第23話 交わった三本の矢
危機意識に駆られての引越し強行がたたったのか、野々口豹一郎は水尾へ移った三日目から寝込んでしまった。学友で無二の親友と呼ぶべき山中正(ただし)が、水尾で農業を営み柚子栽培に従事していた。彼の生前にはよく水尾を訪れ、正の長男・正雄とも親交があったので、この地を最後の隠れ家として選んだ。
「英世。水尾へ行こう。お祖父ちゃんの親友の家に匿(かくま)ってもらって、最後の策を練ろう。大丈夫だよ、必ず匿ってもらえるから」
確信はなかったが自信めいたものがあって、強い友情と信頼に裏打ちされていることから豹一郎の不安は露ほどもなかった。
ところで野々口豹一郎の自信の根拠であるが、これは今から七十年以上前の、昭和十七年六月五日に遡るものであった。当日、南太平洋上のミッドウェーで海戦が勃発し、南雲忠一中将指揮の第一機動部隊に所属していたのが山中正だった。空母赤城に搭乗していたが、旗艦赤城は不運にも敵急降下爆撃機により被弾、炎上してしまった。戦闘機の整備にあたっていた正は、自軍機の連鎖爆発で全身にプロペラの破片が突き刺さる瀕死の重傷を負ってしまった。右腕の傷は特に深刻で、切断か存置か熟練軍医にも判断がつきかねるほどの深手だった。切断されず残されたのは、どうせ助からない、との判断によるもので、フィリピンの野戦病院に転送されはしたものの、薬剤の欠如により死を待つのみであった。慰問に訪れていた井口富子(後の山中富子)が親友の劇団員・橋鷹マサ(後の野々口マサ)に連絡を取り、彼女から野々口に山中正の重体が伝えられなければ、確実に戦没者名簿に登載されていただろう。野々口のドイツからの緊急打電により、正は辛うじて一命を取り留めたのだった。貴重なペニシリンを投与され、物資船での本国帰還がなったのである。
以上の経緯を、正の長男正雄は両親から幾度となく繰り返し聞かされていて、これは正雄の妹京子も同じだった。特に母富子は、幼い息子と娘に、
「お父さんがフィリピンから無事帰ってこられたのはね、野々口先生がドイツから―――」
奇跡の生還劇を、まるで物語のように語り聴かせたのだった。
京子が薬剤師を目指したのは、右の経緯と無関係とはいえず、彼女の娘保津水に至っては、正が語る親友豹一郎への薫陶により医師を目指す決心をしたと言っても過言でなかった。
嵐山の旅館〈花輪〉からの豹一郎の電話に、正雄が二つ返事で投宿を快諾したのは、以上の経緯があってのことだった。ただ、タクシーで山中家を訪れた豹一郎には一つ誤算があった。匿ってもらうはずだった家には、京子と保津水が住んでいたのだ。
「先生。電話で事情は伺いましたので、ちょっと窮屈かも知れませんが、父がアトリエ代わりに使っていた家が神明峠の少し上にありますんで、そこを使っていただければと思いまして。幼い頃、先生に可愛がっていただいた妹が離婚しまして、四年前、娘を連れて東京から返ってきて離れに住んでいるんです。私たちの家は息子が名古屋に下宿していますので、空き部屋は一杯あるんですが、ここでは訪問客が多く人目につきますから」
空き家との期待を裏切られた豹一郎の落胆を、正雄は見逃さなかった。荷物を受け取り、玄関右手の応接間へ案内しながら、恩人の不安を払拭したのだった。
「お祖父ちゃん。山中さんとこで、松茸をいただいたよ。焼いて食べるのが好きだったけど、食べやすいように雑炊にするからね。うまそうな鶏肉もいただいたんだ。栄養をつけて早く元気にならないと」
水尾へ移ってからの英世の生活は、美山町でのそれと一変してしまった。一番恐れていた祖父の死を、間近に感じながらの日々であった。一刻も早く、S資金の不安から祖父を解放して、実の娘である母富美子と会わせたい。不安にさいなまれ、祈るような毎日だった。
「お祖父ちゃん。谷山にスコポラミンを投与して供出貴金属埋蔵地点を聞き出したらどうだろう」
十月に入った一日の今日、英世はベッドから起き上がった豹一郎に提案してみた。昨日から点滴が外せ、豹一郎の体調に回復の兆しが見えていた。点滴用の器具や薬液その他は、村木が偽名で山中正雄宅へ宅配で送ってくれるので、英世は急場の処置に困ることはなかったのだ。一時はシリンダーに昇圧剤ドパミンまで忍ばせていた英世だったが、今日の祖父の顔色を見て危機は脱したと判断したのであった。
「英世。自白剤というのはスパイ映画ではよく出てくるが、額面通り受け取っちゃいけないよ。あんなには効かないよ。‥‥‥それより、ドパミンはもう不要だからな。昨日、冷蔵庫の中のシリンダーを見て驚いたよ。水尾とこの家に慣れるのに若干手間取ったけど、もう大丈夫だ」
石油温風機のスイッチを入れる孫の背中に、豹一郎は笑顔で語りかけた。村木と孫に心底感謝すると共に、頼もしい仲間の存在が心強かった。医師法違反を犯してまで村木が協力してくれるのは、親族としてはぎりぎりの血族六親等という、豹一郎の母の従妹の息子が村木であるのと、家が没落した村木の学資を豹一郎が援助したからだった。もちろん大学での恩師と教え子という縁もあろうが、前二者の比重が格段に高かった。
「うん分かった」
室内まで間伐材を巧みに使った居間に腰を下ろし、英世も機嫌が良かった。さきほど、正雄宅で彼の姪の保津水とゆっくり話が出来たのだ。医師を志すという彼女と一時間余りも話し、つい余計なことまで喋ってしまったのは少し後悔があるが、それを忘れさせる心の発揚があった。
「山中さんとこで、―――」
京子さんの娘さんと話したのか、と尋ねようとして、豹一郎は口をつぐんだ。孫の表情から聞くまでもなかった。
―――しかし、何と不憫な‥‥‥。
笑顔の孫を見ていると、豹一郎の顔が曇ってしまう。女の子を好きになる当然の年頃なのに、その機会が全くといってよいほど与えられてこなかった。ようやく好きになった彼女には、付き合っている男子がいる。水尾へ移った翌日、偶然、正雄宅の応接間の窓から、バイクの後ろに乗る京子の娘の姿を目撃してしまった。京子に会おうとアトリエから歩いて着くと、彼女は既に二条にある大学病院へ出かけてしまっていて、家にいなかったのだ。
「あ、先生。妹の娘の保津水です。‥‥‥どうも、最近の子は。京子には交際は内緒だったんですが」
正雄は苦笑しながら打ち明けたが、娘の仕草は男子生徒への熱い想いに溢れていた。―――いち途。彼女の一挙一動に一途な思いが込められているのだった。
―――はて‥‥‥。
男子生徒の逃げ腰が、傍目にも明らかだった。この恋はうまく行かない。豹一郎の直感であるが、保津水の想いは如何ともしがたいものがあった。
さて、豹一郎に如何ともしがたい第一印象を与えてしまった男子生徒は、草野直樹の長男遼であるが、もちろん豹一郎には知る由もなかった。
遼の複雑というか、身勝手な心理を知る由もない保津水は、野々口英世と話した翌日の月曜日、遼に彼のことを話してしまった。野々口教授匿いは山中家のトップシークレットではあるが、遼に隠し事はしたくなかった。他言しないという確信に基づくものだが、話したいという欲求を抑えられなかったのも事実だった。
祖父の命の恩人である教授の孫が、自分と同じ外科医を志している。それに、彼の仕草から、どうやら自分を好いてくれている。ライバルの存在を遼に知らせねば。私の心に住むのはあなた一人だけど、すっごいライバルが現れたのよ。だって蔭(かげ)りのある、女性にはそれこそ堪らない魅力をたたえた人だもの。そんな気持ちを遼に伝えるつもりで、口を開いたのだった。
「えっ! ひょっとして、彼の名は野々口英世じゃないか!」
遼は野々口英世を知っていたのだ。
「野々口は、もうすぐ、問題は解決するって言ったんだな!」
保津水の期待に反する反応で、遼は英世が語った些細な事柄にばかり興味を示したのだった。
「‥‥‥そうか。彼の亡くなった父は、本当のお父さんではないと、お母さんから知らされたのか」
最近届いた母からの手紙で知ったと、昨日の英世の言葉を伝えると、遼は考え込んでしまった。
「ね、遼クン。絶対、内緒よ。英世君のお母さんは、父親の野々口先生にも伝えてないんだから」
遼に警告を与え焼きもちを妬かせるつもりが、何でこんな展開になるのよ! と保津水は腹立たしくなってしまうが、深刻な遼の顔を見ると文句を言えなかった。
―――野々口教授は、とうとうS資金の解明を果たしたのか。
ソファに腰を下ろし、保津水の入れてくれたコーヒーを飲みながら、遼はS資金に気が向いて彼女のふくれっ面が目に入らなかった。早川の話から、財宝の埋蔵地点の確定が父の最終目標であるのは分かっていた。そのための手段として、谷山柾一の捕捉が目下のところ最重要。これも察しがついていた。父が最近、東京へ電話をかけながら、よく谷山柾一の名前を口に出すからで、昨日の日曜日、海野という人物の電話を取り次いだときも同じ名前が父の口から漏れたのだった。このように草野家でも、直樹の口から頻繁に漏れるようになった谷山柾一の名前であるが、直樹と後藤田それに海野の調査はどこまで進んでいるのであろうか。
この点、直樹の調査は九月十八日から本格的に、絞り込んだ人物の徹底調査に入った。谷山柾一の資産形成と金融商品取得に絡み、問題のある四百三十六人。この内、金地金(じがね)関連で怪しいのは三人しかいなかった。その中で、菱三マテリアルその他の会社と昭和五十九年から六十年にかけ大量取引があったのは、山松種夫ただ一人だった。
「おや?」
パソコン画面から消去されずに残った〈山松種夫〉の名前に聞き覚えというか見覚えがあるのだ。
「おお!」
インターネットで検索すると、山松種夫が出てくるではないか。都内に多くのビルを持つ〈パインゴールド興産〉会長で、この会社は昨年、エレベーターの整備不良による人身事故で、他のビル会社と同じく東京都の検査が入っていた。
―――おかしいな‥‥‥。
会社案内を見ても、社主の紹介がないのだ。資本金一千億を越す大企業のオーナー会長としては異例であった。青葉塾でパソコン画面をにらみながら、直樹は右手の電話に手を伸ばした。ほづみ銀行東京本店勤務の、同期入社だった市岡彬から情報を得ようと考えたのだ。
「おいおい草野か! いまどうしてんねん」
市岡は懐かしい声を受話器に漏らしたが、山松会長の件は業界でも不明な部分が多いらしく、要領を得ない答弁に終始したのだった。ただ収穫がなかったわけではなく、単なる風聞に過ぎないがと断って、市岡は以下の点を告げてくれた。まず山松種夫の戸籍上の年齢は七十八であるが、どう見ても六十代前半にしか見えないこと。滅多に人前に出ず、出るときは左手に手袋を差していること。出生地は山形県の小さな村だが、二十数年前から身寄りの者はいなくなっていること。これらの三点は、直樹の注意を喚起せずにおかなかった。
―――谷山柾一が山松種夫に化けているのではないか。
確たる証拠はないが、市岡の話から大きなヒントを得たのだった。取り敢えず、この山松種夫をゆっくり着実に調べ上げていこう。もし山松が谷山なら、当然整形もしていよう。指紋照合による同一性確認がもっとも確実だが、それをするには警察の協力が一番手っ取り早いが海野か後藤田には頼めなかった。彼らに殺人を犯す機会を与えてしまうのだ。山岡に頼むことも考えてみたが、それでは後藤田と海野の目的から大きく外れる結果がもたらされる。外堀から埋めて行って、山松種夫の化けの皮を剥がす方法を選んだ理由であったが、直樹は海野に先を越されてしまった。
「草野さん、草野さん! 分かりましたよ、谷山の居どころが! これからそちらへ伺いますから」
十月の第二月曜日の体育の日。午後五時きっかりに、青葉塾の電話ではなく直樹のスマホに連絡が入った。自分たちの目的を知られてしまったので、後藤田にではなく直樹に真っ先に情報を提供して指示を仰ぐという、海野らしい選択であった。
「やはり君も、谷山が山松種夫だと突き止めたんだな」
金剛の自宅から車を飛ばして来たらしく、海野は五時半過ぎに塾のドアを開けたが、直樹の言葉に、
「えっ!」
入り口で立ちすくんでしまったが、
「もう御存じだったんですか!」
すぐ非難交じりの声が、彼の口を吐いた。
「いや私も、やっと昨日分かったことなんだ。最後の詰めをしてから連絡しようと思っていた矢先に、君の電話があったもんだから」
直樹はとっさに出た嘘でその場を言い繕ったが、途方もない難題を抱え、認識の甘さを思い知らされたのだった。後藤田と海野が知る前に、合法的に谷山を抹殺する。少なくとも、この意図の達成は不可能になってしまった。
ところで海野が谷山にたどり着いたのは、後藤田の指示から、経済的要因を谷山確定の絞りにかけたことからであった。絞り込みをして一週間も経たない内に、警視庁公安課勤務の友人・花田昇から連絡が入った。昨年のエレベーター事故による傷害事件、といっても業務上過失致傷罪であるが、この事故関連で一人の不審人物が浮かび上がってきたというのだ。ビルのオーナー会長で、警察の単なる任意調査にも常に弁護士同伴で、極力表面に出たがらない、妙に公安の鼻を刺激する男とのことだった。要するに、臭う男なのだ。それが山松種夫で、海野が休暇を取り、さりげなく山松に張り付いて四日後の昨日、ようやく彼の指紋採取に成功したのだった。警視庁の鑑識を通すわけには行かず、府警に持ち帰って照合したところ、谷山のそれとの完全一致を見たのであった。整形で顔を変え、サングラスに山高帽子で身を包んでも指紋だけは如何ともしがたかったのだ。
資産というのは、大きな力とチャンスをもたらしたのであろう。博中(賭博中毒)だった谷山が、優秀な人材に支えられ、今や押しも押されもせぬ大実業家に成り上がっていたのであった。
「企業家としての谷山を、もう少し調べる必要があるだろう。急ぐことはないんだ、すでに正体を突き止めたんだからね。いずれにしても、後藤田にはしばらくこの話は内緒にしておこう。すぐ行動に移しかねないからね。頼んだよ、征ちゃん」
直樹ははやる海野をなだめ、軽はずみな結果の出現をかろうじて阻止したのであった。
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