第6話 「うーん!マンダム」の新顔たち
春眠暁(あかつき)を覚えず、とはいにしえの民の、のどかな田園でのことであろうか。心にわだかまりを持つ今様の民―――遼は、ベッドに体を伸ばしても容易に眠りに就くことが出来ず、ようやく浅い眠りにまどろみかけた頃、エサをねだる小鳥たちのさえずりと窓からの薄日で目を覚ましてしまった。
「あーあ」
大きな欠伸(あくび)の後、目いっぱい両腕と両足を伸ばし、ベッドから出て雨戸を開けると、馴染みのメジロとシジュウカラ、それにスズメと新顔のセキセイがエサ台と中庭の植木を小ばたきで忙しなく往き来していた。
「おはよう。―――今日はちょっと早いぞ」
苦笑いを浮かべ、エサ台に、妹が用意したパン屑をまいてやる。頭の芯がキリキリと痛んで、体が重くぎこちないのは、睡眠不足のせいだけではなかった。
パジャマを脱ぎ、真新しい制服にゆっくりと袖を通す。〈清嵐〉と朱書き入りの新調カバンに筆記用具を入れ、階下へ下りると、
「お兄ちゃん、おはよう」
愛が廊下の奥の、ダイニングのドアを開けて迎えてくれる。大きな兄と食事をしたいのか、いつもより三十分も早起きだった。彼女も今日から幼稚園の年長組である。
「お兄ちゃん、何組?」
ハムトーストを頬張り、愛が卓付きチェアから得意顔を向けた。
「八組」
遼の答えは素っ気ない。朝刊に目を落としたまま顔も上げなかった。
「‥‥‥」
息子の返事に照子はギュッと唇を結んで、目を伏せた。一ランク落とし、不合格など夢想だにしなかったのに、落ちてしまったこの不条理。
照子は二人の会話に口をはさもうとして、結局、言葉をのんでしまった。今しゃべると、中学の担任への恨みつらみが口をつく。過去のしがらみから解放しなければ、息子の将来を暗くする。寝る前、夫に言われたし、自分も口にすまいと決めたのだ。
しかしそう思えば思うほど、担任の無思慮、卑しさが恨めしい。初めて味わう嫌悪・不信感から、照子はなかなか抜け出せそうになかった。
「わたしも今日、幼稚園へ行ったら何組か分かるのよ。お兄ちゃん」
「―――そうだったな。年中さんの先生のクラスだといいのにね、愛」
無邪気な妹に、遼はようやく笑顔を上げた。
「ううん、違う方がいい。わたし、あの先生嫌いだから」
「どうして?」
「えこひいきするから。それにわたしをすぐ立たせるの」
「ダメよ、愛ちゃん。そんなこと言っちゃ」
照子はあわてて娘をたしなめたが、憂うつな気分が倍加され、複雑な心境であった。
「ごちそうさま。‥‥‥それじゃ、行ってくるよ」
消沈した母に、遼も慰め口調だった。
「わたしもごちそうさま。行ってきまーす。お兄ちゃん待って!」
愛も兄の後を追って、急いでダイニングを出ようとするが、
「ダメよ、愛ちゃん。あなたはまだ早いんだから」
照子に抱き止められてしまった。
「残念だったな、愛」
妹に苦笑いを返し、遼は門を出てこれまでと反対方向にチャリを漕ぎ出す。三年間に培われた慣性の作用であろうか、下り坂なのにペダルを踏む足が妙に重かった。
―――この中に志望校へ入れた者は何人いるのだろう‥‥‥。
JR茨木駅のホームに立ち真新しい制服に目をやると、通うはずだった高校のバッジが目につく。未練を絶つ決意をしたが、複雑な気持ちだ。
―――ほんとうに、もう忘れねば。
混雑した車両の中で、遼は天井を見上げ苦笑いを浮かべた。
大阪駅で環状線に乗り換え鶴橋(駅)で降りると、歩いて十五分ほどで清嵐高校に着く。地下鉄谷町線だと三分の一の時間ですむが、歩きたくて、JR乗り継ぎ通学を選んだ。
第一志望校とは言いがたい青嵐高校ではあるが、学校に近付くにつれ、小・中入学時に感じた、あの、未知の世界に対する軽い気後れと期待が湧いてくる。
車道に面した広い通用門を抜け、狭い校庭に出ると、すでにかなりの生徒たちが集まっていた。正面のクラス札に沿い、身長順に整列していた。遼が列の最後尾につくべきかどうか迷っていると、
「何センチあんの?」
太った生徒が遼の顔をのぞき込んだ。遼と僅差で、目測では判定困難だった。
「一八二センチ」
一センチさばを読み、遼はつっけんどんに答えた。中学三年間で十一センチしか伸びなかったのが無愛想の理由だが、初めての集団にありがちな内部序列形成の駆け引きもすでに始まっていた。
そう、わずかな言動で、クラスメートを正確に値踏みするのだ。相手が自分より下であれば、こちらの態度でそのことを認識させねばならない。不遜にも、相手が遼を上回ると誤解していれば、誤りは身をもって理解させる必要がある。小・中と番を張ってきた遼の、統率哲学と言えるものだった。
「ほんなら、僕のほうが一センチ低いわ」
河西という生徒はいそいそと列を整え、対抗心など微塵もなかった。
〈ジジジジジー!〉
しばらくして正面の校舎壁際で、前世紀の遺物と疑う金属音が鳴り響いた。校庭を見下ろす壁時計の針は、八時四十分。始鈴のベルらしいが、生徒たちは皆、驚いてしまう。が、すぐドッと笑い声が巻き起こった。同伴の保護者たちもおかしさを隠せない様子で、笑顔をこぼしている。
「エー。これからあのベルの音が、皆さんに授業の始まりと終わりを伝えてくれますので、三年間なじんでください」
マイクを握って壇上に立ち上がった教師が、苦笑いを浮かべながら話し始める。かっぷくの良い、五十過ぎの温厚な笑顔は指導者の貫禄十分だった。胸の名札を見ると、広岡と書かれてあり、後に副校長と分かる。
遼の担任は西田という背の高い初老の教師だった。パサパサの髪をオールバックに逆立て、つり上がったメガネが面白い。八組の生徒は間もなく彼に、クロコというアダ名を進呈した。風貌がポール・ホーガンを彷彿させる渋味があり、クロコダイルダンディというイメージなのだ。
ガイダンスを分かりやすくかいつまみ、副校長が入学心得を語り終えると、生徒たちは担任に引率され各自の教室に向かう。遼のクラスは二階だった。
正面の階段前で靴を脱ぎ、家から持参するよう指示された靴袋に入れ、スリッパと履き替える。階段も廊下も凝った寄せ木作りで、ワックスでピカピカだった。
階段を上がってすぐ右手が一年九組。遼の八組は南隣だった。教卓と反対側の後ろの引き戸から、みな教室へ入る。
机が縦に六列並んでいた。遼は窓際の最後部に腰を下ろした。自分の席が決まっていないので、各自好きな場所を選んでいく。
遼の左隣りに座ったのは小柄な〈ニキビめがね〉。この表現がぴったりの、北川という黒ぶちトンボ眼鏡の生徒で、遼のことを知っていた。話しかけたくてうずうずしていたようで、
「電車に乗ってたらよー、ラグビーアメリカ代表AJ・マクギンティのジャパニーズバージョンみたいな男前が、俺と一緒の制服着て乗ってくるやんけ。びっくりしたで」
遼が座るとすぐ身を乗り出してきた。
「せやけど何とも言えんな。男ばっかりやんけ。亡くなってしもたけど、名優チャールズ・ブロンソンやったら、『うーん、マンダム!』のセリフを吐いて男の世界に浸るんやろけど、俺はやっぱり女がいてる方がエエわ」
河内弁なのか、北摂では聞き慣れない言葉遣いだが、嫌みのない北川の口調だった。性格も根アカで単純そのもの。自称、「シナントロプス・シンプルネンシスやねん、俺」と屈託なく笑った。
根アカ原人北川の洞窟(住所)は遼の乗る二駅前の近くで、遼と同じ公立高校を落ちたと、今度は根アカ原人に似合わず、苦虫を噛み潰す顔で吐き捨てた。
「エー、みな座ったかな―――。まだ座ってない者はいてないな」
クラスはノイズの渦だが、時折サイレントポケットが生まれ、三度目のポケットで、クロコティーチャーが遼の耳に割り込んできた。
〈三角形は宇宙の構成単位〉。著名物理学者の理論で、三という数字はマジカルなベーシックナンバーなのか。徳川幕府もわが国最大暴力団も、三代目で強固な屋台骨が確定した。サイレントポケットも三番目が最大で、クラスメートは皆、クロコティーチャーに吸いつけられてしまう。
「ほなら一人ずつ、自己紹介してもらおうかな」
クロちゃんは、自分はミシシッピー原産ならぬ京都生まれで、寺の住職兼務と紹介してから、出席簿順に生徒を立たせ簡単な自己紹介を求める。四十年近く教師をしていると新入生の扱いも慣れたもので、合の手を入れ、緊張気味の生徒たちをなごませていく。
「草野君は有名やさかい知ってる人も多いと思うけど、あのサッカーの強い、高槻山手中サッカー部のキャプテンやったんや。うちのサッカー部の顧問の先生がえらい喜んでくれてな、職員室で顔を合わすたびにサッカー部に入るよう勧めてくれ言われて、困ってんねん。よろしう頼むわ」
遼の番が来ると、頼みもしないのにクロちゃんが紹介してしまう。サッカー部員だった者も何人かいるようで、彼らの周りでささやきが起こる。
「知ってる者もいてると思うけど、草野君はうちの推薦受けられたのに、一般入試に受かって入ってくれたんや。他校の推薦も全部蹴ってな」
メガネの目が可笑しいほど八の字に下がり、クロちゃんが付け足す。
「へぇー!」
驚嘆の溜め息が湧き起こるが、驚嘆の中身は賞賛か、はたまた変人扱いか、まったく不明であった。
生徒たちの自己紹介の限りでは、クラスに腕力で遼に勝る者はいなかった。浜田という生徒が柔道二段で、背筋力二五〇と得意げに語ったが、見るからに敏捷性を欠き、背も低くライバルと目されなかった。
自己紹介が済むと、クロちゃんは明日からの学習準備や心構えに移った。
「この八組は理数科の中でも、十組・六組・四組と並ぶ特進(特別進学)クラスの一つで、十組の次のクラスやさかい、しっかり勉強してエエ大学に入ってや」
学習の心構えで、クロちゃんは当クラスの特殊性を強調する。
「エエ大学って、一体どんな大学なのよ?」
沢中千鶴なら、一言口を挟まずにいられない場面だが、クラスは問わずもがなの顔でシーンと埋まり、クロちゃんの話術にはまってしまった。生徒にエリート意識を植え付け、勉学に集中させる意図、的中であった。
特進クラスは入試の得点順に、四クラスに区分けして作ったもので、選抜された生徒たちを競わせ、進学率の向上につなげようとの苦肉の策がうかがえた。公立不合格の自分が学内二位クラス。遼は少しこそばゆかったが、クラスメート同様、悪い気はしなかった。
この日は始業式で授業もなく、クロちゃんの話が終わると「起立・礼」で終鈴を迎えた。号令の役を振られたのは四三酸化鉄も真っ青の、真っ黒光りする愛嬌満点スマイルの天田だった。自称〈スノーマン〉。競技スキーヤーで、清嵐高校スキー部の超新星が仰せつかった。出席簿が第一順位、これが指名理由で、学級委員任命理由であった。
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