の仕事に専念したのだった。
東名と名神(高速)は渋滞もなく、豹一郎は日付の変わった十二日の午前一時三十二分に水尾のアトリエに着くことが出来たのだった。途中、睡眠不足を補うためハルシオンを服用しようかとも思ったが、高ぶった気持ちが心地よかった。高揚した気分を睡眠で奪い去りたくなかったのだ。
―――富美子も英世も、ようやく幸せをつかむことが出来るのだ。
最愛の孫・英世が、直樹の息子と同じような生活が送れるかと思うと、豹一郎は感無量だった。
「有泉大佐は北斗七星をなぞって埋蔵地点を決めたというんだが、柄杓の器の部分、スプーンともいうが、これを構成する星がメグレズ・フェクダ・メラクそれにドゥーベの四星で、あと一つ柄の部分のアリオト、これは中国名を玉衝。この五つが埋蔵場所のコピーだろう。そしてね、今日未明に東京から帰って、地図と睨めっこして分かったことなんだが、夏の夜の北斗七星の配置を考えると、谷山が掘り出したのはアリオトに確定するんだよ。ほら、メグレズにしてもフェクダ、メラク、ドゥーベ、いずれを固定しても他の星の位置には池がからんで、埋蔵に従事した人の証言と齟齬が生まれるんだ」
翌日の十二日、直樹が呼ばれてアトリエに着くと、豹一郎はテーブル上の地図で確定場所を赤のマーカーで囲った。昨日から一睡もしていないようで、疲労の色が顔に現れていた。
五星がからむ場合の数は、単純に数学計算すれば百二十通りになるが、与えられた条件を加えるとかなり絞り込まれる。とは言うものの、発掘場所の確定は心身共に衰弱させるもので、九十に届いた豹一郎の場合は尚更であった。
実は財宝発掘場所には、もう一つ手がかりがあって、それは有泉大佐の実家のある城崎温泉町だった。彼が幼少期に遊んだ桃島池。この池のほとりの秘密の隠し場所に、埋蔵地点の地図が保管されている。大佐の日記を、ごく最近婚約者だった97歳の女性から託され、直樹は何度も桃島池を訪れて場所を探索してみたが、果たせずに終わっていたのだった。
「先生。ここまで調べられたんだったら、少しお休みになられたらどうでしょう。あとの四地点は、私が今日明日にでも信太山へ出かけ、確認してきますから」
直樹は、渋る豹一郎を中二階のベッドへ上らせた。師の年齢を考えると、英世にもう少しここに留まるよう提言すべきであったと後悔した。孫の言うことには驚くほど従順で、また英世の配慮も十六歳とは思えぬ濃(こま)やかさだった。
「今日は海野君は非番なので、私と入れ替えに海野君に来てもらいますから。先生は安心されて、ぐっすりお休み下さい」
スマホで海野を呼び出し、水尾へ来てくれるよう伝える。これほど早く東京から帰るとは思ってもみなかったのだ。昨夜から今日にかけ、後藤田の同僚のガードもなかったが、無事であったことは何よりであった。
「あ、それから草野君。君の論文〈行政裁量に対する司法統制〉、上りの新幹線車内で読ませてもらったが、良かったよ。僕の専門外だけど、格調高い立派な学術論文で、教授への第一関門突破だな」
「‥‥‥どうも、お忙しいのに」
以前渡してあった論文まで読んでくれたようで、直樹は恐縮してしまう。堺で生まれ、朝四時に起きて徒歩で大阪の北野高校へ通ったとよく聞かされた。強靭な足腰は徒歩での北野高校通学と無関係でないのであろうが、いずれにしても後進に対する配慮は見事なもので、また、反骨精神も特に旺盛と言えるものだった。
【海野君へ】
と書かれた封書の中身を海野が開くと、谷山は君の代わりにある者によって誅されるので、今後は後藤田君のように幸せな家庭を築くように、としたためてあった。言葉通り、谷山こと山松種夫はその後、一切の消息を断ち、人前に姿を現わすことはなかった。
「堺市の市有地を耳原病院へ売却するにあたっての不正。これに田池が関与していたのは僕の調査で判明したんだ。共産党が武闘路線を捨てる前までは、極左組織の田池一派とは同床異夢だったからね。当時、といっても既に六十年も前になるが、気心の通じ合った人物に聞いてみて、あらましは把握できたんだ。君の推察通り、嶋田は信太山中で金塊の一部を見つけたが、土中深く埋められるはずの、まさにおこぼれにすぎなかったらしい。それでも三十年ほど前の時価では四十億程度にはなったらしい。それを東西組に隠したまま、与太公がそれなりに成り上がったようなんだ。谷山ほどの財産は取得できなかったが、資産の威力だな。小ぶりの谷山が出来上がって、政令指定都市堺市で悪だくみをくり返してきたというわけなんだ。でも、この男はもう先がなく、自滅しかなくなっているよ」
嶋田の末路について豹一郎は苦笑いを浮かべていたが、覚悟を決めるようにゆっくりと息を吐き出すと、調査結果の説明を続けた。
「利にさとい嶋田は、耳原病院事件の不正の臭いをかぎ取って、以前から恩を売ってあった元市会議長の平田多加春を使って金にしようとしたんじゃないか。いずれにしても平田が死んでしまったので、何とも中途半端な結果になってしまったが、僕の調査過程で、田池をうまく利用できる状況が生まれたんだ。少々良心が痛まないでもなかったけど、後藤田君や海野君のことも考えると、そう綺麗ごとばかり言ってられないからね。ま、この点は、ベターな解決ではなかったかなと思っているんだ」
自分で納得するように何度もうなずくと、豹一郎は直樹に信太山の地図を手渡したのだった。
直樹が、豹一郎の記した図面上のポイントを確認するため信太山へ出かけると、それらはすべて頑丈な柵囲いの内部に位置するものだった。直樹が調べに行った四日後の深夜、信太山中に銃器の爆音が轟き、自衛隊の夜間演習かと遠くに住む住民たちを訝らせたが、夜間演習の事実はなかった。血痕が一部除去されずに残った地肌と共に、近隣住民の間で長く語り継がれる事実が、謎として残されることになった。
さて、野々口豹一郎は十二月十二日、彼を生涯の師と仰ぐ草野直樹に、
「おやすみ」
と伝え、文字通り眠りながら、妻・野々口マサの待つ世界へ旅立って行った。堺の現状を憂い、多感な時期を過ごした堺を生涯愛し続けた。
「織田信長にさえ楯突いた、自由都市よ。あのときの気骨はどこへ行ったのだ。堺を食い物にする、シラミやヤクザそれに彼らとつるむ職員や議員を排除し、自浄作用を果たせよ。自らの手で、膿を出し切ってもらいたい」
まるでそう語るかのように、枕元に堺の名工作の、使い慣れた手術用メスが置かれていた。
大阪府警も地検も、この点は同様であろう。汚点の隠蔽は府警及び地検を貶(おとし)めるだけで、決してためにならない。疑惑が叫ばれている以上、徹底調査し、不正があれば公にすべきである。
良識ある職員や市民に再度呼びかけ、野々口豹一郎を巡る事件はここにひとまず幕を引こうと思う。愛用の外科用メスが後日、六人の外科医の手に渡り、三組のカップルが生まれることを、付け加えて。
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