第31話 予期せぬ別離

保津水に激しく罵られた二十一日の夜はさすがに落ち込んでしまったが、時間の魔力なのか、それとも認識の甘さゆえであろうか、翌日からは微かではあったが希望が湧いて、落ち込みも徐々に回復していった。三学期にきっと会える。そのとき謝れば怒りを静めてくれる、そんな楽観的感情に身を委ねるのも気分的に楽だった。

 友との競い合いも、心の重荷を軽減してくれるものだった。一人で家にいれば一日中、保津水のことばかり考えていただろうが、楠田の部屋で彼と勉学に励むと、不思議と保津水のことは忘れられた、というか、忘れる努力が下支えされ、意識に僅かしか上らせずに済むのだった。

 翻ってこの一年を思い致せば、遼にとってこれほど充実した年はなかった。やろうと思わなければ何も出来ない。これは当たり前だが、決意すれば大概のことは出来る、ということが良く分かった。勉学に明け暮れた一年だったが、それだけでなくいろんなことも経験した。人生や恋、それに自然との関わりについても深く考えたように思う。保津水とのことはもちろん気がかりではあるが、年が明ければ解決できるだろう。そう考えると、可奈子の死という大きな不幸に見舞われた昨年と較べ、遼にとって今年は随分充実した幸運な一年であった。

 今日は今年最後の日で、まもなく新年を迎えようとしている。そして遼はいま、楠田の部屋で彼と一緒に年越しソバを食べていた。今夜はここに泊めてもらって、百舌鳥八幡へ初詣でに行くつもりなのだ。保津水と清和天皇社へ参拝しよう、年末から年始にかけての予定であったが、いまは是非もなかった。確かに燃える恋のバラを思うと、友情の白い花は少し色あせる。だが贅沢は言うまい。こんな自分のために、楠田は信頼の白い花を投げかけてくれたのだ。

 そう考えると、フーフー息で冷ましながらソバを口に運ぶ目の前の友に、遼は感謝せずにおれなかった。

 ―――友よ、ありがとう。君の友情は決して忘れない。

 箸も持たずに黙って楠田の顔を見つめていると、

「何や、草野。腹減ってないんか?」

 ソバを頬張りながら、楠田は怪訝顔で見上げる。

「いや、ちょっと考え事をしていたんだ。これからいただくよ」

 箸を取り上げ、遼も食べ始めた。

「もしソバ嫌やったら、お母ちゃんに言うて、雑煮でも持ってこさそか?」

「いや、気ィ遣わんといてくれ」

 楠田と話していると、遼もつい大阪弁が出てしまうのだった。

 二人が食べ終わったときに、ちょうど除夜の鐘が鳴りだした。

「ほな、行こうか」

 楠田の声に促され、遼は彼と連れ立って部屋を出た。八幡さんへ参拝する人たちが三々五々、すでに暗い夜道へ繰り出していた。近所の人たちと、

「おめでとうございます」

 笑顔の挨拶を交わしながら、二人は大きな注連縄(しめなわ)の鳥居を見上げ、境内に差しかかる。

 遼にとり、新年の参拝は何年振りであろう。昨年は可奈子と伊勢寺へ参拝し、合格の祈願を予定していたが果たせずに終わってしまった。昨年、一昨年を振り返りながら歩いていると、沿道に並ぶ夜店の裸電球がやけにまぶしく、掛け声も耳に湿りがちだった。

 楠田と並んで、ゆっくりと進む人の波に体を預け、本殿へ歩いていると、

「遼くーん!」

 聞き覚えのある声が人込みをかき分け追ってくるではないか。遼が背伸びして振り返ると、何と! 小山千秋だった。しゃれた毛皮のコートを羽織り、小走りで駆けてくる。

「やあ! 久し振り。でも何でここに?」

 北摂の住人の出現に遼は驚いてしまったが、これはお互い様で、彼女も高校の友人宅へ宿泊に来ていたのだ。

「おめでとうございます。本年もどうぞよろしゅう」

 長い説明が済むと、次は澄ました新年の挨拶だった。正装した小山に構えられると、遼は照れてしまうが、仕方なしにこちらも改まった挨拶を返す。小山はツーンとポーズをとって澄まし顔で受け流していたが、ブルゾン姿の楠田に気がつくと、

「あれ! 楠田君とちゃうの? ―――へぇー、遼君。天才君とこに泊まってんの?」

 いきなり普段の彼女に戻ってしまった。

「誰が天才君や! こら、小山! アホなこと言うてたら仕舞いに怒るで。昔からちっとも変らんヤツやな。もうちょっと女らしゅうしたらどうやねん。服だけやのうて、中身の方も!」

 気にしているアダ名を言われ、楠田がカンカンになって怒り出す。

「久し振りに会うたのに、そんなに怒りなや。アンタも中身はちっとも変わらんな」

 小山にはまったく応えておらず、笑いながら楠田の言葉尻を取って怒りをあおってしまった。二人は遼を挟んで毒づき合っていたが、境内の池のところまで来ると、

「ね、遼君。久し振りに会うたんやさかい、私と一緒に少し歩こう」

 小山は楠田を無視して、遼の手を引き楠田から離そうとする。

「こら、小山! お前は大林可奈子の親友やったんちゃうんか。ええんか、そんなことして。大林に恨まれるぞ!」

「なんやの! 可奈ちゃんは死んでしもたやろ。それにアンタにそんなこと言われる筋合いないわ!」

 小山がムキになって噛みつくと、

「草野は年明け早々、三国丘の転入試験受けんやぞ! お前が色仕掛けで誘惑して、もし試験に落ちたらどうすんねん。早う帰った、帰った!」

 楠田はこれで最後と言わんばかりに、「シッ、シッ」と、犬でも追い払うような仕草をしてダメを押した。

「えっ! ホンマやの?」

 三国丘の転入試験と聞くと、小山は急に神妙になってしまった。

「そう、三国丘へ転入するつもりやったん。そいでやね、京都の高校へ転校したんは―――」

 自分で納得するように何度も頷いていたが、

「‥‥‥そやけど、何で茨木高校へ転校せぇへんの? 遠いとこへ来んでも、同じレベルのとこあんのに」

 素朴な疑問が彼女の口をついた。

「いやぁ、別に‥‥‥」

 吐く息が白いのに、遼は冷や汗が出る。

「前にいっぺん電車で会うた女の子やの? 遼君が三国丘へ行きたいんは?」

「いやぁ、そういう訳じゃあ‥‥‥」

 ない、と言いたいのだが、図星だった。

「なに、アホなこと言うてんねん。草野は俺の家に近い三国丘高校へ来たいだけなんや。な、草野」

 苦しんでいる遼に、楠田は助け船を出してくれる。いやはや親友とは有り難いものだ。小山は楠田の言葉を信じた訳でもないだろうが、

「そんなら遼君、三国丘の転入試験がんばってや」

 遼を励ますと、二人に手を振って友だちのいる人込みの中へ消えて行ってしまった。

 年が明けて新年を迎えても、楠田の部屋で合宿というウィンターキャンプのような毎日が続いていたが、六日の午後九時でようやくそれも終わった。

「お互いよう頑張ったなあ」

 楠田の言葉に相槌を打って、遼が帰り支度を始めると、聞き覚えのある滑らかなエンジン音が八幡さんの鳥居の方から近づいてきた。三カ月前に父が買い替えた四駆のMDXで、午後から降りだした雪を案じ迎えに来てくれたのだ。

「おっちゃんが迎えに来てくれたんか?」

「うん。そうみたいだ」

 窓から遼が顔を出すと、父の隣に愛、後部座席で母がシートに包まれていた。

「お兄ちゃん、迎えに来たのよー」

 部屋から出てきた遼に、妹が抱きついた。

「楠田のお兄ちゃん、今晩は」

 愛は楠田に愛嬌を振りまくことも忘れなかった。

「おお! 愛ちゃん、今晩は。楠田の兄ちゃんが抱っこしたろか」

 楠田もニカッと笑顔で応じ、愛に両手を差し出す。三人で雪の舞う夜空を見上げていると、母屋へ入った直樹と照子が、楠田の両親と和やかに談笑しながら玄関から出てきた。

「明日、試験が終わってから、ドリーム取りに寄るから」

 MDXの窓から遼が声をかけると、

「よっしゃ、あす頑張ってや。期待してるで! ―――ほならな」

 楠田は力強く握りこぶしを立て、親友を激励したのだった。

「お兄ちゃん。保津水姉ちゃんが『明日の試験、頑張って』って」

 楠田家の人々が見えなくなると、後部座席から愛が助手席の兄に身を乗り出してくる。

「えっ!‥‥‥」

 愛からの伝言に、遼は傍目にも明らかなほど喜びが顔に溢れた。

 ―――保津水の怒りは治まったのだ!

 車に揺られながら、遼の顔は自然とほころぶ。右手で妹の頭を抱き寄せ、自分の額にこすりつけていると、

「ね、遼。これ、英世君からあなたにって」

 今度は後部座席から母が身を乗り出して、桐の小箱を手渡す。先に和泉市の後藤田家に寄ってきたとのことで、英世から託されたものだった。箱を開くと、紫の絹布に包まれたメスが入っていた。祖父野々口豹一郎愛用の、形見の一刀だった。

「大学で、一緒になれるかもしれないねって」

 愛を膝に戻し、照子が運転席の後ろから遼に微笑みかける。英世は三学期から岸和田にある私立の進学校・飛翼館高校特進クラスへ編入することが決まっていて、すでに編入の審査はパスしていた。高卒認定に受かっての大学受験も一つの選択肢ではあったが、父の後藤田正義が納得しなかった。通学は、妻富美子と義父豹一郎の希望でもあったのだ。

 ―――世界的外科医の誕生だな。

 実力のみが評価対象、他はなんにもいらない。そんなポリシーを持つ外科医が、将来、世界を股に掛けた活躍をする。英世の近況を聞きながら、遼は限りなく実感に近い予感が湧いてくるのだった。

 ―――俺も一日も早く、このメスを使えるようになろう。

 桐の小箱を両手に包んで、遼は厳かな気分に浸っていた。名外科医野々口豹一郎がこよなく愛した、六刀の外科用メス。すでに英世と遼に渡っているが、あとの四刀も後日、四人の外科医の手に渡る運命であった。そしてこの六人の外科医が、三組のカップルに納まることまでは、豹一郎もメスを鍛(う)った堺の名工も予測の範囲外であったろう。

 翌日の一月七日、遼は母の付き添いを断り、三国丘高校へ一人で出かけた。照子は間際まで一緒に行くと言い張ったが、遼は固辞して譲らなかった。保津水への義理立てのつもりだった。二日前の面接は致し方なかったが、今日は母同伴の必要はまったくなかったのだ。母にしつこく言われ急きょ予定を変更したが、その結果、保津水に大きな失点を作ってしまった。母の意向を抑えれば少しは帳尻を合わせられるかも知れない、そんなささやかな抵抗であった。

 JR三国ヶ丘駅で南海高野線に乗り換え、堺東駅で下車し、遼が三国丘高校に着いたのは九時二十分前。転入はどこの高校も副校長か教頭の仕事らしく、受付を通すと教頭先生が出てきて応接室まで案内してくれた。大阪の場合、転入試験は廃止されているので、受験生は特別枠の遼だけだった。

 九時から試験が開始されたが、英・数・理・社・国の五科目なので、北高のときのように午前中で終わることはなく、当然午後までずれ込む。三時四十分に試験が終了すると、発表までの間、遼は駅前の喫茶店へ入り時間を潰した。緊張感に包まれないのは二度目の受験だからか、それとも他の要因が作用しているからなのか、いずれにしても遼は考える気力すら湧いてこなかった。

 出来は可もなく不可もなしで、自分ではまあまあかなと思うが、やはり理科と社会は他の科目に較べ自信がなかった。たぶん不合格だろう。そう思っても、感慨らしきものも湧いてこない。おそらく心が三学期からの転校を欲していないのだろう。

 ―――だめだな‥‥‥。

 こんな気持ちで受験しても、受かるはずがない。そう確信しながら発表の時間に再び三国丘高校へ足を運ぶと、事務室前で教頭先生に合格を告げられた。自分の合格を聞いて、遼はスーと体から力が抜けて行った。合格の喜びより、これで自分が北高の生徒でなくなるのが寂しかった。もう明日から一年五組に自分の席はないのだ。保津水と席を並べて楽しく語らう機会は、これで永久になくなってしまった。得たものに較べ、失ったものが余りにも大き過ぎた。組み込まれるクラスや明日持参する物その他、こまごました説明を受けているときも、遼の頭の中は保津水と北高で一杯だった。

 その日は家に帰っても鬱陶しかった。母は大喜びで迎えてくれたが、母が喜べば喜ぶほど、遼は不愉快でますます気が滅入ってしまうのだった。

「どうして三学期の転入なんか勧めたんだよ。ほっといてくれれば良かったのに!」

 はしゃぎ過ぎる母に、遼は癇癪を起こし怒鳴りつけてしまった。二階へ上がって、ベッドに寝転んでぼんやりと天井を見上げていると、ルルルルルーと机の陰からスマホが遼を呼んだ。

「‥‥‥もしもし」

 遠慮がちな保津水の声が、遼の耳に寂しく響く。こんな保津水の声を聞くと可哀相になる。何もかも自分の責任で、彼女をここまで追い詰めてしまった。

「‥‥‥うん、俺」

 遼の返事も暗く沈んでしまう。

「こないだはご免なさい。随分ひどいことを言って‥‥‥」

 泣きそうな声で謝る。

「こっちこそ、ご免。俺が悪かったんだから」

 こんなことしか言えない自分がもどかしい。

「‥‥‥」

 保津水は黙ったまま受話器を抱いている。遼は何か言わねばと思うが、言うべき言葉は口に出したくない。かろうじて、

「昨日、電話ありがとう。嬉しかったよ」

 と、口に出したが、まさに藪ヘビだった。保津水は恐くて聞けなかった、一番聴きたいことを口に出さざるを得なくなってしまう。

「試験どうだったの?」

 声が震えていた。

「‥‥‥受かってたよ」

 遼の返事も消え入るように弱い。

「良かったわね。おめでとう。もうお別れなのね‥‥‥」

 保津水の声は涙声に変わってしまった。彼女は必死に涙をこらえながら、

「‥‥‥お幸せに」

 と最後に告げると、遼の返事も聞かずに電話を切ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る