第32話 この手の中に

人間の心とは良く出来たものだ―――と思う。まるでバネで作られた機械のようなところがある。大きな力で押し縮められるとどんどん縮んでいくが、極限まで縮むと反発に転ずるのだ。おそらく死をもたらさない程度の負荷であれば、振幅の大小はあるとしても、抑圧された心も収縮の後に反発に転ずるのではないだろうか。

 遼の心もまさにそうだった。昨夜は激しい虚脱感と苦悩に襲われ打ちひしがれんばかりだったのに、朝目を覚ますともう虚脱感は消えていた。いや、それだけではない。何かフツフツと沸き上がる力強いものが気力を満たし始めていた。一体それは何だろう? 昨夜と較べ、あまりに急激ともいえる変化に、遼は戸惑っていた。

 ベッドを出て制服に着替えると、母が着けた新しい襟章が目につく。制服の襟章が着け変わるのは、これで三度目だ。一年もしないうちに三度も襟章を着け変えるなんて、誰が想像出来ただろう。

「‥‥‥」

 鏡の中の襟章を見つめていると、自分の気力を満たし始めているものが何であるのかようやく分かった。

 ―――マドンナだ!

 そうなのだ。今日からマドンナと同じ三国丘高校へ入ったのだ。昨夜あれほど落ち込んでいた心は、無くしたものの補償に気付いたのだ。無くしたものは確かに大きい。しかし得たものも大きいじゃないか。しかもそれがお前の最終目的だろう。何をくよくよしている。しっかりしろ! そんな声に励まされて、心は気力を取り戻したのだ。

 階下へ下りてダイニングのドアを開けると、

「おはよう。昨夜はよく眠れて?」

 テーブルのトースターからこんがりと小麦色の食パンを取り出す手を止め、母がにこやかに迎えてくれる。

「お兄ちゃん、おはよう。今日から保津水姉ちゃんと違う学校へ行っちゃうの?」

 専用椅子に腰を下ろす妹の疑問は、いつもながら核心をえぐり鋭く厳しい。

「愛ちゃん! おしゃべりしてないで、早く食べなさい」

 母は愛にそれ以上しゃべらせまいとする。

「そうだよ、愛。今日から楠田のお兄ちゃんちの近くにある、三国丘高校ってとこへ通うんだ。だから少しだけゆっくり起きてきたんだよ」

 痛いところを突かれた遼だったが、つとめて明るく妹に転校したことを説明する。

「ふぅーん。楠田のお兄ちゃんちの近くの高校なの」

 取り敢えず愛は保津水を忘れてくれたようで、母の誘導に乗って演劇会の話題にのめり込んで行った。遼は母と妹の話を聞きながら、トーストを口に運んでいたが、

「ごちそうさま」

 少し早目に朝食を切り上げた。

「どうしたの、一枚でいいの?」

 いつもの半分で、ハムエッグまで残っていた。

「うん。少し早目に出ることにしたよ。初日くらいは早く行っといたほうがいいから」

 意図は別のところにあったが話せば長くなってしまう。遼はガレージに駆け込んで、勢いよくドリームのキックを踏み坂道を駆け下りると、右へ曲がらずに摂津富田駅に向かってハンドルを切った。腕時計に目をやると七時一分。七時二十三分迄には何とか、摂津富田駅へ着けるだろう。スロットルを回しながら、遼はマドンナの乗車時刻を確認していた。

 駅前のチャリ置場へドリームを預け、摂津富田駅の改札をくぐると、マドンナが乗る車両の、別ドア前で電車を待った。マドンナと同じドアから乗ったりすれば北川に見つかってしまい、楽しい出会いが台無しになってしまうのだ。

 ホームでしばらく待っていると、マドンナが大勢の乗客に混じってホームへ下りてきた。オーバーを着ているので体のラインはよく分からないが、顔はふっくらと少し肉付きが良くなったように思う。口元に微笑が漂っているところが何とも可愛かった。

 ―――天王寺駅でゆっくりマドンナと話しでもするか。

 到着した満員電車を眺めニヤけていると、嫌な予感が頭をよぎる。北川が天王寺まできたらどうすればいいのだろう。

 ―――そのときはそのときで、出たとこ勝負だ。

 遼は腹をくくった。「やあ、久し振りだな」などと、トボケてみるのも面白いかも知れない。マドンナの前で北川がどんな反応を示すかも、楽しみといえば楽しみだった。到着した満員電車に体を押し込み、さり気なく周りを見回すが、北川の姿が見えない。不思議なことに、いくら探しても彼はいなかった。

 JR大阪駅で各停を降り、マドンナから五メートルばかり離れ、彼女の後を環状線ホームへ歩く。天王寺で乗り換え、阪和線の区間快速に乗ると車内は空席がチラホラとまばらで、マドンナは後部二両車両へ歩いてドア近くの席に腰を下ろした。遼が目の前に立っても気付く気配がなく、カバンの上の方丈記を読み耽っていた。吊り革を握りながらチラリと一瞥しただけだが、遼にはすぐ分かる。ここしばらく古典は嫌というほど読み漁ったのだ。方丈記を当てるくらい、いまの遼には造作なかった。

 上から見つめていると、マドンナの顔は実にセクシーだ。形の良い筋の通った鼻、栗色の髪が丸みを帯びた顔や体によく似合う。遼は久し振りのマドンナの顔をゆっくりと楽しんでいたが、しばらくすると左手を腰に当て、指先でトントンとベルトをたたき始めた。マドンナの注意を引くべく、目の前で指先を動かし音を立てたのだ。

 マドンナは気になるのか本から顔を上げたが、遼の胸のあたりで視線を止めた。集中力を削ぐ目の前の男子生徒に、おそらく抗議のつもりだろう、口を一文字に結ぶと目を閉じた。少し怒った顔もセクシーで可愛かった。

 堺市駅で乗客が降りシートが空いたのに、遼がなおも立ったままでいると、彼女は訝ってようやく顔を上げた。

「やあ」

 遼がマドンナにかける初めての言葉だった。彼女は遼にすぐ気づいたが、返事をせずに戸惑いを浮かべた。ナンパでもかけていると思ったのか、無視を決め込み黙って再び俯こうとするが、制服の襟章にようやく気づいた。

「えっ?!」

 と、叫んで、形の良い口を小さく開けたまま目を丸くする。驚いたマドンナの顔もなかなか可愛いかった。遼が笑いながら見下ろしていると、

「‥‥‥何で三国丘に?!」

 マドンナの口から初めて漏れた言葉らしい言葉だった。

「実は今日転校したんだ」

 遼はニコニコしながら答える。完全にこちらのペースだった。

「何組に?」

「一年二組らしい」

「そしたら、私の隣の組やわ」

 マドンナの顔から緊張が取れて、普段の口調がポロリと漏れた。

 三国ヶ丘駅でJRを降り、高野線のホームで彼女と話しながら遼は軽い違和感を覚えていた。想像していた彼女は標準語、というより、幼児期を東京で過ごした母の関東弁をしゃべると思っていたのに、現実に口を吐いて出たのは大阪弁だった。

「ところで君は何組?」

「一年一組」

 ようやくマドンナの顔に笑みが浮かんだ。

「三国丘のことよく分からないんで教えてもらえると助かるんだけど」

「ええわよ」

 マドンナは邪気のない得意顔を遼に返したが、急に思い出したように声を落として、

「あなたも越境?」

 今度は遼を上目遣いに覗き込んだ。

「そうだよ」

 遼も同じようにマドンナを覗き込んで、彼女に合わせる真似をして小さな声でささやいた。少しからかってみたくなったのだ。

「何でやの?」

 マドンナは当然の疑問を投げてくる。

「君と同じ高校へ行きたかったから」

 遼の本心であるが、本心も時と場合によっては冗談に映る。

「もう!」

 マドンナはすねたような仕草を浮かべ、少し口をとがらせて遼をにらんだ。

 遼はマドンナの真横に立って話しながら、軽い失望を味わっていた。高嶺の花を手中に収めたときに味わう感覚であろうが、それ以外にも自分が想像していたマドンナとの落差が大きいこともあった。いずれにしても、憧れのマドンナと初めて会話を交わした遼であったが、魂が震える感動を味わえなかったのは事実である。それは三国丘高校に対してもそうだった。都会にある高校だから、北高のような洗練された自然の恵みを期待できないのは当然であるとして、それ以外にも心を躍動させるものが見当たらなかった。

 ―――伝統ある三国丘高校だ。徐々に見つかるだろう。

 漠然とした淡い期待を抱いて、遼は一年二組のクラスメートに自己紹介をしたのだった。

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