第24話 歓声の木霊
「遼君、気を付けてね。愛ちゃん、お兄ちゃんの言うことを良く聞くのよ。分かったわね。本当よ」
門の外まで付いてきて、照子が心配顔で愛に最後の念を押した。
「はーい。分かりました、分かりました、わかりましたよー」
自分をのぞき込む母に、愛はメット越しにニッと笑った。彼女は今日、最高にご機嫌なのだ。朝早くから兄のバイクに乗って嵯峨野北高校へ出かけ、体育祭を観戦するのだ。
「お兄ちゃん、早く、早く!」
足をバタつかせ、愛は兄をせき立てる。ゆったりとした肩吊りのジーンズと、ピンクのブラウスに白いカーディガン。背中に真っ赤なリュックを背負って、愛は兄にしがみついていた。彼女は早く出かけたくてドリームの後部シートでうずうずしている。電話でよく話す〈保津水姉ちゃん〉に会いたい一心で、一刻も早く出発したいのだ。
今日の体育祭には母も出席予定だったが、一昨夜、急に父の伯母が亡くなってしまった。愛も葬儀参列という応急案も飛び出したが、母だけの提案で、本人は見ず知らずの父の伯母の葬儀参列に断固反対だった。結局、愛の主張が通ることになったが、競技中、保津水の母に世話を頼むという好ましからざる事態に、遼は少し気が重かった。
「それじゃあ、母さん行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。愛ちゃんのこと、お願いね」
「行ってきまーす」
子供用のフルフェイスのメットから愛が元気良く別れを告げると、ドリームは軽快なエンジン音を響かせ、ようやく自宅を後にしたのだった
背中の愛は、遼のジャンパーの脇を必死に掴み、メットを兄の背中にくっつけていたが、安威川渓谷へ差しかかった頃からキョロキョロとあたりを眺め始めた。
「愛! しっかり持ってないとダメだぞ!」
遼が大きな声を出し、左手で自分の脇を掴む愛の手を押さえると、
「はーい」
後部シートから聞き分けの良い返事が返ってくる。が、すぐ兄の注意を忘れキョロキョロとあたりを見回す。その都度、兄の体を抱く手が緩むのだった。遼は何度、背中の妹に声をかけ彼女の手を押さえたか知れなかった。
竹林回廊から愛宕山中へ分け入ると、普段に較べ超低速ツーリングだった。いつもは四、五十キロのスピードで林道を駆け抜けるが、今日は後ろに妹がいる。山の木の葉も一段と色づき出していて、おまけに快晴なのだ。澄んだ空気に、秋まっ盛りに山燃える愛宕山。妹にワンダフルなナチュラルビューを満喫させてやろう。そのために遼は、二十分あまり余裕をもって家を出ていた。
十月も半ばを過ぎると、朝夕はめっきり冷え込む。遼がこの山中を走るのはまさに朝夕で、朝は霞が白く棚びき、夕は日の入りが急に早くなった。遼が帰る頃にはすでに愛宕山中は暗く、大抵ヘッドライトのお世話を願う。エンジン音を響かせ、ライトに守られ暗い山中を駆け出すと、闇と自然が敵に回る。眠りを妨げる文明の利器を、まるで呑み込もうとする気配なのだ。そんなときは自然の怒りに触れたようで、遼はゾクッと何とも心細くなってしまうのだった。
霞がゆるくたなびく朝は、穏やかな日の光が鎮めてくれるのであろうか、山に怒りはなく、すがすがしい顔で遼を迎えてくれる。今年は昨年と違い、八月以外は珍しく天候に恵まれ、遼が電車通学を余儀なくされたのは僅か三日だった。その分、背中の保津水の誘惑に悩まされるが、不快であるはずがなく、むしろ喜ばしいものだった。
「ねぇ、お兄ちゃん。モミジさんが綺麗。ほら、見て!」
妹が伸び上がって、右手に広がる赤々と色づく紅葉を指差す。
「うん」
遼も後ろを振り向きコックリと頷いた。山々は渋い衣替えの季節で、夏の緑が嘘のように赤と黄と茶に染まっている。細い林道にも枯れ葉がじゅうたんさながらに敷き詰められ、とてもカラフルで、道に落ちてまで孤独なライダーの目を楽しませてくれる。
もっとも、積もった枯れ葉はイタズラの常習犯であった。急坂でタイヤを滑らせ、油断は転倒のおまけつき。そんなこっぴどい仕打ちが待っているのだ。遼も何度か転倒の危機に見舞われたが、その都度、重心の低いドリームの構造に助けられた。このドリームは、一代で世界に冠たるモーターカンパニーまで興した人物が、丹精込めて造ったバイクなのだ。頑丈で安定がよく、三十年以上経ったいまも、エンジンは驚くほどのパワーを生み出すスグレモノだった。遼は乗れば乗るほどドリームが気に入り出していて、古き良き時代を彷彿させる、まさに逸品であった。愛車ドリームを駆って、遼が神明峠への坂道を上っていると、
「あっ、鹿さん! ―――それに、ウサギさんも! ね、お兄ちゃん、見て、見て!」
山の仲間の出迎えに、後ろで愛が騒ぎ出す。寒い冬に備えてか、夏に較べ、鹿もウサギもふっくらと愛嬌顔に変わっていた。
柚子の里近くに差しかかってドリームのスピードが上がると、愛の手に自然と力がこもる。広々と続く柚子畑を見ていると、こんな自然の中なら妹の喘息発作も皆無になろうかと思うが、世の中そう甘くはなかった。今度は容赦なき冬将軍に襲いかかられ、彼女の弱い気管支が完膚なきまでに痛め付けられるのだ。
厳しい冬の訪れとともに、間もなく装いを一新する山々であるが、遼はこの自然が好きだ。六カ月前には夢想だにしなかった林道を抜け、自然を満喫しながら、まさに我が母校と呼ぶべき高校へ通っている。このきっかけを作ってくれたのは、マドンナ。だが、遼はここで秋本保津水と巡り会ってしまった。会わねば生まれることのなかった苦悩であるが、二人を巡って思い悩むのは遼だけではなかった。この先、母と愛の激しい葛藤の原因ともなってしまう、マドンナと保津水であった。もちろん妹はまだそのことを知る由もなく、保津水に会いたい一心で、ドリームの上で心を躍らせているのだった。
体育祭の今日は、いつもと違って遼は保津水の家による必要はなかった。愛のための特等席確保任務のため、いまごろ保津水は北高で陣取り合戦まっ最中なのだ。妹を乗せて通い慣れた道を駆けながら、遼は妙な物足りなさを感じていたのだった。
「さあ、ここからは歩きだぞ、愛」
駅前のバイク置場にドリームを預け、遼は愛の手を引いて民家の間の細い通学路を保護者や生徒たちに混じって北高へ歩いて行く。妹は何度も立ち止まっては人の流れから出て、嵯峨野を囲む山々や景色に目を奪われ、喜びの声を上げる。後ろ向きの妹の手を引き、二人が正門近くまで来ると保津水が待っていた。遼と愛を見つけると、
「愛ちゃーん! こっち! こっちー!」
大きな声で愛に呼びかけ、両手を振って飛び跳ねんばかりの仕草で二人を迎える。
「保津水姉ちゃーん!」
愛は兄の手を離して、一目散に駆けていく。
「はじめましてー、愛ちゃん」
「うん、うん。こっちこそ」
愛は保津水に抱かれてご機嫌であるが、遼は急に気が重くなってしまった。保津水の横に佇みじっとこちらを見つめる、京子の姿が否応なしに目に入ってくるのだ。彼は保津水の母に、ぎこちなく頭を下げたのだった。
―――お母さんはいらっしゃらなかったのね‥‥‥。
遼に軽く会釈を返し、京子は口を一文字に結んだ。ボーイフレンドの母に会うのを楽しみに今日の体育祭を迎えたのだが、どうやら肩透かしを食ったようである。
―――まあいいわ、当人に会えたのだから。
京子は観察するように真剣な目で遼を見つめる。保津水が好きになるだけあって、確かに好青年で、アラを探すのに苦労してしまう。近づいて来た遼をじっと見つめていると、
「いやだぁ、お母さん。そんなにジロジロ見ないでよ、恥ずかしがるじゃない」
保津水が笑いながらたしなめる。
「保津水姉ちゃんの、お母さん?」
「そうよ、愛ちゃん。ごめんなさいね、挨拶が遅れて。こんにちは」
京子はやっと笑顔をつくって愛の前にしゃがむと、彼女の肩を軽く抱いたのだった。
正門の内も外も人で溢れ、足の踏み場もない混雑であったが、四人の立つ松の巨木の下は人通りから外れ、ここだけ別次元空間が作られていた。人いきれから離れた中で、遼と京子が丁寧な挨拶を交わし始めると、
「もうっ! 二人ともやめてよ! そんな堅苦しい挨拶。ねぇ、愛ちゃん」
「うん、そうそう」
意味も分からず、保津水を見上げて愛がうなずく。完全に意気投合していて、今日初めて会った二人とは思えなかった。
「行こうか、愛ちゃん」
「うん、行こう行こう」
愛は嬉しそうに保津水に手を引かれ、人込みの中をグラウンドへ消えて行った。
「お母さんはいらっしゃらなかったの?」
未練の残る京子は、娘のボーイフレンドを見上げて聞いてみた。
「‥‥‥はあ」
遼は逃げ腰だ。保津水の母とは、出来ればあまり話したくない。親しくなりたくないのである。親しくなればなるほど、マドンナのことが後ろめたくなるし、保津水とも別れづらい。保津水のためにも、と言えば聞こえは良いが、まったく自分のエゴであった。
「そう‥‥‥」
京子は遼の態度に失望しながら、とっさに彼の心理を読んでしまった。だてに年は取っていないのだ。それにここ数年、京子は男の心理を読むことに自分でも驚くほどたけてきた。離婚して娘と暮らす、美人の四十女に言い寄る卑しい男は、五万といるのだ。たくましくならねば、疾(と)うの昔に保津水との生活は崩壊の憂き目を見ていたであろう。京子は遼の心に潜むズルさを見抜くと、
「そう言えば、保津水を送り迎えしていただいて、お礼を言わねばなりませんね」
言わずもがなの嫌味が、口から漏れてしまった。
「―――いえ」
遼は空いた左手で頭をかいた。逃げの一手を決め込むつもりだった。大きなことはおろか、小さなことも言えない身であった。五カ月先に再び転校し、北高に後ろ足で砂をかける―――と言われても致し方のない不義理を働くのだ。込み合ったグラウンドを並んで歩きながら、遼は曖昧な返事を繰り返したのだった。
グラウンド北端に広々と張り巡らされたバックネット西隅に、保津水はワインレッドのビニールシートを敷いていて、その上で愛と二人で何やら楽しそうに語り合っていた。彼女らの横には石上とその家族―――両親と姉らしき女性が腰を下ろし、互いに白い歯をのぞかせ朗らかに談笑していた。石上は保津水と愛の相手をしながら、家族とも会話を交わすという多忙な役回りを演じていたが、遼の姿が目につくと、ニタッと意味深笑顔を返してくる。どうも彼女は苦手で、遼は少し引いてしまう。バイク通学が知られているのは当然として、保津水にキスをし乳房を吸ったことまで知られているかも知れないのだ。石上の意味深笑顔を見ると、可奈子が二人の秘め事を小山に語っていたことが脳裏をよぎり、遼はいつも冷や汗が出るのだった。
「お兄ちゃん。こっち、こっち。こっちよー」
「うん、分かったよ、愛」
妹の声に助けられ、遼はようやく保津水の母から解放されたのだった。
〈スカイブルー〉。文字通り果てしなく透き通る秋空の下、体育祭は誇らかな歓声に包まれ、嵯峨野を囲む山々からのこだまに歓喜も数倍になる。
グラウンドで級友たちとプログラムをこなしながら、遼は感無量だった。小・中と九回の体育祭を経験し、いずれも鮮やかな印象が心に刻みつけられているが、北高での体育祭はそれらとまったく違った趣をもって、遼の心を生涯満たしてくれるであろう。
歓声の中、喜色満面の友やグラウンドを見つめていると、間もなく去っていく高校だが、自分は生涯この高校に心の関わりを持って暮らして行く。そんな気がしてならなかった。
すでに一年五組のクラスメートで、保津水の遼への恋に疑問を挟む者はいなかった。同様に、大半の級友も遼が保津水を好いていると信じていた。平たく言えば、二人は相思相愛の、いい仲だと思われていたのである。ただ遼が時折見せる逃げ腰から、石上和代などごく一部の女子が、大阪に恋人がいるのではないかとの疑いを捨てていなかった。
一部に根強い疑念を残す遼ではあるが、いずれにしても今日、保津水と同じ席に座りランチを共にしたことは、二人の仲が校内に公表されたことを意味するのだった。
さてランチの後の、午後の競技の圧巻は言うまでもなくクラス対抗リレーである。例年と変わらず遼はアンカーに指名されてしまった。中学三年間の兄の勝利が目に焼きついている愛は、殊のほか楽しみにしていて、
「お兄ちゃーん、頑張ってー!」
バトンを待つ遼に聞こえるほどの、声援であった。妹の声援が奏効したのか、五位でバトンを受け取ったが、駿足で追い上げ、一位でのゴール入賞を果たしたのだった。
「おー!!」
大きなどよめきとともに、割れるような拍手がグラウンドから沸き起こった。愛と保津水は我ことのように鼻高々で、体育祭が終わっても容易に興奮が冷めやらぬのか、駅へ向かう足も勝利の感動に酔いしれながら弾むのだった。
「本当に速いのね」
単独ならぶっ千切りの勝利で、京子も呆れるほどの駿足だった。
「ええ、子供のときから、走ってばかりだったから」
「そうね、サッカーをしていたんだものね。‥‥‥ところで、愛ちゃんは私たちと一緒に帰った方が、あなたはバイク預かりへ入りやすいでしょう。保津峡駅へは兄に車で迎えに来てもらいますから。あなたはバイクで家へ寄ってください」
踏切手前で遼と保津水を見上げ、京子は溜め息交じりだった。本質的なのか、それとも後天的に培われたものであろうか。困難に陥ると策を弄しすぎる嫌いがあり、そんな自分にうんざりしてしまうのだ。愛を連れて帰るのは、トロッコ列車に乗せて秋化粧の保津峡を間近に楽しませてやりたい、当然この意図もあったが、それだけではなかった。まず、彼女を味方に引き入れたかった。小さいが、娘の頼もしい味方になるのは誰の目にも明らかだった。彼女から草野家のことも聞き出したかった。情報不足は疑心暗鬼を呼び起こし、つい良からぬことを考えてしまう。正確な情報を掴めば最悪の事態も回避可能なのだ。京子は今日、遼に会ってあることを決意した。バイク通学を阻止しえないと分かったときから徐々に考え出していたことであるが、それを実行に移す決意をしたのだった。
「愛。迷惑をかけちゃダメだぞ。―――それじゃ」
遼には京子の策謀など知る由もなく、トロッコ嵯峨駅の改札で三人に手を振ると、人込みを少し戻ってJR嵯峨嵐山駅前の書店へ入り奥の学習書コーナーへ歩を進めた。混雑が収まり人気(ひとけ)がなくなるまで、国語の参考書か問題集にでも目を通し時間を潰そうと思ったのだ。数学は保津水に負けない自信があるが、英語と国語はどうもいけない。特に国語は相当開きがあって、それも現代文の解釈問題で差をつけられてしまう。
「ふぅー ‥‥‥」
書棚の前で参考書のページを繰りながら、遼は溜め息を吐いた。三国丘への転入の壁は厚いのに、いま一つ気分が乗らない。乗らない理由はもちろん分かっている。
―――北高にしなければ良かったのかな‥‥‥。
もっとつまらない高校だったら、迷いなど生まれなかっただろう。三十分ばかり店内で費やしてから、現代国語の問題集を一冊買って、遼は店を出た。駅前は、先ほどの混雑がうそのように静まっていた。ドリームの軽快なエンジン音を響かせ、保津水の家に着いたときはすでに五時を回っていた。赤みがかった空を見上げ、遼は柚子の木の下にドリームを駐めて、重い足取りで玄関へ歩く。気後れ気味に戸を開けると、
「お兄ちゃん、お帰りー」
左奥のダイニングから愛が駆け出してきた。遼はどんな言葉を返すべきか迷ってしまうが、照れながら、
「ただいま」
と答えると、彼女を抱き上げて帰り支度を促した。保津水と京子は遼に上がるよう勧めるが、彼は固辞して家を出た。釣瓶落としの秋の陽は、知らぬ間に山道を深い闇に委ねてしまう。六歳の妹にはまだ見せたくない、自然の寝姿(ねすがた)なのだ。
「保津水姉ちゃーん! さよーならー!」
心残りな愛は、兄の背中にしがみつきながら、小さく消えてしまうまで、何度も何度も振り返っては保津水に別れを告げるのだった。
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