第17話 サマーキャンプin堺
終業式当日はさすがに落ち込んでしまったが、北高との出会いが遼を回復の〈気〉で満たしてくれたのか、一夜明けると、少し後ろめたくもあったが、転入決意時にも劣らぬ気力が全身にみなぎっていた。感傷に浸る余裕は、確かに今の遼にはなかった。一カ月後の八月二十四日に、当面のビッグハードル、北高の転入試験が待ち受けているのだ。英・数・国の実力アップ。わずか一カ月で一層の磨きをかける必要があった。
七月二十五日から二週間、遼は堺南部に位置する密教の名刹・法導寺の宿坊を借り、文字通り修業に励んだ。清嵐の一年十組にライバルと目すべき野武士然とした男たちがいて、彼らが夏休みを利用し、法導寺で合宿生活を送ると耳に挟んだ。三人は長身の鍋島、温厚な豊田、それに天然ウェーブのハンサムボーイ中田だった。豊田家が法導寺の檀家、この縁で無理が通り宿坊利用が可能となったのだ。鍋島は清嵐トップの実力を誇り、四回のテスト中、遼が唯一勝てなかった生徒だった。他の二人もいずれ劣らぬ強豪で、平均すればトップスリーに入っていた。この清嵐の実力者たちに揉まれてみよう。あわよくば鍋島を負かし、清嵐トップの実力を引っ提げ嵯峨野北高に臨みたい。遼のキャンプ参加意図だった。
四人はジャーや米などを持ち寄り、法導寺で二週間、完全な自炊生活を送る決意だった。鉢ヶ峯山にある密教寺院。俗世間から隔絶した生活を望むサムライには格好の舞台で、三匹のサムライが四人になってしまったが、各々が強い決意を胸に秘め、期成同盟を結んだのだった。
四人の戦略基地、ヘッドクォーター(大本営)のある宿坊は寺院の南端、シャクナゲの群れ茂る離れの二室だった。六畳間に二人ずつ入り、起居をともにした。台所は別棟にあり、その日の当番が六時半に起床し調理を担当、遼以外のもう一人が片付け当番だった。遼は原チャでの買い出しが役目で、二キロ先のスーパーが調達基地であった。
キャンプの二日前、終業式の二日後でもあるが、遼は原チャの免許をとった。移動に必要、しかも簡単便利が免証取得理由だった。実技テストなしの筆記試験オンリーで、急場凌ぎの徹勉(徹夜勉強)対策だったが、運良く免証はころがりこんできた。キャンプの成果次第ということになるが、成績が予想を超える上昇を示せば、遼はキャンプ後、小型二輪免許にも挑戦するつもりだった。神明峠越えは厳しく、時間との闘いでもあるのだ。原チャで挑むのはドン・キホーテばりの暴挙で、弾き飛ばされるのは目に見えていた。攻め落とすには二半(二五0cc)か、最低でも一二五(cc)は必要であった。
この時期、遼は自分でも呆れるほど無理なスケジュールをこなしていた。中学時代、肉体的には過酷でも、時間はあった。ひねり出せばどこからか出てきたものである。ところが今は出しようがないほど時間がなかった。知的作業における時間欠乏はメンタルプレッシャーを極端に押し上げる。共有し、牧歌的解消を図れるチームメイトもいない今、まさに孤軍奮闘であったが、弱音を吐き投げ出し逃げ出すことは決してなかった。転校、そしてマドンナの獲得。この構図を描き出した心は、驚くほどたくましくしなやかに課題を処理していった。やれば出来る。およそ困難と考えられることも、必ずやれば出来る。遼は、転入決意からこのことを学びとった。
小鳥がさえずり、セミの声はかまびすしいが、ベースキャンプ・法導寺での生活は、快適で規則正しいものだった。未開人の如く自然を軸とする生活なのだ。スマホは定時にしか電源を入れないことにしていたので、遼は雑多なニュースやメールに接することはなかったが、時折、中田と鍋島から必要な情報がもたらされた。テクノクラート中田はネット愛好者で、仲間との交信を欠かさなかったし、鍋島は住職との囲碁が日課だった。食事中や休憩時の二人からの又聞きであるが、遼は必要な知識が欠乏することはなかった。
学習リズムは各自の工夫に委ねられ、銘々オリジナリティーに富むタイムテーブルであったが、遼のリズムが一番安定していた。英・数・国の三科目。これオンリーなのだ。マジカルナンバーの威力発揮であろうか、抜群の安定感だった。まず朝食後の九時から十二時までがファーストメニューの数学。数Ⅰ・数Aに分配し、二次関数と因数分解を重点対策。参考書は赤チャートを読み込んだ。昼食後の二時から五時の三時間は、暑さダレして超低効率の時間帯。遼は国語をここに当てた。現国の問題集を解いて、残りは古典を読んだ。枕草子と徒然草、伊勢物語を完全マスターの意気込みだった。当然のことであるが、読んでいて一番興味深いのは伊勢物語だった。男が八尾の高安まで女に会いに行く件(くだり)など、マドンナを手に入れるために嵯峨野へ通う、まるで我がことのように思えたほどだ。
枕草子も好きだった。もっとも好きになった理由は不純なもので、清少納言のおつに澄ました利発さ。これが沢中千鶴を連想させ、形の良い彼女の乳房が闇に浮かんだからだった。
古典に親しむ昼の暑い時間は、多宝塔への渡り廊下に座り机を運んだ。そこにいるとセミの声も風流で、いにしえの世界にいざなわれる気分なのだ。
スリーサイクルのラストサブジェクト。もちろんイングリッシュで、夕食が終わって七時から十時までの三時間をこれに当てた。終われば、シャワーを浴びて就寝だった。
法導寺キャンプ参加は戦略的に見て、一抹の不安を呼び覚ますものであった。母もダメージを強調し、最後まで反対の立場だった。
「友達と一緒に勉強したりすると、必ず誰か足を引っ張る人が出てくるものよ。中一の勉強会で懲りたって言ってたじゃない。ね、だから家でしなさい」
照子の説得に、一度は遼も脱退を決意したが、結果的には初志貫徹が幸いをもたらしてくれた。得られた成果は計り知れず、自宅学習の比ではなかった。小学校時代の親友楠田に会えたのも、サマーキャンプ参加ならではのことだった。小三のとき堺へ引っ越したサッカーのチームメイトで、現在、国立の附属高校へ通う俊英だった。小四、小五の二年間は彼の家に泊まり、壮麗な蒲団太鼓が練り歩く百舌鳥八幡の秋祭りを楽しんだが、最近はたまに電話をかけ合う程度で、現物披露は五年振りのことだった。
鉢ヶ峯山を下り、懐かしの親友に会いに行ったのはキャンプ終了前日であった。遼は背中のDバッグに密書ならぬ、数学の難問を忍ばせていた。楠田に、鍋島も自分も解けなかった問題を解かせ、自分たちとの実力差を計るつもりだった。キャンプ後半に入って、鍋島と遼の実力は逆転していた。彼が解けない問題の大半を遼は解答できたが、遼の解けない難問は鍋島もお手上げだった。
―――もう、鍋島には負けない。
遼の内に、確信に近いものが形成されていた。
ファーストメニューの数学終了後、昼食を済ませて、三十九年前製造の骨董バイク・ホンダベンリイS50に股がり法導寺を出る。ハリマオの吹田倉庫に陳列されていた、メンバー寄贈の現役引退バイクだったが、父が手を入れると力強いエンジン音を響かせ現役復帰をアピールしてくれたのだった。スーパースポーツとして華々しくデビューしただけあり、このベンリイはゼロ半とは思えぬシャープな走りを楽しませてくれるのだ。シールドを上げ、夏の風に吹かれながら泉北ニュータウンを抜け、自然林と見紛う―――大木の生い茂る百舌鳥八幡境内に着く。この境内の森裏が、楠田家の家族四人の住み処だった。
「やあ! 久っさしなー。何年振りやろ」
門を入った左手の部屋から、小太りの楠田が懐かしい愛嬌顔を覗かせる。昨日クーラーが壊れてしまったとのことで、額にアイスノンをくくりつけて勉強していた。
「せっかく来てくれたのに済まんな。電気屋のおっさん、なかなか来てくれへんねん。ほんまに暑うてたまらんわ」
ランニングシャツの体を団扇であおいで口をとがらせた。
「そやけど、八幡さんの森のおかげで、まだましなんやで。ちょっとセミの声がうるさいけどな。―――いま、麦茶入れるわな」
久しぶりの親友を気遣い、今日の楠田は饒舌だった。神社の森にくっつくように建つ部屋で、遼はもっぱら聞き役に回っていたが、しばらくしてこれまでの経緯を話し出すと、
「そうか、頑張ってんやな。そやけど三国丘高校への転入は難しいで。嵯峨野北高校で相当ええ成績おさめんとアカンやろ。半年たってまた大阪へ戻るんやったら、清嵐高校へ転入するのが筋やさかいな。それを強引に三国丘へ入りたいちゅうんやから、よっぽどの成績でないとな」
厳しい状況を、楠田は的確に分析する。
「うん。その通りなんだ」
遼は百も承知で、覚悟の上だった。〈目標、北高でのトップ!〉テレビCMではないが、並々ならぬ決意が覚悟の発現であった。
「それはそうと、さっき言うてた数学の難問、どんな問題や。ちょっと見せてんか」
楠田は差し出された問題集を受け取ると、机に向かって解き始めたが、遼の時間潰しの伊勢物語読み込みが一段も進まないうちに、
「出来た! 出来たで! ―――しっかし、難問やなー」
首をひねって感心しながら問題を読み直している。遼は時計を見て呆れてしまった。鍋島も自分もあれほど手こずり、解説を読んでやっと理解できた、〈難〉字マーク付き二次関数の移動問題なのだ。十分以内の解答は神業といってよかった。
「‥‥‥お前。一体、学年で何番だ?」
遼の口から素朴な疑問が飛び出す。余りの実力差に不安を覚えてしまったのだ。
「一応、一番や」
涼しい顔で答え、楠田は顔の汗をバタバタと団扇であおいでいる。
―――どうりで‥‥‥。
親友の仕草に、遼は苦笑いを浮かべてしまった。つくづく、上には上があると思い知らされた。
寺へ戻って鍋島に楠田のことを話すと、
「すごいヤツやな。俺ももっと勉強せんと。草野が抜けるんで、清嵐での俺のトップは安泰やと安心してたけど、そんなヤツの話を聞いたらウカウカしてられへんわ」
シャクナゲの群生前で、鍋島は座り机の雑誌を閉じて気を引き締めた。
「俺もベストを尽くすから、お前らも頑張ってくれ。三年後には同じ大学へ入って、一緒に旅行でもしよう」
遼は鍋島と豊田に決意を述べた。間もなく彼らとも別れなければならない。わずかの期間だったが、法導寺で過ごした日々は生涯忘れることはないだろう。いろんな友と出会い、そして別れていく。さまざまな体験を通して、自分も確実に大人に近づいている。蚊取り線香の煙る部屋で、二人を見ながら、そう思った。
法導寺での二週間が終わり、ベンリーに跨って久しぶりに我が家の門へたどり着くと、
「お兄ちゃん。お帰り、お帰りー」
愛が庭先から、元気良く迎えてくれる。
「お帰り。よく勉強できて?」
玄関から母も顔を出す。
「うん。まあまあ、かな」
返事は控え目だったが、充実した二週間が日焼け笑顔に現われていた。
「荷物はお母さんが運ぶから、少し愛ちゃんのお相手をしてあげて。あなたの帰りを、首を長くして待っていたんだから」
「うん。―――そら、愛」
遼は妹を抱き上げると、バイクのシートに乗せた。
「そこ、触っちゃ熱いから。気をつけろよ、愛」
アップのマフラーに、妹の素足が触れないよう注意する。
「お兄ちゃん、ここも熱いわ!」
ガソリンタンクに右手を載せて、妹は可愛い悲鳴を上げてはしゃいでいる。彼女の左手には、綺麗なサルスベリの花が握られている。兄に抱かれながら門を下りるとき手折ったものだろう。
青々と茂った木を見上げると、鮮やかなピンクの花がまぶしかった。ほんの数ヶ月前まで、葉のない痛々しい体をさらしていたのが嘘のようだ。
―――長い冬を耐えて、こんなに美しい花を咲かせたのに‥‥‥。
間もなく花を落とし、寂しい姿に戻る。ピンクの花びらを見つめていると、可奈子の涙の顔が瞼に浮かんでくる。早世、余りにも早い死だった。まるで遼に抱かれ愛されるためだけに生まれ、そして消えていった。
―――生涯おれの胸で生かしてやろう。
そうすることが自分の義務なのだ。将来結婚して女の子が出来たら、可奈子という名をつけよう。
―――しかし、怒るだろうな‥‥‥。
遼の顔に苦笑いが浮かんでくる。可奈子の顔が、マドンナに変わってしまったのだ。彼女はプイと横を向いて、ふくれっ面をしていた。
「お兄ちゃん! お父さんのように走って、走って!」
ぼんやりとサルスベリを眺める兄を、愛が自分の方へ呼び戻す。
「家の前だけだよ。お巡りさんに叱られるから」
妹に念を押してキックを踏むと、遼は自分も心行くまで、石段下の道を何度も往復したのだった。
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