第22話 万葉ライドと医学乙女

「ねぇ、遼クン。コーヒーを飲む時間も、本当にないの?」

 バイクから降りて、あきらめ切れずに、保津水がもう一度誘ってみる。

「うん。三時に楠田と富田林で待ち合わせてるから」

 学校行事で短縮授業の今日、遼は日曜を含む二泊三日の古探(古寺探訪)ツーリングを組み込んでいて、明日香村へバイクデビューを果たす計画だった。午後の授業を早退し、楠田も帰宅途上であろう。遼と親しく付き合い出して、楠田は勉強一辺倒ライフを放擲(ほうてき)してしまった。オープン政策と称し、遼から空手を学び、バイクも一緒に楽しむようになった。

「気分転換には打って付けやな。趣味の寺回りに使ったら、時間の節約になって、その分、勉強時間も増えるし」

 バイクの効用と利便に気づくと、楠田は原チャの免許を取った。前後して、遼からゼロ半ベンリイが進呈されたのだった。

「やっぱり四サイクルはエエなあ。なんちゅう芸術的なエンジン音や。それになんちゅう乗りやすさや! ゼロ半初の五速ギア装着車は、やっぱり最高やなあ。これに乗ってると、姉ちゃんのミニバイクなんかアホらして乗られへんな」

 アップハンドルの超年代物バイクに、楠田はたちまち惚れ込んでしまった。


「それじゃあ」

 門の前で保津水に別れを告げて、遼は通い慣れた山道を急ぐ。すでに山中は秋の気配が濃厚に漂い、木々はカラフルに色づいて、肌に触れる空気も日々、清澄を増していた。

 春の山道を駆ける機会は与えられなかったので、その匂いをかぐことは出来なかったが、甘さを含んだ躍動の匂いがすると思う。

 秋の匂いは、まさにいま、かいでいる。涼やかで透明な香りだ。頭の芯まで冴えてくる。もし、秋本保津水と春に出会っていれば、自分はあらがう術もなく彼女の虜(とりこ)になってしまっただろう。狂おしいほどの甘い薫りに包まれて、甘美な世界に身を委ねたのは目に見えていた。

 ところが幸か不幸か、遼は彼女と秋に出会った。この季節も影響していると思う。甘い誘惑に辛うじて耐えているのは。

 ―――だが、この前は危なかった‥‥‥。

 本当に危なかった。もう少しで行き着くところまで行ってしまっただろう。今も保津水の白い豊かな乳房と胸のほくろを思い出すと、遼は体が熱く震える。

 ―――鎮まれ! 鎮まれ!

 呪文を唱えるように、遼は欲望を鎮めていく。ドリームで山中を駆けているときは、いつもこんな有り様であった。

 定刻より少し遅れ、遼が待ち合わせ場所の近鉄富田林駅前に着くと、

「おーい! 草野。ここや、ここや」

 楠田は愛車ゼロ半のシートに腰をおろし、パンをかじっていた。ドリームを彼の隣に横付けすると、

「これ食べや」

 遼にジャムパンを差し出す。

「おっちゃんとこの塾はこの近くか?」

「うん」

 学習塾と空手道場は、ここから徒歩三分の距離だった。

「ちょっと寄っていくか?」

「いや、時間がないから」

 遼もパンをかじりながら、首を振って苦笑いを返した。竹内峠を越えて、当麻(たいま)町の史跡を巡ってから今夜の宿・明日香村到着予定なのだ。父のところへ顔を出す余裕などなかったし、神仏とおよそ無縁の人物に会ったりすると、御仏や史跡の有り難みが大幅に減殺(げんさい)されてしまうのだ。

 二人が大阪府と奈良県境にある竹内峠へ着いたのは三時三十七分。いにしえの人々が息をあげ、一歩一歩、苦労しながら登った峠も、いまは舗装されて昔の面影を残していなかった。バイクにもたれて北に望む二上山を仰いでいると、この山を〈ふたがみやま〉と詠んだ大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌―――現身の人なる吾や明日よりは二上山を弟背と吾がみむ―――が浮かんでくる。謀反の疑いをかけられ、二十四の若さで磐余(いわれ)の池で死罪を受けた弟・大津皇子の悲しい運命を詠んだ歌で、姉の悲哀がほとばしり無念が迫ってくる。

 ―――野々口は無事なんだろうか。

 遼の頭の片隅にいつも残る懸念で、早世の不運な英雄を想う姉の歌が、野々口英世を呼び覚ましたのだった。過酷な運命下にあっても、闘う意思は決して失っていなかった。隠そうとしても、長髪の下の瞳が挑むような光を放っていた。恐らく、祖父野々口豹一郎が心の支えなのだろう。S資金解明に自分が役立つなら支援を惜しまないのだが、手に負えない難題であるのは百も承知で、

「お父さんに任せとき。おっちゃんや遼ちゃんには、どうにもならん事件や」

 早川が言うように、正に父の領域であった。遼は気を取り直すと再び二上山を見上げ、万葉の貴人の数奇な運命に思いを馳せたのだった。

 ―――処刑された弟を想う、斎宮(いつきのみや)としての姉‥‥‥か。

 人間の運命なんて、当時もいまも同じで、本当に分からないものだ。万葉の貴人には較ぶべくもないが、遼は翻ってわが身をかえりみると驚きを禁じ得ない。わずか三カ月前までは大阪の都心にある高校へ通っていた。それが今では、入学時、思いもよらなかった高校の生徒なのだ。いったい、誰が予測し得たであろう。

 生き方も随分変わった。二上山を見て大伯皇女の歌がすらすら頭に浮かぶなどは、半年前の自分からは想像も出来なかった。学問というと恐れ多いが、受験勉強を通じて〈学問の淋しさに堪へ炭をつぐ〉という山口誓子の心境も少しは分かるようになった。これからの人生がどう展開するのか、まだ確かなことは言えないが、おぼろげながら方向性が定まったように思う。両親に負うところが多大だが、彼ら以外では負うべき三人の人物が思い浮かぶ。可奈子は別格であるとして、マドンナ、保津水、そして楠田だった。マドンナは遼に夢を与えてくれた。彼女に出会わなければ、嵯峨野北高校への転校はなかっただろう。

 保津水は、狂おしい悩みと日々の喜びを与えてくれる。彼女の存在は遼にとって、まさに青春の現実であった。そして楠田は、勉学の厳しさと友情の何たるかを教えてくれた。付き合えば付き合うほど、楠田とは強い友情の絆で結ばれていく。まったく違った方向を向いていた二人だったが、一緒に歩ける広い道を創っていこう。互いにそんな心境だった。

 この世に絶対のものなど有りはしないと、父は笑いながら言う。確かにそうだろう。しかし、もしそれに近いものを感じるとしたら、両親の愛と楠田の友情だ。彼らは決して自分を裏切らない。遼は確信していた。

 そしてもう一つ、遼には確信できるものがあった。が、素直には受容できなかった。余りに激しすぎて、受け入れると今後の行動が大きく制約されてしまうのだ。遼は保津水の愛を確信しながら、いつもその強さにたじろぐのだった。

「保津水か‥‥‥」

 ドリームにもたれながら、保津水の顔を思い浮かべポツリとつぶやくと、その声で万葉集を読んでいた楠田が顔を上げた。平面顔に大きな笑顔がよく似合う。

「草野。やっぱり万葉はええなあ。素朴で飾らんとこが好きや。万葉読んでたら、新古今なんか軽すぎて読む気もせんわ」

 選者の藤原定家や家隆らが聞けば目をむきそうなことを平気でのたまう。遼は苦笑しながら楠田の比較論を聞いていたが、ちょうど切りの良いところで、

「そろそろ行くか」

 眼下に広がる奈良盆地を指さし、楠田に出発を促したのだった。

 ギアをニュートラルにしたままゆっくりと竹内峠を下って、二人は当麻町へ下りて行く。左へ大きくカーブする国道を外れ、遼は町内を走る細い道を選んで進む。いにしえの昔から人々の生活を支えてきた古道は、先人たちの生活ぶりを偲ばせてくれる。通りの辻々や家の軒先にまでそこはかとなく素朴な風情が漂う。

 坂が終わりに近づいたので、遼がギアをサードに入れて少し走ると、

「おーい!」

 楠田に後ろから呼び止められてしまった。

「うん?」

 ブレーキペダルを踏んで、遼が振り向くと、

「草野、チェーンが外れてしもた」

 ゼロ半ベンリイから降りて、遼のところへ押してくる。

「いいよ、そこで待っていれば」

 遼も方向転換して少し戻ると、ちょうど二人が出会った横に空き地があった。道を隔てた民家の所有地だろうが、奥に八朔らしき木が数本植わっているだけで、道に面した手前の部分が空いていた。ベンリイを空き地へ運び込んで、外れたチェーンを後輪ギアに噛ませようとするが、手持ちの細いドライバーには荷が重かった。

「ペンチが要るな」

 二人が渋い顔をしていると、

「どうしたんですか?」

 大谷石の石垣で囲まれた向かいの家の玄関戸が開いて、色白の可愛い女の子が顔を出した。

「チェーンが外れてしもて。ペンチ貸してもらえると助かるんやけど」

 楠田がメットを脱ぐと、

「あれっ! 楠田さんと違います?!」

 女の子は楠田の顔を見て驚いている。

「何で俺、いや僕の名前知ってんの?」

「私、附属中の三年です」

 奇遇とはこのことで、彼女は楠田の後輩であったのだ。中三の去年、生徒会長の役回りで、校内では知る人ぞ知る有名人が楠田であった。

「どうぞ、入ってください」

 兼業農家と一目で分かる家屋へ二人を招き入れると、

「森本靖子です」

 女の子は広い土間の前で、少しはにかみながら二人に自分を紹介した。

「あ、そやそや、僕の親友の草野遼君や」

 遼の紹介を忘れてしまって、楠田は苦笑いを浮かべ頭をかいた。

 森本家の家族は親類の法事に出かけて不在とのことで、靖子は来客に備え、玄関横の応接間で勉強していた。テーブルの上には数学の問題集と計算用紙が載っていて、解答の途中だった。

「数学は苦手だから。特に証明問題はまったくお手上げ。朝からまだ一題も解けてないのよ。大学は医学部が志望なのに、これじゃあ先が思いやられるわ」

 テーブルに視線を注ぐ二人に、靖子は弁解交じりに肩をすぼめた。

「ほな、俺がチェーンを入れてる間、草野に教えてもらっときや。彼、数学得意やさかい」

 本人の意思も確認せずに請け合うと、楠田はペンチを持って愛車ゼロ半のところへ行ってしまった。

「お願いします」

 靖子に頭を下げられ、遼は嫌と言えずに苦笑しながら応接間のテーブルについた。彼女が解けないという問題はいずれも難問で、一年前の遼であれば手も足も出なかったろう。しかし今の遼には、中学の難問など笑止千万、とまでは行かないが、片腹痛いものだった。

「証明というのはね、仮定にアルファを加えて、結論を導く論理操作と思えば分かり易い」

 遼は靖子に、まず、証明の定義ともいうべきものを述べる。

「仮定は問題文に与えられている。この問題だったら、―――ほら、これとこれだ。次に、加えるアルファというのは、たいてい定理がくる。この問題の場合は、平行四辺形の対角線は互いに他を二等分する、という定理を加えるんだ。そして、以上より、これ、という結論に持っていけば証明は終了」

 具体的な論理過程を紙に書いてやると、靖子はさすがに呑み込みが早く、ふむふむと真剣な顔でうなずいている。靖子に説明しながら、遼はここ半年ばかりの自分の大きな変化は、勉学に対する態度が原因であろう、と気づく。以前は受け身だった。いつも、させられているという意識を持って、勉強していた。ところが転校を決意してからは、勉学に対して能動的になった。しなければならないという義務感は当然あるが、自分の決めた目的のためだから、させられているという感覚ではなかった。

 ―――目的を持って生きる。

 そして、その目的は近いものであればあるほど、日々の生活の充実度が増す。このことを、遼は転校の決意から学んだ。もし転校を決意しなければ、三年先の大学受験という、遠い漠然とした目的ゆえに、おそらく安穏で快楽的な日々を送っていただろう

 ―――紙一重だな‥‥‥。

 紙一重のほんの僅かな差が、同じ高校を落ちた遼と北川の、大きな差を導いていた。靖子に数学を教えていると、バイクを乗り回し回復不能なまでに成績の落ちた北川が、何故か急に遼の脳裏に割り込んできたのだった。

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