第7話 S 資金の行方

豹一郎のメモには財宝の在処(ありか)は記されておらず、当人も調査途上であることが記載されていた。が、核心に至る絞り込みがなされているのは他の膨大なメモ書きの随所に書かれていて、早川と発見したメモの行間からも滲(にじ)み出ていた。


医学書に挟まれたメモの意図につき早川は深読みするが、直樹は単なる覚え書きであると信じて疑わなかった。豹一郎と親しく接してきた直樹には、思い付いた事項をメモに書き込み蔵書に挟む豹一郎の癖を知悉していたからで、医学書のメモもそれらの一つに過ぎなかった。

 

もう一つ、直樹が早川と見解を異にするのは、〈S資金〉のSの意味である。早川はシークレットの頭文字〈S〉であるとの考えだが、豹一郎の命名パターンを知る身には、そんな単純なものではなく、財宝との具体的つながりを示唆する意味を持たせたものと思われてならなかった。

 

百年史の編纂委員に選ばれ、自由に豹一郎の研究室へ入れるようになると、直樹は他のメモも容易に手に入れることが出来た。医学書に挟まれたメモ以外に、他に三十六編のメモを直樹は古武術書の間から取得していた。


詳細なメモを熟読すると、豹一郎は身を隠しつつ、九十を過ぎたというのに、彼独自の探索を続けていた。極限まで崩された豹一郎の文字は、一般人には判読困難であったが、直樹には全くと言ってよいほど苦労はなかった。東洋古武術研究会で幾度も豹一郎の文字に接してきたし、体系書の作成を手伝ったこともあったからだ。

 

―――はて、このこだわりは‥‥‥。

 

ぎっしりと書き込んだメモ書きに、小さな数字が三度も出てくるのだ。Sの後に20と8の算用数字。恐らく昭和二十年八月、ということであろう。


すると、後の数字は日の表示ということになる。

 

―――何と! ‥‥‥。

 

広島に原子爆弾が投下された、その二日後の日付がメモの本文と欄外に顔を出すのだ。しかも日付は矢印で、当時軍港のあった呉からの運搬船につながっていた。


情報公開法制定との絡みで出てきた事実なのか不明だが、豹一郎はこの運搬船に強い関心を寄せていた。何度も呉へ足を運び、関係者や彼らの遺族に会っていることが克明に記されているのだ。

 

―――大阪に着いているのか。

 

軍関係者の遺族の一人が、原爆投下の二日後、祖父が呉から出港したと証言していた。そして運搬船の到着港が大阪府中部にある大津港(泉大津港)であった。江戸時代には和泉木綿の積出港として栄えた港に、終戦のどさくさの中、混乱に紛れて入港していた。

 

―――もし、この運搬船に財宝が積まれていたとしたら。

 

大津港で下ろされ、それから何処へ運ばれたのか。それが分かればS資金の在り処が分かるのだ。

 

ゴールデンウィークのさなかの五月三日、直樹は早朝から富田林で、七編のメモ書きと首っ引きで思考を巡らしていた。


大手都銀の高槻支店長を辞めて金剛山の登山口・富田林で始めた学習塾と空手道場だったが、銀行勤めをしていれば祭日でもこんな時間の余裕はもちろんなかった。


塾と空手道場のオーナー、といえば聞こえはよいが、塾講師から空手道場主までを一人でこなす個人商店で、その気になれば結構時間はひねり出せる職場環境だったのだ。特に塾は中学生だけで、空手道場というか東洋古武術練習が主といってよい道場経営だった。

 

―――さて、大津港から何処へ運ばれたのか‥‥‥。

 

これから先は、野々口豹一郎も推測を働かせ、ある地点にたどり着いたのであろう。


広島に原爆が投下され次は長崎、そして直後の無条件降伏。この終戦間際の緊迫下で、何処が一番安全な隠し場所であったのか。


兵士には財宝であることを知らせず、一般物資か武器と信じ込ませて運搬に従事させねばならなかった。

 

―――多分。

 

大阪港へ運ばれていたのであれば、考えうる埋蔵場所は十数カ所にも及ぶが、大津港であれば有力候補地は一、二、もっと言えばたった一つに絞られるのだ。


だだっ広い四十畳の板敷き道場兼受験塾の教卓前に、直樹は大阪府中南部の地図を広げ、自分が最有力と考える場所に目を凝らした。

 

―――矢張り、ここしかないな‥‥‥。

 

何度考えても、豹一郎がメモ書きで指摘する場所に落ち着いてしまうのだ。呉からの運搬船出港が判明する以前から、豹一郎はこの場所に注目していたらしく、廃業して三十年余りになる温泉旅館に度々宿泊していた。

 

―――三十年以上前から、兵舎のあった山田近辺に絞り込んでいたのか。

 

JR阪和線鳳駅からタクシーで十分余りの山田が、鍵を握る地名であるらしい。四十年以上前の、昭和五十年の投宿記録がメモに残されていて、山田温泉に泊まり、旧陸軍の兵舎跡地や信太山を探索した記述が書き込まれていた。

 

―――行ってみるか‥‥‥。

 

正面の掛け時計に目をやると、十一時二十三分だった。山田兵舎跡には昭和三十年代から堺市の市営住宅が建てられていて、兵舎は跡形もなくなっているが、現地を訪れて地区の概略を脳にインプットしておく必要があった。

 

なお、本書を書き始める当初は、堺市ではなく、〈さいか市〉という架空の政令指定都市を舞台に設定し、堺の隣に形状も全く同じの、双生児のような政令指定都市を作って、そこに〈政令指定都市の恥部〉を移植し、如何に不可解極まりない行政実態が形作られているかを記述しようと考えた。


知る権利の一つの発現として、と大上段に構えてしまうと見映えは良いが、読まれる方も、また書く方も大層で肩が凝る。なので、古来よりのペンによるささやかな抵抗の真似事で、為政者の好きな〈民は知らしむべからず、依らしむべし〉へのアリの一噛みとの意図で、メスがえぐる不可解極まりないフィクションも読者とともに味わってみたいと考え、勿論、息子正五郎への追悼の思いを込めたのは言うまでもないが、本書を書き始めたのだ。


しかし名誉毀損のトラブル回避という、そんな小技を使うのも、面倒に思えて、結局、堺市をそのものズバリで押し出すことにした。読者の皆さんには分かり易いし、公的地位に就きまた就いていた人たちや犯罪行為にかかわった者たちに関係する記述なので、名誉棄損による攻撃にも耐えうるであろうし、提訴があればもちろん応訴するについてやぶさかではないからである。


この点は、拙著〈耳原病院が謝罪し、一千万を支払った理由〉の出版に際しても、同様のことが問題になり、いくつかの出版社は尻込みをしたが、提訴があれば私が弁護士費用を含む裁判費用を負担し、万が一、敗訴するようなことがあっても被る不利益は当方がすべて負担するとの確約を入れ、出版にこぎつけた経緯があり、今回もこの覚悟を持って本書を書き進めていくことを、書きながら急に決断した次第である。


なおフィクションではあっても、限りなく事実に近い、というか事実そのものの描写が至る所に顔を出すことから、登場人物名も若干の変更を加えたが、すぐに実在の人物が特定されるような名称に書き換えた。もっとも、書き換えを失念する記述が出てきたような場合は御容赦願いたいと思う。

 

さて、山田兵舎跡へ向かう直樹に話を戻すと、地図とメモをカーフのショルダーに詰め込み、直樹は塾兼道場を出て階下の駐車場へ下りた。二百坪ほどのモータープールを囲むようにビルが建っていて、ともに高木秀夫がオーナーだった。


高槻にも高木は同様のモータープールを所有していて、その取引銀行が直樹の支店だった。銀行支店長という職務柄、顧客の節税に尽力したが、それが余程気に入られたのか、高木は直樹のおかげで脱税摘発を免れたと公言してはばからなかった。


「あ、先生。お出かけですか」

 

ホンダCBX、まさに別名の〈モンスター〉と呼ばれる大型バイクに股がり出ようとすると、モータープール入り口で高木が愛想よく見送る。すでに七十を越えて、頭髪は縮れた揉み上げと耳の後ろに僅か残るだけだが、肌の色つやの良い根っからの商売人である。支店長から先生への呼び名の変更も屈託なく、呼ばれるこちらに違和感が湧いてぎこちない返答を返してしまうほどであった。


「夕方には戻りますので」

 

高木に断り、直樹はモータープール前の府道を左に折れて近鉄富田林駅前へ出る。かつての城下町の表玄関、というには余りに小振りな駅で、玄関機能は道路事情の良い駅の北側に移りつつあるといって過言でなかった。

 

初夏の風を切り、駅南二番踏切を渡るとモンスターは幹線道路・外環(外環状線)へ出て、金剛団地そして泉北ニュータウンを通り抜け目的地・福泉団地前に着く。二十キロ余りの行程で、所要時間は僅か三十分だった。


団地のある山田は信太山古墳郡の北東に位置するが、信太山へ入る小路は車止めが設置され、バイクの進入は不可能だった。

 

―――少し歩いてみるか。

 

完成して入居が始まった一棟の高層住宅前にモンスターを止め、団地内をゆっくりと信太山に向け歩き出す。祭日のため、工事用ダンプの動きもなく、解体を待つ平屋住宅郡はひっそりとした佇まいであった。


二棟の四階建住宅を右手に、直樹は西に向け坂を下る。車止めを跨ぎ池の堤を五十メートルばかり進むと、目の前に防衛省管理の国有地が広がっている。

 

―――野々口教授の指摘通りだな‥‥‥。

 

直樹が立つ池のほとりから、二百メートル西に射撃演習場が位置する。地図では確認できたが、欝蒼と広葉樹の木立ちに覆われ、存在が隠れていた。


池の堤は雑草が茂り、釣り人以外、歩いた形跡がなかった。豹一郎も何度かこの地に立ったらしく、彼の指摘によれば、三十年近く前から国有地への立入りが困難になったとのことだった。


【S資金との関係→①生コン(生コンクリート)会社社長・嶋田宏信②第三十七普通科連帯所属の、元曹長(一等陸曹)加納康之】

 

通称〈二ノ池〉と呼ばれる池の堤を南へ歩きながら、直樹は豹一郎のメモに顔を出す二人の人物に思いを馳せた。財宝の在り処を知る重要人物。直感が知らせるが、具体的つながりは曖昧模糊であった。

 

―――戻って、走行可能地帯をモンスターで走ってみるか。

 

池の南端まで歩くと、その先は産廃(産業廃棄物)の不法投棄場で、何とも風情がない。直樹は顔をしかめ、もと来た小路を戻ってモンスターに股がったのだった。

 

信太山古墳群と呼ばれるなだらかな丘陵は、民有地と道路以外、鉄柵が巡らされ、射撃演習場南部地域は警戒が特に厳しかった。立入禁止看板が張られ、双眼鏡も使用禁止だった。


豹一郎のメモが語るところによれば、三十年ほど前まで、射撃演習場のエリア以外、民間人も立入り可能だったのに、一つの事件を機に柵囲いがなされ警戒が厳しくなった。

 

―――ここから三百メートルほど行った池の北西部分だな‥‥‥。

 

信太山を南北に貫く道路上に愛車を止め、鞄から地図とメモを取り出す。いずみ霊苑への旧入り口前の、道路対向側には柵囲いとともに立入り禁止板が張られ、双眼鏡で見ることを禁ずるХ(ばつ)マークが朱塗られていた。


この厳重な監視体制が敷かれた直接の原因は、野々口豹一郎の推理によると、信太山駐屯地駐在部隊・第三十七普通科連帯所属の、元曹長・加納康之の死亡事件であった。JR阪和線・和泉府中駅前のスナック〈ベラミ〉で、地元暴力団員との喧嘩で加納が口走った、


「田舎暴力団の、ケチな幹部がなんぼのもんじゃい! 俺には使いきれんほどの財宝があるんやぞ! 岸和田の暴力団やな、あっという間に潰したる!」

 

引用された詳細な新聞記事に豹一郎は注目していた。コケにされカッと逆上したあげく、暴力団員は刃渡り十八センチのドスで加納の胸を刺し、傷害致死罪で逮捕起訴されたという、地方版の小さな記事。これが、メモ書きの一つにクリップで挟まれていたのだ。


財宝は五つに分けて埋められたということなので、その五分の一を加納が取得。豹一郎の推測で、あと一人、財宝を掘り当てた人物として教授がマークするのが、堺市の南部で生コン会社を営む嶋田宏信であった。

 

―――まず、嶋田をつついてみるか。

 

死亡した加納の調べは、嶋田の調査の後でよかった。背後に防衛省OBがからむ加納より、暴力団関係者の方が扱い易いのは、調査効率上、自明の理であった。というのは、もし加納がらみの調査になれば、そもそも自衛隊の基地をなぜ信太山に置いたかにまで調べが及ぶ必要があり、基地設置と財宝との有力関連を裏付ける見解まで調査対象に挙がって来て、収拾がつかなくなるほど広がってしまう恐れがあるのだ。


関連する穿った見解の中には、ゲリラ戦の訓練と称し今も山中の掘り起こしが頻繁に行われているのは、その証左であるとの情報まで囁かれていて、これは、豹一郎のメモ書きにも、注書きとして書かれてあった。


以上のようなわけで、直樹はS資金に直結する人物として、まずターゲットを政令指定都市・堺市の南部で生コン業を営む、嶋田宏信に絞ったのだった。

 

日記帳の欄外に今後の大雑把な予定を書き込むと、直樹はモンスターを南へ五百メートルほど走らせて、道路沿いの〈ガジュマル〉という喫茶店へ立ち寄った。信太山への調査に来るたび、野々口教授が訪れる喫茶店で、静かな二階の店内からの眺望が秀逸で、心落ち着く喫茶店であると、彼には珍しくメモ書きに誉め言葉が並べられてあった。 

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